「神に錨を下ろす」ヘブル6:13-20 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは

川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。


■「神に錨を下ろす」ヘブル6:13-20


1.神々しさの内側

日本人の宗教観、神意識には「ありがたい」と思える物を拝む

という感覚があります。日の出、お天道様を見て拝む。

罪や星、山や海、様々なものが信仰の対象とされてきました。

日本人の宗教観において雰囲気というのは非常に

重要な意味を持っていると思います。

 西行法師が「どなたかの おわしますかは知らねども

かたじけなさに 涙こぼるる」と歌いました。

「かたじけなさ」というのは「ありがたい」という言葉。 

これは西行が伊勢神宮の何とも言えない神々しい佇まいに

胸打たれて読まれた歌のようです。

彼は真言宗の僧侶でありますが、神道の神宮の持つ雰囲気に

超越的なものを感じ涙をこぼした、ということでしょう。

非常に日本人的な感覚だと思います。 

 旧約聖書の時代、ユダヤ教においては神殿と言う存在が

同じような要素を持っていた。以前にも申し上げたように、

エルサレム神殿の中には聖所と呼ばれる特別な場所があって

祭司しか入れない。

聖所の中でも至聖所と呼ばれる場所は大祭司が年に一回しか

入ることができない特別な場所とされていました。

そこには幕があって仕切られていた。

祭司でさえ入ることができない特別な空間。

けれども、その神の神聖さの実態は実際のところ良く分からない。

それは雰囲気のようなものであったと言えるかもしれない。

至聖所に入ることのできた大祭司であっても、

結局そこで神の実態に触れることが出来た訳ではありません。

神は至聖所におられる訳ではなく、ただ人に許された

場所としてもっとも神に近い、神の間近に近づくという

意味での恐れを覚えていただけであります。

しかしながら19節でヘブルの記者は新約時代のキリスト者と

神の関係性についてこのような大胆な言葉で解説をしています。

「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、

たましいの錨のようなものであり、また幕の内側に

まで入って行くものです。」


私どもキリスト者は至聖所に入って神に近付く所では無い。

私たちは錨を下ろしている。神の内に魂の錨を下ろしている。

神殿の垂れ幕の内側、即ち神そのものに錨を下ろして繋がっている、

そういう者なのだ。 

つまり、遠くから感じる何か分からないけど

ありがたい雰囲気などではない。

神の実態に触れ、その中に根差す者として生かされていると

ヘブル書は教えているのです。


2.希望を持ち続けるために、のがれて来た

教会には幾つかシンボルマークのようなものがあります。

その代表は十字架ですし、お魚のマークも良く知られています。

そしてまた、錨というのも古来より用いられてきた教会のマークです。

今日週報イラストを載せたのですが、良く見ると

錨の上部が十字架のように見える訳です。

教会がローマ帝国から迫害を受ける中で、

十字架をカモフラージュするように用いられたとも言われています。

ただ、十字架が入っている図柄というのは他にもあったと思うのですが、

その中でどうして錨が用いられたのかと言えば、

やはり今晩の19節の言葉であろうと思います。

シンボルということでいえば、教会堂が船をモチーフにして

作られるということがしばしば行われてきました。 

それは会堂に兄弟姉妹が会することの中で、

共に信仰の旅を味わっているという意味があったのです。

船で旅をしている。嵐に合うことがある、

先が見えなくなるような時もある。

けれども、いつも私たちには帰るべ き港があり、

そこでしっかりと神に錨を下ろして安らうことが出来る。

18節には

「それは、前に置かれている希望を捕らえようとして

逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない

二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。」

 
のがれて来た私たち。どこから逃れてきたのか。

新共同訳聖書を読みますと、明らかに意訳でありますが

ここに「世」という言葉が加えられて

「目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたち」

と訳されています。私たちは希望を持ち続けるために世を逃れてきた。 

確かに私たちが礼拝に集まってくるということは、

世を逃れて集まってくるという面がある。

色々生活の只中に困難があり、苦しみがあり、悩みがあり。

そういうところから逃れて、ひと時神の宮で平安を頂いている、

そういう心は皆さんがお持ちであろうと思います。

けれども、ただ逃げているだけではない。

望みを捕えるために、希望を持ち続けるために、のがれて来たのだ。

逃れることの中に捕えようとする、持ち続けようとする積極性がある。

そして、この捕えよう・持ち続けようとしている望みこそが、

私たちの人生の錨である。その錨は神の只中に食い込むような錨だ、

と教えているのです。

色々な方のご相談に乗る中で、時に「戦う必要があるのかな」

と思うことがあります。

私たちはしばしば無駄に戦ってしまう所がある。

意地になって、むきになって、逃げれば良いのに戦ってしまう。

例えば、自分の一番弱い場所、傷つけられている事柄。

そういう所に類似したものを感じた時に、

スッと引き寄せられて戦ってしまうのです。 

子どもの時に虐待を受けた方が成人されて

自分のパートナーにやはり暴力癖のある方を選んでしまって

DVの問題が起こることがある。

ですからパートナーからDVを受けた方の多くが、

子どもの頃に虐待を受けた経験があると言われます。 

なぜ子どもの頃に苦しい思いをしたのに

伴侶に同じことをする人を選んでしまうのか?

どこかで自分を責めているのです。

あの時、ああいう苦しい思いをした時に

自分を守ってあげることができなかった。

自分を見殺しにしてしまった。 

そういう過去の痛みを晴らすために、

今度こそ同じ状況で自分を守って見せよう、相手に打ち勝ってやろう。

そのように挑みかかってしまう。

そして結局何度も何度も自分を同じように傷つけてしまう。

逃げ出してしまった方が良いことが人生には沢山あります。

例えば過度に欲望を刺激されるような状況に打ち勝つ必要などない。

戦うよりも、そういう状況に近づかないこと、

逃げ出すことの方が賢明なのです。

それはただ逃げ回る弱弱しい生き方では無い。

荒海を進むような私たちの人生。 

どんなに自分を大きな頑丈な船だと威張ってみても、

いざ嵐がくればどんな船も転覆するのです。

ですから、どれだけの嵐に耐えられるかを競う前に、

いざという時に帰るべき港。

下ろすべき錨を弁えていることこそが、

私たちが頂いている望みを守っていく積極的な生き方であると言える。 

このように軸足を置くべき場所、私の人生の錨は

ここに下ろしているから大丈夫。

そう思える場所をちゃんと持っていることは大切なことであります。





3.人生の錨

そうした時に、ヘブル書は錨に例えられている

私たちの軸足を定めるべき望みを具体的にどのように教えているのか。

18節で「約束と誓いという変わらない二つのもの」、

これは13節から17節までに記されている

「神の約束」、そして「神の誓い」、この二つのことであります。

これが私たちの人生の錨である。 

そのことを分かりやすく説明するために、

アブラハムの生涯が例話として挙げられています。

信仰の父アブラハム、

15節では「アブラハムは忍耐の末に約束の物を得た」と記されている。

彼は元々父テラと共に現在のイラクの辺り、

ウルという場所で生活をしていました。

しかし神様が約束の地に導く、とおっしゃったその言葉を信じて

行き先の分からない旅に出、ついに約束の地

カナン・現在のイスラエルに辿りついた。

また中々子が得られなかったのでありますが、

年老いてから神の約束通りイサクを得る。

しかしやがて神様は愛する一人子イサクを

いけにえとして捧げるようにアブラハムに命じるのです。

彼は悩み苦しみつつ、神の命じるモリヤの山に登って行く。

そして愛するイサクを神に捧げようとする正にその瞬間、

神ご自身がアブラハムを押しとどめてくださり、

そしてこの14節に記された祝福の言葉をお与えくださったのです。 

このようにアブラハムの生涯は忍耐の連続、

ひたすら神に信頼し忍耐し続ける歩みであった。

そしてその忍耐の末に約束の物をついに得た、と聖書は記すのです。

アブラハムはある意味において積極的な戦いと言うのをしてはおりません。

何かを得るために自分で行動をお越し、勝ち取るということをしていない。

むしろ、彼が積極的に動いた時には、ほとんどその行動は裏目に出たのです。

飢饉を避けてエジプトに降った時に彼は大失敗をしましたし、

神の約束を成就しようと側室を得た時にやはり彼は大きな失敗を犯した。

自分から戦いに出た時にはいつも失敗をしている。 

アブラハムの生涯に観るべき場所は、嵐を打ち破るために

戦いを挑んだことではない。

嵐の中で、錨を下ろすべき場所にひたすら忍耐を持って留まり続けた。

必ず嵐は過ぎ去ると信じて、ひたすら神の言葉に信頼し、従い続けた。

その歩みに神の祝福は注がれたのです。

神の約束、神の誓い。

4.
16節に

「確かに、人間は自分より大いなるものにかけて誓います。

そして、誓いはすべての論争を終わらせる保証となります。」


と記されている。面白い言葉です。

私たちは自分が言っていることが真実であることを納得させるために、

しばしば自分より大きな人を持ちだしてくる。

○○先生が、○○の専門家がこう言っている。

そのようにして、自分より優れた人を指して誓う。

けれども神様の誓いは13節にあるように

「神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものに

かけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、」

神様には神様以上の方は居ないから、神の言葉はご自身にかけて誓われる。

神が神にかけて誓われる、これ以上の確かな言葉は無いではないか。

つまり、誰をも、何の裏付けをも引っ張りだす必要が無い。

聖書の神様はご自身を「ヤハウェー」と名乗られた。

これは「わたしはある」と言う意味の名前です。

英語でいえばI am。「私です」「私である」、

私たちであれば、自分を説明する色々な言葉が必要です。

「川奈教会の牧師の山口です。どこそこを卒業した山口です。

音楽活動をする山口です」、

そうやって何がしかを頼りにして「わたし」を説明しなければいけない。

つまり、「わたし」は「わたし」という絶対的な存在では無くて、

様々な事柄に依存して、支えられて初めて意味を持つ存在。

しかし神様は違う。「わたし」とは誰なのか、

そのことを説明するものはありません。

「わたしである」という時に、どんなわたしか神には説明はいらない。

なぜならば、神様こそが世界の始まりから存在しておられる神であって、

初めの初めであるお方。 正にI am、

「わたし」であり「わたしはあってある」お方なのです。 

偽学位とか、偽の研究、偽の作曲など、

偽物がしばしばニュースになります。

結局、私たちが握りしめている「わたし」という価値は

そういうものではないでしょうか。誰々が私を認めてくれた。

どこどこで私はこのように認められた。

そういう「わたし」を必死に死守しようとするけれども、

そもそもそうやって「わたし」と認めてくれた

存在がどれだけのものであるのか。 

そこで「わたしはある」と言われるお方。

何の裏付けも必要としない。誰の評価も、

誰の認定も、誰の推薦もいらない。

全ての存在の根源として立たれるお方が

「I am」「私はある」とおっしゃる。

そしてその神が「私は必ずあなたを祝福する」、

この約束、この誓いが私たちには与えられている。

私たちの人生には確かに、神の祝福を信じることができない

色々なことが起こります。


子どもさん達の話を伺っていて、

本当に色々な問題を抱えています。

「先生、どうして私だけこうなんですか。

みんなはこうなのに、なんで私だけ…」

そういう訴えを聞くことがあります。

本当に心が痛みます。

真剣にそのような言葉に向き合った時に、私などに答えは見つかりません。

子供たちの痛みを考えたら、とてもいい加減な答えを

提示することなどできない。


それでも神様はあなたの問いに答えを持っておられる。

「どうして私は」「どうして私だけ」その問いに、

神様は答えを持っておられる。そのことを信じて歩んで欲しい。

信じて歩んだら、どんな痛みを抱えていたとしても、

どんなに辛い経験をしていたとしても、

必ずその人の人生は祝福に導かれる。 

こんな歌詞の子どもたちの讃美歌があります。

「どんな悲しみにも どんな涙にも 答えをくださる

イエスさまを 見上げているなら」、


20節
「イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、

メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。」


イエス様は神であるのに十字架で無残に殺されてしまわれた。

人々の罪を背負って、大祭司として自らの命をいけにえとして捧げられた。

大勝利をおさめるべきはずの神が、驚くべき大敗北を喫しられたのです。

けれども、そのような主イエスの十字架と言う

悲しみ・涙にちゃんと神の答えがあった。

その答えの中に、今私たちはこうして救いに与り、

信仰を頂き、教会生活・信仰生活を歩むことを許されているのです。

何一つ幸いの無いような十字架から、

神様はこの上ない祝福を生み出して下さったお方である。

だから私たちも、どんな悲しみ・どんな涙の中にあっても、

このお方を見上げて歩むなら神の祝福の約束、

祝福の誓いを信じ抜くことが出来るし、

事実皆さんの人生は祝福とされるのです。

錨を上げて、戦いに出る必要はありません。

錨を下ろし続けることこそが、本当の戦いです。

そこが祝福の場所であるから。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。