「大人の信仰者とは」ヘブル5:11-6:12 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。

おはようございます。伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは

川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。


■「大人の信仰者とは」 ヘブル5:11-6:12

1.固い食物ではなく、乳が必要になっている

先回、また先々回の個所においては、キリストが真の祭司であるゆえに

私たち人間の弱さや痛みに同情して下さるお方である。

同じ思いを受けとめて下さるお方であること。

同情し、そして思いやって下さる、即ち私たちの弱さを知り

その弱さの中から適切に導いて下さるお方であることが

語られておりました。

しかし今晩の個所で一度ヘブル書の記者の言葉が中断するかのようです。

11節
「私たちには話すことがたくさんありますが、

説き明かすことは困難です。あなたがたが、

聞くことに対して鈍くなっているからです。」


まだまだこれからだ。もっと話したいことが

このことについてもいろいろあるけれども、

これ以上話してもあなたたちの聞く耳が鈍いから

これ以上は難しいという。

12節
「あなたがたは、年数からすれば教師になって

いなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、

もう一度だれかに教えてもらう必要があります。

あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。」


どのように耳が鈍いか。あなたたちは信仰を得た年数を

考えたら教師になっていてもおかしくない。

一方的に聴く立場ではなく、教える者になっていてもおかしくない。

教える立場に立つということは、読みやすい本や

一般向けの分かりやすい話しだけでは無い、

様々な知識を総合しながらじっくりと学んでいく

専門書や専門的な話しが聴けないと、自分が教えるということは難しい。 

もうあなたたちはそうなっていてよいはずなのに、

依然として聴きやすい話し、分かりやすい書物、

そういうものに留まっているのはどうしたことか。

それは堅い食物を嫌がってオッパイしか飲まない

赤子のままであるということです。


先日ゴスペルボックスの移動販売で拝見していて、

中々本が売れない時代の中でキリスト教書籍も

どうしたら読まれるか工夫しているなと思える物が多々ありました。

目につく一つの工夫は漫画化です。

しばらく前から聖書そのものをマンガにすることが多く行われています。

教会史も最近はマンガが出ていますし、

三浦綾子さんの名作「塩狩峠」のマンガもありました。

こういう読みやすさの工夫に私は大賛成です。

ドンドンやるべきだと思う。

けれどもそこで表裏一体の問題は、読みやすい、

分かりやすいもの以外は嫌だ。そういうわがままに陥ってしまうことです。

 

説教も同じです。

今の時代、説教者に求められるのは分かりやすい、

聴いていて楽しい、長くない説教。 

けれども、例えば宗教改革者たちの説教を読みますと、

一体一度の説教にどれだけの時間がかかったのかと驚くほど長い。

一時間を超えるであろう説教などザラです。

しかも内容的に極めて難解。何度も何度も読み返しながら、

ようやく理解していくような説教。

このような説教が講壇から語られ、聴かれていたのか。驚きます。 

そもそも私たちが今学んでいるヘブル書自体が

もともと礼拝で語られた説教だったのではないかと言う学者もおります。

そうであるならば「いつまでたっても堅い食物が食べられない」

と叱責を受けているヘブル書の読者たちは、

私たちより遥かに堅い食物としての説教を

聞いていたのではないかとも思えるのです。

ここでヘブル書が「乳児のようだ」と言っていることの

具体的な意味は何でありましょうか?

13節
「乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。

幼子なのです。」


乳児のようなものは義の教えに通じていないとヘブル書は語っています。

更に14節を見ますとこう書かれている。

「固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって

訓練された大人のものです。」

堅い食物を食べられる大人とは、分別のある人たちのこと。

義についての分別、すなわち何が正しいことで

何が悪しきことであるのか、そのことがきちんと分かっている、

見分けることができる、それが堅い食物が食べられる大人なのだ。

そうすると、これは必ずしも話しが簡単か難しいか、

聞きやすいか聴き辛いか、そういう話しのことでは

無いことが分かってくるのです。 

分別をもった大人だからこそ話せることがある。

でも、今のあなたたちにはまだそれは出来ないこと。 

先日思いがけず中澤啓介先生が礼拝にお越しくださいましたが、

数年前に礼拝説教のご奉仕をいただいた時に皆さんご記憶でしょうか。

実に一時間お語りになられました。

説教のほとんどがご自分の体験談、証しでありましたから、

そういう意味で非常に聴きやすい、退屈しない話しでありました。

けれども、そうやって平易な言葉で語られた内容は

極めて重大な事柄でした。

聖書論において、信仰論について、祈りについて、

どれをとっても驚くようなことを平然と話していかれた。 

私は率直に、素晴らしいお話しを頂いたと心から感謝をしました。

正に私たちの教会に必要な御言葉であり、チャレンジであったと思います。

けれども、恐らく講壇からあのような説教がされたら

大混乱を起こす福音派の教会はたくさんあると思います。

これまで信じてきた信仰の根底が覆される、

何を信じて良いのか分からない、そう感じる

クリスチャンがたくさんいると思います。 

終わってから中澤先生は

「先生の所だから大丈夫だと思って乱暴な言葉を使いましたけど」

とおっしゃっておられました。正に堅い食物であったと思います。

義についての分別を弁える者への言葉。



つまり、ここでヘブル書が問題にしていることは、

話しの優しさ・難しさ以上に、その内容。

乳児というのは、お母さんが提供してくれる

ミルクをひたすら飲むのです。

赤ちゃんのご機嫌はあるでしょうが、

基本的には提供されるままに飲む。

自分であれが良い、これが良い。これは良い、あれは良くない。

そんなことは考えません。一方大人は自分で選ぶことができる。

何を食べるか、何を食べないか。何を飲むか、何を飲まないか。

それは私たち一人一人の自由です。

その自由を善きことに用いることもできるし、

その自由をもって自らの体を貶めることもできる。 

そういう自由があることを喜びとするか、

それともなぜこんな自由があるのか、と嘆くのか。

そこが大人と赤ん坊の分かれ目である。



2.愛に基づく最高の選択

6:1にはこのようにあります。

ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、

成熟を目指して進もうではありませんか。」


初歩の教えを後にして成熟を目指そう。

では初歩の教えとは何か?

2節
「きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、

死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことを

もう一度やり直したりしないようにしましょう。」


初歩の教えとはこういうことであるというのです。

これらのことは、どうも初代教会における

いわゆる洗礼準備会の内容であると言われます。

2節にあるような準備を経て、彼らは洗礼を受けクリスチャンになった。 

皆さんも教会に通い始めた時に、洗礼を受けるに至る

プロセスの中で色々学んでいかれた。

そこで聖書の教理などを学ぶことも勿論そうですが、

多くの方が経験されたことは

「クリスチャンになった時にこれこれはしても良いですか。

これこれはしなければなりませんか。献金は、お酒は、仏壇は...。

礼拝を休んでも良いですか、祈祷会に出席しないといけませんか」、

自分がクリスチャンになることの中で

今まで自分が当たり前にしてきたこと、また逆に無縁であったことに

変更が強いられるのかもしれない。

そのことの恐れを皆さん感じられたと思うのです。

そういうことを牧師や先輩の信仰者に尋ね

考え学んでいくことは大切なことでありましょう。 

けれども、それはあくまで初歩の教えである。

「これこれはしても良いですか?、良いです・ダメです」

「これこれはしなければなりませんか?、良いです・ダメです」、

そうやって答えを得てその通りすることで自分が

キリスト者であることの安心を得る信仰の歩みを

どこかで卒業しなければいけない。

そうした時に、この教会で牧師に

「お酒を飲んで良いですか。お焼香はどうしましょうか」

尋ねても良いとも悪いとも言ってくれない。

考える参考になる材料はくれるかもしれないけれど、

後は自分で考えるようにと言われる。

そのことを皆さんはどう受け止めるでしょうか?

「しめた、ダメと言われない。ヤレと言われない。自由だ。好きにできる」

と思うか。これはやはり子供の考えだと思います。

親が何も言わないから好きなことができる。もうかった。 

しかし成長していった時に、自分で決めることの厳しさ、

決めてもらえることがいかに楽なことであるかを経験する。


私は牧師家庭に育ちました。

小学生の時には日曜日礼拝を守ることは当然のことで

例外はありませんでしたから、別に迷うことも無かった。

友達に遊びに誘われても「日曜日は礼拝の日だから行けない」

と答えれば良かったのです。

けれども、中学生になった時に父親が

「必要なことは教えたつもりだから、後は自分で考えなさい」と言われた。

 私は卓球部でありました。

中々強くて、相模原市の大会で2位になったことがあります。

当然大会は日曜日にある。試合と礼拝とどちらを優先するか、迷うのです。

最初に大会の選手に選ばれた時、本当に迷って、迷いに迷って、

最後父親に「どうしたら良いか分からないから決めて欲しい」

と頼んだことを覚えています。

それでも「自分でお祈りをし、良く考えなさい」と言われ、

結局早朝に礼拝をしてもらい、そして大会に出場しました。

その選択を良いとも悪いとも親は言わなかったように思うのです。 

そういう経験を通して、自分で決められる自由を得るということは

厳しいことだな、ということを学びました。 



私たちが、大人にならなければいけない。

堅い食べ物が食べられるようにならなければいけない。

そのことの意味は、正にこのような所にあるのです。

お一人一人が二つとない特別の人生を歩んでいる。

その人生をどう生きるのか、どのような選択をして、

どのような決断をするのか。

それは私たち一人一人が神様の御前に問われていることで、

その問いの答えは自分が出さなければいけない。

そこで出した結論が正解だったのかどうかも分からない。 

分からない問題を、信仰をもって問い続けていくことが

キリスト者としての大人の歩みです。

どこかで安易に自分を正当化するのではない。

何かの規則に当てはめて単純化するのではない。 

義に対する分別を不義のまかり通るこの世の中で、

この世の住人として求め続けていくこと。


そうした時に

9-10節
「だが、愛する者たち。私たちはこのように言ってはいますが、

あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを

確信しています。神は不公平な方ではありませんから、

あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。

あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、

神の御名のために愛を示しました。」


ヘブル書はこのように述べるのです。

私たちの悩み深い信仰の歩み。

何が良いことか、何が正しい選択か、

本当に自分の選択は間違っていなかったのか、

そのことを問い続ける人生の中で、

しかし主は「あの愛を忘れない」とおっしゃって下さる。


初代教会でしばしば問題になったのは、

偶像に捧げられた食べ物を食べて良いか、ということでありました。

これはユダヤ教においては完全にNO。

しかし、初代教会はイスラエルを越えて

ローマ全体に広がっていきましたから、

偶像にお供えされた食べ物を食べるという

シチュエーションが頻繁に起こるのです。

これは良いことか悪いことか?

結論としては「問題ない」が初代教会の出した正式の答えでありました。

しかしキリスト者になったユダヤ人の中で、

どうしてもこのことに抵抗を覚える人が居た。

偶像に捧げられた食べ物を食するなど信仰の堕落、敗北だ。 

そこでパウロは

ローマ14:20
「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。

すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて

人につまずきを与えるような人の場合は、悪いのです。」


パウロは「我々はもうアレは食べて良い、これは食べてはいけない」

そういう律法の縛りから解放された者だ。

だから何を食べても良い、飲んでも良い。

自分たちは奴隷じゃない。解放されたのだ。 

けれども「だからそんなことどうでもよい」と言わない。

だからこそ良く考えようと言うのです。

自由だから何をしても良い、ではない。

自由だからこそ、その自由を愛を現し、

愛を実行するために用いるべきなのだ。 

何を食べても良い私たちが、

その食べ物のことで誰かをつまずかせるなら、

私たちの飲み食いによって心を痛める人が居るならば、

それは悪いことでしょ。罪でしょ。


皆さん、これが私たちキリスト者に求められる高度な倫理観です。

私たちは直ぐに

「これこれをしても良いですか。これこれはどうですか」と聞きたくなる。

「これは良い。じゃぁ大手を振ってこれこれが出来る。これは禁止です。

あっ、あそこに約束を破っている人が居る」、こういうことを

直ぐに考える訳です。 

けれどもパウロは教えました。

「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、

あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。

キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、

あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。」、

良いか悪いか。アレをしても良いか、このことは許されるか。そうではない。 

「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。

ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」、

「これは許されるかどうか」ではなくてあらゆる機会を通して、

どうしたら神様のご愛を現すことができるか。

今、神様の愛を証しする選択はどちらか。

決まりごと・律法ではない、愛に基づく最高の選択を、

与えられているキリスト者の自由の中で

為していくことが勧められている。

12節
「その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって

約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。」


それが信仰者の歩み。信仰の先輩たちはみんなそうやって歩んできた。

あなたたちも怠けずにしっかりやりなさい、と勧められているのです。 

礼拝を終えた瞬間から、私たちは与えられた自由の中で

様々な選択・決断をしなければいけない。

何をしても自由だ、そういう幼稚な考えでは無い。

どうしたら良いか教えてもらおう、決めてもらおうという幼稚な考えでは無い。

与えられた自由を持って、最大限の愛を求めていく。

謙遜と勇気の調和した、大人の信仰者として

歩んでいきたいと願うのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。