「まことの義を追い求める」ヘブル7:1-19 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

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伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは

川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。


■「まことの義を追い求める」ヘブル7:1-19

1.義と平和の調和

今晩から7章に入ります。ヘブル書の記者は、6章に引き続いて

なおアブラハムについて語ります。

先週私たちは錨を下ろすということで、アブラハムの忍耐の生涯を学びました。

更にヘブル書はアブラハムを通して語ります。

彼を平和のお手本として語っていくのです。 

確かにアブラハムは平和の人と言って良い、

そういう生涯を歩んだ人であります。

旧約聖書には、悲惨な戦いの記録がたくさんおさめられていますが、

アブラハムは戦いを好まない人でした。 

アブラハムというのはユダヤ人の先祖であります。

アブラハムからユダヤ人、イスラエル人が始まった。

そういう民族の始まりとなる人物は歴史上ほとんど例外なく

戦いに次ぐ戦いを勝ち抜いて民族の輝かしい歴史を

拓いていくものではないでしょうか。 

アブラハムはメソポタミヤ地方から遥々旅をして約束の地カナン、

現在のイスラエルに移住しました。

当然そこには先住民であるカナン人が住んでいたのです。

アブラハムはそこで先住民を戦いで打ち破るのではない、

ひたすら身を低くし忍耐を繰り返しました。先週も学んだ通りです。 

今私たちは連続して「ヘブル人への手紙」を学んでいる訳ですが、

このヘブルという言葉は“ヘブル人”とか地名として“ヘブル”というように

「イスラエル・ユダヤ」という言葉と同じ意味で使われますが、

元々は「渡る」「越える」という意味を持っています。 

この「ヘブル」という言葉が聖書最初に使われるのは

創世記14章アブラハムの物語においてです。

先住民のカナン人に対して、アブラハムは「私たちはヘブル人です。

あちらから渡ってきた者です」と遜って使われた言葉。

アブラハムの関わった戦いとして知られるのは、

ソドムに住む甥ロトが捕虜として連れ去られた時に

ロト一族を奪い返すために400人で戦いに出たという

創世記14章の記事くらいでしょうか。

その時にアブラハムはロト一族のみならず、

ソドム・ゴモラ一体で捕虜になった人々、

また奪い取られた財産をも取り返しました。

そしてそれらを当たり前のように、

奪われたソドム・ゴモラの王様に返すのです。

ソドムの王たちは「捕虜となった人々だけ返してくれたら、

財産はあなたの物にして欲しい。せめてもの気持ちです」

というのですがアブラハムはガンとしてそれを受け入れない。

この辺りにも平和の人アブラハムの姿が良く現れています。 

その時の出来事が今晩のヘブル書の御言葉に記されている

メルキゼデクの物語です。

1節
「このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、

アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。」


アブラハムがメソポタミヤの連合国を打ち破り、

ロトをはじめとして捕虜とされたソドム・ゴモラ一体の人々を

救出し凱旋すると、アブラハムの功績を称えて

近隣の王たちが集まってくるのです。

その中にサレムの王メルキゼデクという人物がいた。

彼は「いと高き神の祭司」であったと書かれています。 

創世記を見ましても、メルキゼデクについては

「彼はいと高き神の祭司であった」こと、

そしてサレムの王であったということだけが記されているだけです。

謎の人物であるにも関わらず、このヘブル書においては

メルキゼデクが非常に重要な人物として、

17節を見ますと

「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である。」

とイエスに並ぶような存在として記されています。 

そもそも祭司というのはモーセのお兄さん、

アロンの家系に属する者だけに許された職務であります。

しかしアロンの生まれるずっと前に、いと高き

神の祭司と呼ばれる人物がいた。誠に不思議なことであります。 

メルキゼデクという名は“正義の王”という意味を持っています。

そして「サレムの王」とありますが、この「サレム」という名称

は恐らく後の日の「エルサレム」のことだと多くの学者たちが述べています。

そしてまた、このサレムという言葉はヘブル語

でもっとも有名な「シャローム」「平和」を意味する言葉でもあります。

平和の都サレムを治める王の名がメルキゼデク「正義の王」であった。


ここで一つ私たちが目を留めたいことは、

イエス・キリストに準えられる程の正体不明の祭司メルキゼデク、

この人は義なる王であり、その義を持って平和を形作る王でもあった。

すなわちメルキゼデクには義と平和の調和があったということです。 

義と平和の調和、当たり前のことのようでありますが、

決してこれは当たり前とは言えない。

むしろ、現実は逆であります。

正義を主張する所に起こるのは争いであり戦いと言えないでしょうか。


アンパンマンの作者であるやなせたかしさんは、

戦時中中国に出兵していた時に、食糧がなくて、

お腹が空いて、お腹がすいて、タンポポとか

野草を食べたことがあったそうです。

それは籠城戦を想定して、日本軍が倉庫に食糧を

沢山ため込んでいたからだったそうです。

蓄えるばかりで、食べさせてもらえない。

でも自分たちは正義のために苦しんでいるのだと思って頑張った。

けれども、日本が戦争に負けて帰国することになって、

そうすると今度は倉庫にためこんだ食糧をとにかく食べろ、

無理してでも食べろと上官に命令されたそうです。

このまま倉庫に置いていたら、みんな敵に食糧を取られてしまう。

それは悔しいから、自分たちで残らず食べろ。

これまでお腹がペコペコで辛い思いをしていたのに、

戦争が終わった途端今度は「食べろ」

と気持ち悪くなるくらい食べさせられて。

周りにはお腹を空かせた中国の子どもたちが居るのに、

食べたくも無い自分たちが無理して食べて、

今度は「これが正義だ」と言われる。 

そういう経験の中で、やなせたかしさんは「正義ってなんだろう」と、

そのことを強烈に考えた。そしてその問いの答えとして

アンパンマンを描いたというのです。

やなせさんはこのように書いておられます。

「本当の正義の味方は、自分の持っているパンを

お腹が空いた人に分けてあげる人。ひもじい思いをしている人に、

パンの一切れを差し出す行為を「正義」と呼ぶのです。

正義はある日突然反転する。

逆転しない正義は献身と愛だけです」。




私たちの義、正しさはしばしば自分だけ、

自分の家族だけ、自分のコミュニティーだけ、

自分の国だけの正義である。

そのような自分だけの正義と他者だけの正義がぶつかり合って

戦いが起こるのです。正義によって平和は失われる。 

しかしながら、メルキゼデクは正義をもって平和を為す王であった。

そしてイエス・キリストはメグキゼデクのような祭司であると

ヘブル書は教えるのです。 

聖書は神の義についてしばしば「公議」という言葉を用います。

正義というのは独りで誇るものでは無い。

他者との間、国と国との間にあってお互いが、みんなが認め合える。

その義の下に皆が平和を為すことができる、

これが本物の義・公義であるというのです。

そして旧約聖書に預言された来たるべきメシヤは独りよがりの義、

イスラエルだけの義ではない。

公義をもたらす王であると預言されていました。

一か所だけ引用しますが、

イザヤ書42:3
「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、

まことをもって公義をもたらす。



このような王であり、祭司である方のひな形として

メルキゼデクの存在が語られている。

3節を見ますとこのように記されています。

「父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、

いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、

いつまでも祭司としてとどまっているのです。」


この王にとって誰が父であったか、母であったか、良く分からない。

ただひたすらに神のみを覚える王であった。

そのようなメルキゼデクの前に

4節
「さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。

族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えました。」

先程も申し上げたようにアブラハムというのは

イスラエル民族の父祖となった人物です。

イスラエル人、ユダヤ人であるということは即ち

自分はアブラハムを父とする者、

彼の系図に繋がる者であるということでありました。

そのようにしてユダヤ人が誇るアブラハムが、

父も母も分からない系図も無い者の前に礼を尽くし

戦利品の10分の1を捧げたというのです。

10分の1というのは旧約で規定された神への献げものを現している。 

つまり、神の義に生き、その義を持って平和を現そうとする

メルキゼデクを通してユダヤ人の父祖アブラハムが

神を礼拝したということです。

選びの民の族長が、どこの誰か分からない

メルキゼデクに服するべき神の公義を認めた。

これは特別な意味を持ったことであります。


なぜ私たちの正義がしばしば自分だけの正義になってしまうのか。

自分たちだけの正義になってしまうのか。 

私たち人間はどこかに中心を置いて物事を思考するのです。

その中心の置きどころによって正義もそれぞれに変わってしまう。 

自分が軸足を置く場所、それは家族であったり、

会社、国家・民族・宗教、教会であるかもしれない。 

例えば戦時中に日本のキリスト教界が国家によって

統一され日本基督教団が生まれました。

やがて戦争が終わり、日本基督教団を解体し

それ以前の個々の教派に戻るのか、それとも事情はともかく

せっかく一つになったのだから日本基督教団としての一致を保っていくのか、

判断が真っ二つに別れました。

伊豆においては正に象徴的ですが、

伊東教会はじめ宇佐美教会、熱海教会、

みんな戦前は同じ同盟教団に属していましたが、

戦時中に日本基督教団に統一され戦後も日本基督教団に残る道、

日本の教会の一致を選んだ訳です。

一方私どもは、国家によって強制された一致を良しとせず

元の同盟教団の交わりの独立を選択した。

どちらが正しかったのか。

どちらにも正義があったし、どちらにも事情がありました。 

その時に、当然今同盟教団に属する者は独立した者の正義を主張する。

権力によらない信仰による自立・独立を誇り、

留まった側への不正義の批判をする。

一方で、残った側の正義の主張がもちろんあり、

離れた側への不正義の批判もあるでしょう。 

私たちはそのように自分のルーツを良しとすることにおいて、

現在の自分を良しとすることを望むからです。

自分の寄って立つ場所を中心にして、そこに正義を定めたいと誰しも願う。

そういう意味において、ユダヤ民族はアブラハムの子孫で

あるということを強烈なアイデンティティにしていた訳でありますから、

ユダヤ民族としての正義を手放すことはできなかった。 

しかしここで、ヘブル書が言っていることは「そうではない」、

あなたたちが崇拝するアブラハム自身がどうであったか。

彼は自分のルーツや自分の民族ではなく、

父も母も系図も無くどこでどうやって

生まれ育ったのかも分からないメルキゼデク、

ただ神に仕え、神の義に生きるメルキゼデクを

真の祭司と認めたではないか。彼を通して神を礼拝したではないか。 

そうであるならば、私たちが誇るべき・仕えるべきもまた、

父でも母でも民族でも国家でも無い、

神の下にある義・神がご一方的に現される公義ただそれだけである。 

真の祭司として教えられてきたイエス様もやはり、

祭司の家系であるアロンの血筋・レビ族に属してはおられなかった。

血によらない、系図によらない、神によって選ばれ祭司とされたお方。

このお方を信じるとは、ただひたすら神の義に従うということである。


私たちもユダヤ人と同じように、様々な枠組みの中に生きている者です。

親が居ます、先祖が居ます。国があり民族があり、会社があり。

キリスト教という枠組み、キリスト教のプロテスタント、

その中の日本同盟基督教団というグループの、

川奈聖書教会という集いの中に生きる者です。 

そういう枠組みの有益な所がたくさんある。

しかしながら、そこで私たちが自分の存在を支えている

枠組みに依存するゆえに、その枠組みを肯定するための

義を振りかざすような生き方をしてはならないのです。

 ヘブル書のヘブルという言葉が「渡る」という

意味を持っていると申しました。

私たちは天を故郷としながら、この地上に渡ってきたヘブル人である。

そうであるならば、この地上にあって加えられている

様々な枠組みがあったとして、けれどもその枠組みの正しさを

証明するような、この地上における自分のルーツを肯定するような

生き方に留まってはいけない。 

それはもちろん信仰という枠組みにおいても同じであります。 

私たちが仕えるべきはキリスト教という地上の枠組みや、

プロテスタントを中心とした正義ではないし、

同盟教団の正義などでももちろんない。

川奈聖書教会の正義を主張するために

皆さんが教会員になる訳でももちろんありません。 

そうではなくて、ただ神の下だけにあり

人間の営みには何ら依存しない真の正義・公義に生きるために教会に属し、

教団に属している。その順番が変わってしまったら、

そこにある正義は自分とは違う立場に属する者との戦いを

生み出す偽りの義になってしまう。

2.「成功による失敗と失敗による成功」

教会史の権威ベイントンという人が、教会の歴史を類型しながら

「成功による失敗と失敗による成功」があったということを述べています。

成功による失敗としての類型の代表はキリスト教の国教化。

失敗による成功の代表はキリストの十字架や教会の迫害・殉教である。 

心探られる言葉です。

「成功による失敗と失敗による成功」、こういう歴史の類型がある。

「成功による失敗」の代表として挙げられたキリスト教の国教化

。迫害の対象となってもがき苦しんだキリスト教会が、

4世紀コンスタティヌス大帝によってローマ帝国の国教とされ、

大きな飛躍を遂げるのです。しかしこれが成功による失敗だった。

 正にこの4世紀キリスト教の国教化から、教会は堕落との絶え間ない

戦いに身を投じるのです。

「教会を守る」ということゆえに起こる、

教会中心の正義という堕落・腐敗との戦いです。 

一方で、失敗による成功がある。

イエス・キリストの十字架こそそれである。

キリストは神に対する義を貫きながら、

剣を手にすることなくひたすら人々に仕え生きることで

最後には十字架で殺されてしまわれた。失敗したのです。

しかしその失敗による成功が、2000年間の教会の歴史を支えてきた。

そこに平和と調和する真の義が現されてきた。

そうした時に、私たちが招かれているのは「成功による失敗」ではなく

「失敗による成功」である。

正しさによって人を打ち破ることによってではなく、

正しさによって打ち破られることこそが

神の義。即ち公義であった。

自分たちを守るために義を貫いていくのではない。

自分たちの生きている、自分たちに与えられている枠組みが

危うくなるような義をこそ貫く。

川奈聖書教会が危うくなるような、

イエス様のように磔られてしまうような義をこそ私たちは貫き、

そのことによって平和を生み出していくように召されているのです。