「礼拝を重んじる心」ヘブル12:25-29 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

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ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

■「礼拝を重んじる心」ヘブル12:25-29

1.神様に喜ばれる礼拝

ローマ帝国からの迫害に苦しむ初代教会にヘブル書は

「全ての人と平和を保ちなさい」と教えました。

そして平和を築くとは、神の聖さを求めることであると教えたのです。

神様が与えてくださるものに信頼し期待することが、

平和の始まりになっていくのです。

そして先に28・29節に目を向けるのですが

「このように揺り動かされない御国を受けるのですから、

私たちは感謝しようではありませんか。

感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、

神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。

12:29 私たちの神は焼き尽くす火なのです。」


へブル書が様々な言葉で語ってきた結論が

ここに一つ示されていると言えるでしょう。

「神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか」

迫害下にある教会を様々な言葉で励ましてきたのですが、

その行きつくところは礼拝。

「神様に喜ばれる礼拝」を捧げること、

そこに生きることがあなたたちの勝利である。 

何度も申し上げたように、礼拝は英語で

ワーシップ・サービスと言う訳ですが、

そこで「サービス」という言葉を勘違いしてはいけない。

会衆がお客さんのようになって

サービスを受けるのが礼拝ではありません。

私たち礼拝者一人一人が神様にサービスをする。

神様に喜んでいただける礼拝を心を込めてささげる。 

ですから、私たちが歌っていて気持ちが良い、

楽しくなる音楽が礼拝賛美ではなく、

神様が喜んでくださる音楽が礼拝賛美である。

皆さんが喜ぶ話しが礼拝説教なのでは無くて、

神様が喜んでくださるのが礼拝説教である。

全てにおいて、私たちは礼拝を通して神様に奉仕をする。 

そうやって私たちの思いが満たされるのではなく、

私たちが神様の喜びとなっていく時に、そこに私たちの力があり、

喜びがあり、望みが生まれる。

神の被造物である人間にとって、それが原点なのです。

25節ではこのように教えられています。

「あなたがたは、語っておられる方を拒まないように

気をつけなさい。地上において、警告を与える方を拒んだ

彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、

天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、

なおのこと処罰を免れられません。」


語っておられる方と言うのはこれはイエス様のことであります。

イエス様の言葉をちゃんと聞いていなければいけない。

ましてや拒むようなことがあってはいけない。

そのことが礼拝において問われている。 

私たちはイエス様の言葉を喜びとして聞いているのかどうか?

20世紀の大神学者カール・バルトという牧師が

まだ若い30歳の時に語った「人々を満足させる牧師」

という説教があります。

非常に厳しいことを書いておりまして、

「愛する教会の皆さん、皆さんは心の中に開いていて

ほとんど口に出しかかっている願いがあるでしょう。

その願いに今日お答えします。

あなたがたの中で10人いたら、その内の9人までは

この願いを持っている。その願いとは何か?

私に偽預言者になってもらいたいと思っていることです」

偽預言者とは神の言葉を取り次ぐのではない。民が望む言葉を語る。 

つまり、バルトはこの教会の9割の信徒は

私が神の言葉を取り次ぐのではなくて、

自分たちが望む言葉を語ってくれるように期待していると、

若干30歳のバルトが教会でこのように語ったというのです。 

心探られ戒められる言葉です。
 
ある社会学者が最近話していたのですが、現代は情報が溢れていて、

動画でもテキスト形式でもネットでいくらでも情報が得られる時代。

だからこそ本を読むこと、本を買うことの重要性があるというのです。

ネットで無料で幾らでも情報が得られる。

その時に例えばyoutubeで動画を見ている。

20分の動画だとして、3分経ってつまらないと

思ったらもう消してしまう。

10分聴いて自分の関心や自分の求める方向性と違ったら消してしまう。

けれども買った本はそうはいきません。

お金を払って買ったわけですから途中で難しかったり、

違うだろと思ってもよっぽどでない限り最後まで読む。

そうやって、自分の納得のための情報ではない、

成長したり、変化したり、本当の意味での情報体験ができるというのです。 

礼拝も正にそうです。私が30分の説教をお取次ぎする。

途中退屈したり、違うだろと思ったり、色々のことが

あるけれど最後まで聴き通した時にやはり自分の中からは生まれてこない、

外から。神様からのお語り掛けがある。

自分の安易な満足で聞くのではない。

神様の喜びとなる言葉を聞き続けることで、

私たちの内に本当の喜びが生じるのです。

2.神を恐れる

さらに「敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげよう」、

ここに「恐れ」と言う言葉があります。

「神を恐れる」ということを聖書は繰り返し教えていますが、

新改訳聖書はこのように「恐怖」の「恐」という言葉を使います。

新共同訳聖書は「かしこまる」という漢字の「畏れ」を使います。

恐らく一般的に考えたら「神をおそれる」と言うことの意味は

「かしこまる」の漢字で現す「畏れ」があてはまるだろうと思います。

しかしながら、だから新改訳聖書が訳した「恐れ」という漢字が

まったく見当はずれであるのかと言えばそうは言えないと思います。

29節には「私たちの神は焼き尽くす火なのです。」

という言葉がありました。

これは申命記4:24に記されている御言葉

「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである」

を引用した言葉です。 

出エジプトの渦中にあってモーセは

「主はご自身の御名を汚し、御旨に逆らう者を、

イスラエルの民であっても焼き尽し、滅ばしてしまわれる」

とイスラエルの民に語りました。

十戒を守り重んじる祝福と共に、そのことを忘れるならば

あななたちに何が待ち受けているのか、

厳しい裁きの言葉を持ってイスラエルの民が

正しく神様を礼拝するようにと戒めたのです。 

その言葉をヘブル書の記者は初代教会のキリスト者たちに語るのです。

非常に極端な対比です。



一方において礼拝を捧げることの喜びを語り、

一方で礼拝を忘れた者に対する焼き尽くし滅ぼす裁きの火を語る。

どちらを選ぶのか。脅されている、

脅迫されているような思いがするかもしれません。 

けれども、ここで私たちは脅しとしての恐怖を

突き付けられているのではなくて、

事実私たちが生きている場所、私たちが存在している

場所の危うさに恐れを抱くことを聖書は親切に教えてくれている、

そういう風に読むべきでありましょう。


3.神様に創られながら、神様の御心に生きることができない

私たちの罪の問題


 19世紀アメリカの信仰復興運動の代表的伝道者

ホイットフィールドをはじめ、この頃の説教集を読みますと、

説教の内容は「罪、世の終わり、最後の審判、地獄、滅び」

そうしたことが中心になって、正に火が出るような

メッセージを語っていることに驚きます。 

もちろん、時代にあった切り口で語ることは重要で、

現代同じように語ったからといって、恐らく

人々の心を捉えられる訳ではないだろうと思います。

しかし一方で、人間の現実を容赦なく、ありのままに

明かしていくという預言者としての務めの重要性は

今日においても変わらない。

いやむしろ今日においてこそ求められていると

言えるのではないでしょうか。 

現代の教会において、ホイットフィールドが語ったような

罪とか、裁きとか滅びとか、そういうことが語られる

機会があまりにも少ないと言われます。

そんなことを聞かされるのなら教会に行きたくない、

という人がたくさんいるのかもしれない。

そして、そういう聴衆を恐れて、癒しとか慰め平安、

耳当たりの良いことばかりを語る説教者の問題もあるでしょう。

正に、バルトが指摘した偽預言者の問題です。 

でも、そうやって慰めばかりが安易に語られても、

どこかでみんな、薄々気付いているのです。

自分がいかに救いようの無い存在であるか。

癒されようの無い、慰めようの無い、救いようの無い人間であるか。

そのことをどこかで知っていて、だからこそ

「そんなこと言わないでほしい。大丈夫だと言って欲しい」

と願いながら、しかし一方で偽物の言葉に救われようの無い思いもする。

例えば、お家の人からいつも「あなたはイイ子だ」と言われて、

何か友人関係で問題が起こると

「あの子が悪い。あなたはイイ子だ」そうやって

育てられてきたお子さんは、当然人間関係は上手くいかない。

何か起こるといつも人にせいにしてしまうから、

結局みんなに避けられてしまう。

そういう時に、その子が本当に求めている言葉はなんでしょうか。

心の奥底においては「あなたは間違っている」

と言ってもらいたいのです。

あなたのしていることはいけないよ、

友達が悪いのではなくてあなたが悪いんだよ。

その上で「でもこうすれば大丈夫だ」、

そうやって正面から間違いを指摘すると

そこに不思議な信頼感が生まれるということがあります。 

「多くの日本人は「イイ子、イイ子」と言いながら、

 子どもを悪い子に育ててしまう。

 イイ子・イイ子と子ども可愛さに子どもの問題、欠点、

 罪の心を見過ごしにする時に、結局子どもは正反対に育ってしまう。

 人間はオギャーと生まれたその時から罪を持っていると

 聖書に教えられています。

 そのことを前提として、罪を抱えた人間がどのようにして

 神様の聖さに与っていくか、それを真剣に考えるのが親の務め。

 親の愛情と言えるでしょう。


 ここでヘブル書は私たちにはっきりと語っている。

 喜びに生きる礼拝者としての道、そこから外れ出る時に

 私たちの魂を焼き尽くす炎がある、そのような二つの道。

 それは、神が私たちを怒って焼き尽くすということ以上に、

 そもそも私たちの置かれている状況、私たちの存在は

 そのような滅びに向かってまっしぐらのものである。

 放っておいたら、自分で燃え盛る炎の中に

 飛び込んでいくような存在である、これが現実なのです。 

 本当の救いというのは、まず私たちが自分の立っている

 その現実の場所を認めることからしか始まらないでしょう。

 今いる場所を誤魔化してしまったら、どこに向かうべきかは

 益々分からなくなってしまう。

 26節にはこのように語られています。

「あのときは御声が地を揺り動かしましたが、

 今は、こう約束しておられます。

 「もう一度、わたしは、地だけではなく天も揺り動かす。」


天地が揺り動かされる時が来る。地だけではない、

天をも揺り動かされるような時。私たちが普段自分の危うさを

誤魔化している様々な事柄がみんな露わになる。

みんな倒れてしまう。そうやって、振るいにかけられて

27節
「この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが

残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが

取り除かれることを示しています。」


天地が揺り動かされ、振るいにかけられることによって、

本当に揺り動かされることのない一つのものだけが残る。

それ以外の物はみんな倒れる。 

こういう風に言われて、あぁ私は大丈夫だと思うならそれで良い。

でも後になって、困った時に

「知らなかった。聞いていなかった」は通用しない。 

「大丈夫、大丈夫。何とかなる」、そうではない。

何とかならないような問題を私たちは抱えているのです。

神様に創られながら、神様の御心に生きることができない

私たちの罪の問題は深刻です。

創造主の意にそぐわない私たちの存在が、

燃え尽くす火に向かっていることは事実である。

しかし、そのような私たちの前になお祝福に繋がる道もちゃんとある。

命に繋がる道がある。 

イエス・キリストが、滅びに向かいまっしぐらであった私たちの前に、

十字架を持って立ちはだかってくださった。

私たちを命に向かわせるためにご自分の命を犠牲にしてくださった。

24節にあるように

「新しい契約の仲介者、キリストがおられる」、

そこで、あなたはどちらを今選ぶのか。

命か死か、祝福か呪いか。

4.ピューリタンの信仰

結婚式で指輪の交換があります。 

けれども、17世紀イギリスに生まれた教会改革運動、

ピューリタン・清教徒たちは結婚式での指輪の交換を

嫌がったと言われます。なぜか。

ピューリタンの信仰というのは、宗教改革以後も

形式ばかりを重んじて内実が伴わないイギリスの国教会に対する

激しい抵抗に始まるものです。

彼らの改革運動の中心は礼拝改革にありました。

本当に神の喜びとなる礼拝が追求されてはいない。

私たち人間の都合の中で神様を利用して、礼拝を権威づけている。

そういう礼拝に対する危機意識が、イギリス国王など

国家体制に対する反発にも繋がり、やがて彼らは

アメリカに移り住んで新しい信仰の世界を創ろうとした。

それは正しい礼拝、神様の喜びとなる、神様にサービスする

礼拝を求めてのことでありました。

そういう彼らが、例えば結婚式での指輪交換を嫌がった。

そこでもまた、直ぐに私たち人間の心が形式的になるからです。

指輪と言う契約の現れを見ながら自分たちが夫婦であることを確認する。

そうやって印に安心することで、契約の内実に

無責任になっていく私たち人間。

けれども神様の前で、夫を愛する、妻を愛すると約束した以上、

妻と夫と形作る家庭生活を通してその契約の真実を現すこと。

現し続けること。 そのことを誰よりもまず

神様の御前に為していかなければいけない。
 
ピューリタンの礼拝を重んじる心、そこに命を見出す心が

新たな国家を生み出す程の力になり、

また生活の細部に至るまでの真実を要求するものとなっていった。

私たちもその信仰の系譜の中にあることを覚えたいと思うのです。 

揺るがないお方に繋がり、属すること。

祝福に繋がる者であることを、それほどに徹底して喜びとしたい、

望みとして歩みたいと願うのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

 Peace, Love and Understanding

 今、ここにある幸いに感謝しよう。