「主のくださる道を」ヘブル12:4-13 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

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ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

■「主のくださる道を」ヘブル12:4-13

1.状況に応じて経験する様々な困難に正面から向き合う


先週はヘブル書の中心聖句と呼べる1-3節を学びました。

終わりの見えない迫害の中におかれた初代教会のキリスト者に

与えられた励ましと希望の御言葉、私たちも大いに

力づけられる御言葉でありました。 

しかしながら、今晩の4節以降は一転してまことに

厳しい響きを持った御言葉が記されております。

「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで

抵抗したことがありません。」

出口の見えないトンネルの中で苦しんでいる

初代教会の信仰者たちを、キリストの忍耐を

手本にして励ましたのに今度は一転して

「まだあなたがたは罪と真剣に戦ったことは無い」

と厳しい叱責が浴びせられる。 

もし自分が終わりの見えない苦しみの渦中にあって

「あなたはまだ罪と戦って、血を流すまで抵抗したことが無い」

と言われたらやはり辛いだろうと思うのです。

 先週は「競争」という言葉が、長距離走・マラソン

のような競争を現す言葉だと申しました。

今日の4節においては、今度は「戦い」という言葉が使われる。

この「戦い」とはボクシングのような格闘技を現す言葉のようです。

この時代にも今でいうボクシングのような

競技があったそうでありまして、やはりグローブをつけている。

けれども、今のボクシングのグローブは

素手で殴ることが危険であるから、双方の肉体を守る

意味でつけられるわけですが、この時代のボクシンググローブは

逆の意味を持っていたようです。

パンチをより強いものとするために、そこに金具などをつけて

相手に血を流させるための武器であった。

そのような命のやり取りと言えるような格闘技に、


ヘブル書は私たちの罪との戦いを準えているのです。 

私たちの罪との戦いは、打撃を吸収する

グローブをつけたスポーツのようなものである。

もちろん、スポーツ選手は競技のために必死に努力をいたします。

それでも命を奪い奪われるような戦いとは違います。 

明らかにここで言われている

「罪と戦って血を流すまでの抵抗」とは

イエス・キリストの十字架のことであります。

先週学んだ2節において

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」

と教えられていました。

私たちが見つめ続けるべきイエス様は、

正に私たちの抱える罪と戦い十字架で血を滴らせ、

そのようにして最後の最後まで罪に屈服すること無く戦い抜かれた。

このお方の戦いに比べた時に、初代教会の人々の戦いは

柔らかいボクシンググローブをつけるようなものである。

だから、あなたたちの経験している戦いは遊びであって無意味だ、

というのではありません。やはり物事には段階がある。


 神学校において、説教の学びというのは

いつの時代ももっとも厳しい訓練を受けることであります。 

牧師をしている父親から聞いた話しですが、

ある時、父のクラスメートが授業で説教の演習をしました。

それはそれは素晴らしい説教で、いつも厳しい

批評をする学生たちが皆口を揃えて

「素晴らしい賜物だ」と評価したそうです。

しかし最後に批評をする説教学の先生が一言

「私はこの説教を知っている」とおっしゃったそうです。

その学生さんは説教の演習の厳しさ、プレッシャーに負けて、

ある説教者の説教を写してしまった。

先生はそれを見抜かれ、皆の前で学生の不正を指摘されたのです。

結局その学生さんは神学校をお止めになったそうです。 

父はその一部始終にどうしても納得がいかず、

後日説教学の教師の部屋を訪ね

「先生のやり方は間違っているのではないか。

なぜ皆の前であのような言い方をしなければいけなかったのか。

彼との個人的な場で戒めれば、もっと違う

解決の道に向かったのではないか」と訴えたそうです。

けれども、先生は最後まで父の言葉を受け入れなかった。

「あなたたちがこれから教会に遣わされ講壇を

守っていくことの厳しさは、授業での説教の演習の比ではない」

とそのように戒められたということでした。



私たちは状況に応じて様々な苦難・困難を経験いたします。

そういうことが、比較して小さいこと

取るに足りないことというのではありません。 

子どもたちの悩みは、大人が社会で経験する

困難に比べたら小さいと思えることであったとしても、

子どもたちの力・知識・限界の中では

押し潰されてしまうような厳しい課題である。

困難や苦しみを比較することなどできません。

だからこそ、私たちは自分の目の前にある課題、

問題、試練、困難に正面から向き合っていかなければいけない。


2.経験する苦難が、全て神様の支配のもとにある

5節から

「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように

語られたこの勧めを忘れています。

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。

主に責められて弱り果ててはならない。」


主の懲らしめ。

あたかも初代教会が経験している迫害が、

彼らの失敗や罪の罰であるかのような印象を受けますが、

そういうことではありません。

彼らが経験している苦難が、全て神様の

ご支配のもとにあるということです。 


あの旧約の偉人ヨブをサタンが苦しめようとした時に、

サタンはまず神様の所に行って許可を求め、

神の許しの中でヨブの下に行ったと記されています。

つまりそれは、サタンといえども神様の許しを超えて

人を苦しめることは出来ないということです。

神が許しておられるとは、つまり私たちの身に起こることは

全て私たちに耐え得る試練、苦難であるということ。

パウロがⅠコリント10:13で言いました。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。

神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの

試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、

試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」


サタンは悪意を持って私たちに近づいてくる。

けれども、それらは全て神の支配下に置かれていることなので、

神様はサタンの試みをもご自身の良き業として

用いることがお出来になる。

7節
「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを

子として扱っておられるのです。

父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」


訓練である。私たちが成長していく、

強くなっていく上でちょうど良い訓練。

それはちょうど親が子を思い、必要だと思う懲らしめ

~これは鍛錬という意味の言葉でありますけれども~

親が子を思ってする鍛錬する。

その後に記されているように、もし鍛錬しない親がいたとしたら

それは親ではないのです。 


過保護がしばしば問題になる時代です。

親は子を心配して、大事に扱うつもりでついつい

過保護になってしまうのですが、

しかし過保護が子どもに与えるメッセージというのは常に否定的です。

親は可愛がっているつもり、手取り足取り世話をするのですが、

結局そこで子どもが得るメッセージと言うのは

「あなたは自分では出来ないのだよ。お父さんが、

お母さんがいなければ生きられない子どもなんだよ」

これが過保護において子どもが受け止めるメッセージです。 

本当に子どもを愛するということは、

例え失敗することがあっても、躓くことがあっても、

それでもあなたは大丈夫と信じること。

信じて応援すること、支えること。

そういう鍛錬の中で子は成長していく。 

ですから親は子にとってちょうど良いと思える鍛錬を与えるのです。


そして10節

「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと

思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、

私たちの益のため、私たちをご自分の聖さに

あずからせようとして、懲らしめるのです。」


人間の父は良かれと思ってそうやって子を訓練するけれども、

でも実際のところ間違えることもある。

けれども、私たちの人生に訓練を与えてくださっているのは神様である。

父なる神様が、私たちをご自身の聖さに与らせるために

私たちの人生に介入してくださっている。

そのような約束の内に歩むことができる

私たちはなんと幸いな者でしょうか。 

なぜこんなことが、どうして自分だけが、そうではない。

私たちキリスト者はあらゆることを

神様が私たちに良かれと思って与えてくださっている

訓練・鍛錬として、今起こっている

一つ一つのことに向き合うことができる。

こういう幸いな約束をいただきながら、

なお目の前の鍛錬に向き合えなかったならどうでしょうか。 

私たちはどこかで今起こっていることの不当性を

主張したくなってしまいます。

子どもたちと関わっていると、そういう場面がしばしばある。

厳しい状況にある子どもさんが、

「どうして私だけ、みんなと違うのですか」と、

そういう問いを正面からぶつけられることがあります。

答えなどもちろん私は持ち合せておりません。

そこで大人のずるさでいい加減なことを言えば、信頼関係は崩れます。

なぜなのだろうか、一緒に悩み苦しむ他無いことです。

そうやって自分の身に起こる固有の苦しみ、

そのことがなぜなのか、不当ではないか、どうして私だけ、

と言っている子どもさんが段々成長することの中で、

そういう状況の中に、家庭環境の中に自分の人生を見出して

いかれるようになっていかれる。

「なぜ?」という問いの中での足踏みを止めて、

そこに生きるようになっていかれる。

3.主のくださる道を

 12節「ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。」

今この場所、この状況に立てないと言っている

あなたのおれ曲がった膝をもう一度真っすぐにしなさい。

今、ここにしっかり立ちなさいという神様のご命令です。

結局、私たちは今という時に立つことができなかったら、

この先もダメなのです。

神様はいつも「今」私たちに必要な訓練・鍛錬を与えてくださっている。

その今与えられている鍛錬に対して、

あれこれ理由をつけて向き合うことができないならば、

この先に起こる出来事の中でも私たちの取る態度は同じである。 

神学生には神学生の苦労がある。牧師には牧師の苦労がある。

もし神学生として立てない色々な事情を言うのならば、

牧師になってその責任を担うことはできないのです。

子どもの時に子どもとしての課題に向き合えなければ、

大人になった時に大人の課題に向き合うことはできないでしょう。

子育てをしている時に、子育ての課題に向き合えなければ、

子育てを終えた時に訪れる新たな課題には向き合えない。

壮年期に壮年としての課題に向き合えなければ、

老年期に老年の課題に向き合えない。

老年期の課題に向き合えなければ、

死を前にした時の課題に向き合えない。 

今、私たちが神様が与えてくださっている

もっとも相応しい鍛錬をどのように受け止め、

その中でどのように生きているか、そのことが私たちの人生の全てである。 

ですから13節

「また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。」

このところは幾つかの翻訳がありますが、

恐らく「真っすぐな道を作りなさい」という言葉は

新共同訳聖書が訳すように「真っすぐな道を歩きなさい」

という意味であろうと思います。 

足が弱っている。もう関節が外れそう。この道は私にはあっていない。 

そうやって言い訳をしているのではなくて、

弱ったあなたの足が関節を外してしまわないために、

むしろ歩きなさい、真っすぐな道を。 

真っすぐな道とは、神様が備えてくださった

今目の前にある道のことです。

止まること、道を外れることの正当性を主張する私たちに対して、

いや違う。この道を歩くことこそが、

むしろ弱った足を痛めてダメにしてしまわないことなのだ。

弱っているからこそ、この道を歩きなさい。 

弱っているから歩かないのか。

違うでしょう。弱っているからこそ歩かなければ。

そのために一番良い道を備えているではないか。


 今日主は問うておられる。あなたは、

今目の前にある道を、私が備えた相応しい道と信じるかどうか。

私には合わない、不当な道だと決めて立ち止まるのか。

どちらであるか。 そこで私たちはもう一度2節に

教えられているイエス様の姿に戻らなければいけない。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから

目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に

置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに

十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」


イエス様は十字架を前にしてもなお、

目の前に苦しみや痛みを見ておられなかったと先週学びました。

十字架を前にしてなお、イエス様の目の前にあったのは喜びであった。

十字架の先に、十字架の後にご褒美としての喜びが

あるから頑張ったのではないのです。

十字架の只中においても、目の前に喜びがあった。

そうであるならば、私たち一人一人が置かれている

鍛錬においても、やはり喜びがあるということ。

鍛錬の後に、鍛錬の結果、ではない。

その只中に、目の前に喜びがある。

その喜びを見出し味わうこと無しに、

いつか、この先に待ち受けている喜びを求めて頑張ったとして、

その人の人生に神様の祝福は現れない。 

今、この道に立つことによって、

今神様は私たちに喜びを与えてくださる。





 こういう話があります。 

ニューヨークのある通りで風船売りをしている人がいました。

 商売上手な方で、風船を買う人がいない時には、

空へ一つの風船を飛ばしてしまうのです。 

そうすると、通り過ぎる子供たちがその飛んでいく

風船に目を奪われ、風船を欲しがる。 

ある時は赤い風船を、ある時は青い風船を、

ある時は黄色の風船を飛ばすのだそうです。 

それを見ていた、ある黒人の子供がその風船屋さんに質問をしました。

「おじさん、黒い風船も空に飛ばすことが出来ますか?」。

その質問を聞いたその風船屋さんは、微笑みながら、答えました。

「勿論ですよ。風船が浮かぶが沈むかは風船の色とは

全然関係がないですよ。風船の色ではなく、

風船の中に何が入っているかによって浮かんだり、沈んだりするんだよ。」

 青であっても白であっても黒であっても、

飛ぶかどうか色は関係が無い。

風船の中に入っている気体が何であるかが問題なのです。 

風船の色は関係ありません。その風船を与えてくださったのは

神様であり、神様は全ての風船の中に恵みを吹き込んでくださっている。

色んな風船があるけれども、全ての風船は

神様の恵みの中で私たちに与えられていて、

どんな色をしていたとしても高く高く飛んでいく。 

ですから感謝を持って、希望を持って受け止めていくこと。

様々な色の風船を通して、皆さんの人生を神様は

豊かにしようとしてくださっているのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

 Peace, Love and Understanding

 今、ここにある幸いに感謝しよう。