「神に用いられる人生とは」ヘブル7:20-25 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

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伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは

川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。


■「神に用いられる人生とは」ヘブル7:20-25

1.有限であるがゆえに得ている喜びを知る

 「なんでももってる男の子」という物語があります。

名前の通り大金持ちの両親の下、お家に動物園や遊園地まで持つ

なんでももってるフライ君がビリーという男の子に出会います。

ビリーはごく一般的な子供でフライ君が珍しがるような物は何もない。

ただ一つ、ビリーはピュンピュンというとっても可愛らしい

愛らしい犬を飼っていました。 

フライ君は動物園まで家にある大金持ちですから

犬のペットは幾らでもいる。

しかしピュンピュンの可愛らしい姿を見て

どうしてもピュンピュンが欲しくなりビリーに

ピュンピュンを譲ってくれるようにお願いします。

しかし、当然ビリー首を縦には振らないわけです。

ビリーにイライラしながら、フライ君は自分の持っている

たくさんの持ち物を交換条件にしますが譲ってはもらえない。

何でも持っているはずの男の子が何も持っていないような

男の子の一匹の犬を欲しくなり、何も持っていないはずの男の子は

何でも持っているはずの男の子の持ち物に興味を示さない。

そういう不思議な関係性の中でやがて

“何でももっている男の子”フライ君は、

自分が持っていない「友達」の存在に気がついていくという

中々良く考えられた物語であります。 

たくさんの物を持っているがゆえに

持つことの意味が見えなくなり貧しくなってしまう人の姿。

僅かな物であっても、僅かな物であるからこそ

得ていることの喜びを知ることができる。

これは人の現実と言えるでしょう。


今晩の個所においては祭司の死ということが語られています。

23節
「また、レビの子らの場合は、死ということがあるために、

務めにいつまでもとどまることができず、

大勢の者が祭司となっていますが、」

レビの子らというのは、アロンの子孫である

レビ族の祭司のことが言われています。 

旧約聖書 民数記の20:23以下を読みますと

祭司の始まりとされたアロンの死について記されています。



「【主】は、エドムの国境に近いホル山で、

モーセとアロンにお告げになった。

20:24
「アロンは自分の民に加えられる。

彼は、わたしがイスラエルの子らに与えた地に入ることはできない。

それはメリバの水のことで、あなたがたが

わたしの命に逆らったからである。

20:25
あなたはアロンと、その子エルアザルを連れて

ホル山に登れ。20:26 アロンの衣服を脱がせ、

それをその子エルアザルに着せよ。」


この言葉は主がモーセとアロンに告げられたと記されています。

つまり、アロンの死の予告であってまだこの時

アロンは健在でした。主はアロンに、死が近いこと。

それゆえ、祭司の務めを現す身に帯びていた祭司の衣を

後継者である息子エルアザルに着せることを命じられた。

そうやってアロンに、死に備え身に帯びて来た衣を

後に続く若い人に譲ることが教えられ、

この祭司職が一人の人によって全うされるのではなく、

受け継がれていく働きであることが示されたのです。

アロンに始まるイスラエルの祭司職と同じように、

私たち一人一人の命は有限なものであります。

人の命が有限になった、人が死ぬようになった、

これは私たち人間の罪に関係すると聖書は教えています。

最初の人アダムが神との約束を破った時に

「人が永遠に生きないように」とおっしゃって

死をお与えになられたのです。

これは一面において罪に対する罰としての

意味を持っている訳ですが一方において

死があるということの恵みをも覚えるべきである。

先程の「なんでももってる男の子」の話しと同じように、

もし私たちが命を永遠・無限のものと考えたらどうでしょうか。

もし命が無くならないものであったなら、

私たちは命を得ていることを感謝することも喜ぶこともできません。

残念なことでありますが、私たちは失うことがあるからこそ

得ていることの恵み・喜びに気がつく者なのです。

そうした時に、死があるというのは、

命があること・生があることの特別性を

神様が私たちに教えて下さっている恵みとしての側面がある。 

不老不死を望むような人が時に居ますがそこに喜びはない。

永遠では無い私たちが今生きている、

今生かされていることを真に受け止めること

こそが喜びの人生に繋がるのです。

2.何かを成し遂げる人生ではなく

このように一人の人が祭司の務めを永遠に

果たし続けることはできない。

それはやがて交代し受け継がれていくべきものである。

命の有限性、そして務めの有限性を喜びとするか、悲しみとするか。 

主はそのことを今晩の個所を通して恵みとして語っておられます。 

私たちは生きた証として、自分は自分の人生において

「これこれのことを為した」と言いたい。

形として自分の人生の足跡を残したいと願う。

一方で、頑張ったけど、一生懸命生きたけど、

結局私の人生は何だったのか…、

そう思えるような人生の結末も一杯ある。 

神様は私たち一人一人の人生、その働きにおいて

何がしか完結するような、形になるような、

そういう生き方を与えてはおられないし、

そういうことを求めるべきではないと教えておられます。 

祭司という一つの務め、人々を神に執り成すという

この務めをアロンは完結することが出来なかった。

子子孫孫受け継ぎ全うしていくことが求められた。

 このように、一人の人間の仕事というのは、

パズルの1ピースのようなもの。

それ一つでは何だか良く分からない。何のための人生で

あったか分からないようなことが起こる。

けれども、そういう一人一人が繋がり合って、

最終的には想像しなかった大きな一つの絵が浮かび上がってくる。

なぜそう言えるかそこには?

そこには死ぬことの無い、永遠の祭司が共に居てくださり、

私たちをちゃんと導いて下さっているから。

24節から

「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない

祭司職を持っておられます。

したがってイエスは、いつも生きていて、

彼らのためにとりなしをしておられるので、

ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」

なぜ一つの仕事を完結出来ない、完成できない

アロンの働きが空しいものではないのか。

それは永遠の祭司なるお方が居るから。イエス様がいらっしゃるからだ、

ヘブル書は語るのです。

ですから私たちの人生を空しく終わらせない、

自分の人生は意味あるものであったと言えるための人生の秘訣は、

人々に認められる何がしかの形を残すことでも

評価されることでもありません。

私たちの人生が永遠なる神様の御手の内にあるということ、

神様の計画の中に生かされているという確信。

逆に、自分の一ピースで何かを表そう・示そう・残そうとして、

結局訳の分からない使い道のないものを残してしまう人生もあるのです。
 
神様に受け入れられ、意義づけられる人生。

このことを信じている人の生き方、

そうではない人の生き方というのは決定的に違うものになるでしょう。 

これまでヘブル書を通して、私たち一人一人が神の祭司として

召されているということを学んで参りました。

お一人一人が祭司として人々を神に執り成し祈る

働きを委ねられている。

そして、本当にその務めを果たしていくためには

「私が何を成し遂げるか」ではない、神様は私たちを用いて

ご自身の計画の一部を遂行されようとしている。

その神様のご計画の一部分のために

自らを差し出していく信仰が無ければ、

私たちは神様のお役に立つことはできません。

 現代は待てない時代、結果を直ぐに求めたくなる時代です。

どうしたら今すぐこうなるのか、劇的なものが好まれます。 

例えば選挙。「あなたの一票が国を変える」、

と一票の行使が劇的な何かを生み出すと宣伝されて

「だから選挙に行きましょう」と勧められるのですが

実際にはどうでしょう?

自分の一票で政治が変わったと実感したことはないと思います。

そうたやすく政治や国は変わらない。

小さな石を何年、何十年と世代を越えて積み上げながら、

ようやく少しずつ変わっていく可能性がある、

そういうものではないでしょうか。

そんな簡単に変わるものでは無い、だからこそ

1回1回の選挙の1人の1票が大切なのだと思う。

逆に「1票で国が変わる」と言われて期待して選挙に行って、

でもどうも何も変わらないようだ。

そうすると、もうそれで選挙なんか馬鹿らしいと

思うようになってしまう若者はいるのではないかと思います。
 
子育ての問題も同じです。

家庭・家族の問題に関わっているとしばしば

負の連鎖と言えるような状況に遭遇します。

親から受けた悪い影響を排除することは容易ではありません。

“いけない”と思いながら、“止めなければ”と思いながら、

しかし中々止められない・変えられない。

そういう苦しみを経験しておられる方が多くおられます。

けれども、決してゼロにする必要はない。

完全に克服する必要はないのです。

その人が子供として親から“10”受けた辛い体験があって、

それを子育てする中で“7”に薄めることができたら、

それは物凄く大きなことであるし、

それがその人の大切な使命と言えるのです。

そして、今度はその方のお子さんが7を5にしてくれるかもしれない。

その次の世代では...、

そうやって少しずつ少しずつ世代を越えて克服していく他無いのが

家庭における負の連鎖の問題だと感じます。 

そういう難しい問題であるからこそ、向き合っても仕方ないのではない。

難しい問題であるからこそ自分の限りある人生の中で、

1でも0.1でも前に進むことは尊いことであるし、

僅かな前進を軽んじてはいけないのです。 

大きな問題、難しい問題、複雑な問題は一度で劇的には変わりません。

劇的に変わったと錯覚することはありますが、

多くの場合それは振り子が反対方向に振れただけで、

状況は何も変わっていないものです。 

神様の御手の中にある世界の長い歴史の中で、

私たち一人一人の人生はホンの一瞬かもしれない。

そういう私たちであっても、今日御言葉に教えられているように

神様のご計画の中で、神の祭司としての務めを

受け継いでいくことが許されている。

永遠の祭司なる主の支えの中で。

そういう信仰の中で、振り子が触れるのではない、

僅かな確かな一歩を自分の人生を通して歩み、

そして次の一歩を託していく、そのような信仰の営み。

教会の営みが求められている時代と言えるでしょう。


ヘブル書を読み進めていきますとやがて

13:8にこのような素晴らしい御言葉が備えられている。

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」

正に今晩学んだ通り、イエス様の普遍性・永遠性が語られた励ましの言葉。

そしてその前の13:7にはこのように記されている。

「神のみことばをあなたがたに話した

指導者たちのことを、思い出しなさい。

彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」

やはりここでもキリストの普遍性と共に、

旧約の聖徒たちの死が語られています。

彼らの生活、人生の結末を良く見なさい。

その信仰に習いなさい、と教えられている。

アロンだけでは無い、モーセもそうです。

彼もあれだけの苦労をしながら、結局約束の地に

足を踏み入れることを許されなかった。

彼もまた後継者ヨシュアにバトンを

受け継ぐことを求められ、そのことを喜んだのです。

ペテロもパウロも皆そうです。

何かを成し遂げた聖徒などいない。

そういう彼らの結末を良く見て、

その信仰に習いなさいと勧められている。 

つまり私たちも中途半端に死ぬべきだということです。

締めくくろう、成し遂げよう、名を残そう、

そんなことを考えるべきではないし、そんなことがあってはいけない。

死ぬべきあなたの名では無く、永遠に続く

キリストの名を残す生き方をし、死に方をしなさい。

それが祝福の人生であり、祝福の死である。


スコットランドのある田舎の小さな教会で

老牧師の処遇について役員会が開かれました。

まだ赴任して数年の老牧師でありましたが、

役員会はこの牧師にこのように伝えます。

「私たち役員の総意で、先生に辞任をお願いしたいのです。

先生はもう年をとっていますのでこれからの活動が

思うように行かないでしょう。

何より、先生の在任中の教勢を見ると

何人救われたか言うまでも無いことですね」、

牧師は申し訳なさそうに答えます。

「私の知っている限り一人だけです。それも少年でした」

 会議が終わり、辞任を勧告された牧師が力なく

教会の外に出ると、彼をよびとめる声がします。

それは正に、この老牧師の数年の牧会で与えられた

たった一人の受洗者ロバート少年でした。 

ロバートは老牧師に言いました。

「先生、ぼくは宣教師になりたいのです。

そのための準備を導いてください」、

実り少さき自らの働きを恥じていた牧師に

その少年の言葉は大きな喜びを与えました。

「私のここでの働きは決してむだではなかった」、

この老牧師の働きの唯一の実であるロバート少年が後の日、

スコットランドを代表する大伝道者となる

ロバート・モファット宣教師であり、

アフリカの聖書を持たない部族への聖書翻訳などで

アフリカ宣教の先駆けとなる偉大な働きを為す人物でありました。 

更にそのロバート・モファット宣教師の娘が結婚した

義理の息子に当たる人物が有名なディビット・リビングストン、

宣教師として医師として、また探検家として

義父の志しを引き継ぎアフリカ宣教、

そしてアフリカの奴隷解放運動のために尽力し、

殉教した偉大な人物です。

名も残っていない老牧師の小さな働きがモファット宣教師、

そしてリビングストン宣教師と受け継がれ

考えられない程の大きな実となったのです。

私たちの周囲に山積する様々な問題。その中で、

私たちにできることは本当に僅かであるかもしれない。

けれども、その僅かを組み合わせて大きな御業を

為して下さる主がおられる。だから、

私たちは自分の与えられている限りある命を持って、

与えられた賜物・機会を持って、山のような問題に対して

喜びと望みを持って小さな一歩を踏み出すものでありたい。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。