ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。
この火曜礼拝ブログは
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川奈聖書教会・火曜礼拝における
山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり
オリジナルの説教とは多少、
異なることをご理解下さい。
■「小さな献げ物を大きな信仰で」ルカ9:10-17
1.退く意味
先週はバプテスマのヨハネがヘロデ・ヘロデヤ夫婦によって
殺害される事件を学びました。
今晩の御言葉はこのようにして始まります。
10節「さて、使徒たちは帰って来て、自分たちがしたことをすべて報告した。」
これは何のことかと言いますと、9章の冒頭において弟子たちが
イエス様の元から派遣される記事学びました。
そのことを直接的に指しているのです。
これまでいつもイエス様に付き従って、イエス様の為さることを
見ていただけの弟子たちが、「さぁあなたたち出かけていって
福音を告げ知らせてきなさい。
悪霊に憑かれた者がいれば助けて上げなさい」とイエス様の元から遣わされた。
弟子たちは不安だったと思います。
「自分たちにイエス様みたいなことが出来るだろうか。
何の役にも立たないのじゃないだろうか」そう思いながらも、
半ば無理やりイエス様に追い出されるようにして出かけてみると、
少し前の6節にありますように彼らの伝道旅行は大成功に終わるのです。
それで、この10節で弟子たちは自分たちの成果をイエス様に伝えている。
「自分たちがしたことをすべて報告した」、自分たちの大きな成果を
イエス様に伝えている弟子たちの姿が描かれています。
学校で起こったこと子どもが親に喜び勇んで報告するようなそういう場面。
そういう弟子たちの報告を聞かれた時にイエス様は
10節の後半「それからイエスは彼らを連れて、
ベツサイダという町へひそかに退かれた。」
この10節の前半と後半は繋がり合っています。
弟子たちがこのようにして自分たちのしてきたことを報告した。
それを聞いた時に、イエス様はベツサイダという町、
寂しい町に一度退こうとおっしゃった。
しかしながら、しばしば成功体験の中に
失敗の始まりが潜んでいるということが多いのです。
「失敗は成功の元」にもなりますが、「成功は失敗の元」にもなる。
私たちは往々にして、この両者を行ったりきたりするものです。
パウロは「私は弱い時にこそ強い」と言いました。
決して勝つことのない弱い者が、信仰の力によって勝つことがある。
蟻のような無力なキリスト教会が、ライオンの様なローマ帝国に勝利した。
そういう奇跡が起こります。弟子たちの伝道活動も正にそうでした。
この後イエス様を裏切り捨てる弟子たちが、
しかしイエス様に遣わされて行く時に大きな働きをすることが出来た。
これは主イエス様のなさった一つの奇跡です
しかし、そうして大きな成果を体験した時に
「私がしたことはこれこれです」と自分を誇りたくなる誘惑。
そこでイエス様はベツサイダに退かれた。
退かれた、退却されたということです。
戦いの最中に司令官から退却の命令が出る。
それは、兵が非常に疲れていたり、また明らかに旗色が悪くて
これ以上戦っても犠牲者が増えるだけ。
そういう状況において退却の命令が下るのです。
けれども、そもそも弟子たちはこの時疲れていたのだろうかと思うのです。
確かに多くの群集に取り囲まれて、忙しかったことは間違いありません。
しかし私たちがそうであるように、どんなに忙しくても、
仕事が乗りに乗っているとき、順調な時というのは疲れを感じないのです。
「疲れた」と言いながらも、休もうなどとは思わない。
「もっともっと」、宣教に遣わされ大成果を収めた弟子たちは、
当然気分を良くしていた。 そう言う所に、食事をする暇も無いほど、
次から次に人々がやってくるのですから、
弟子たちは休まなかったと思います。
もっと働きたい、もっとイエス様の役に立ちたい。
「イエス様お休みなさっていて下さい。私たちが応対します。」
しかしそう言う弟子たちにイエス様は待ったをかける。
「あなたたちは一度ベツサイダの街に退きなさい」
弟子たちは、そう言われて「イエス様まだ出来ます。働きたいのです。
働かせて下さい。」そう頼んだかもしれない。
しかし主イエスはそれをお許しにならなかった。

2.あなた方に出来る事をしなさい
さて、そのようにしてひそかにベツサイダに退いた一行は、
しかし直ぐに群集に見つかってしまうのです。
11節「ところが、それを知った群衆がイエスの後について来た。」
密かに退いたはずであったのに、ぞろぞろと群集が
イエス様一行についてきました。
14節を見ますと、そこにいた群集は男だけで実に5,000人。
ですから、女性や子どもたちを加えるならば
一万人を超える人々が集まっていた。
しかしイエス様はこの群集を見られて、ああせっかく
弟子たちを休ませようと思ったのに困ったことだとおっしゃらない。
11節中ごろ「それで、イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、
また、癒やしを必要とする人たちを治された。」
この所を思い巡らしながら不思議なことだと思うのです。
イエス様は、弟子たちをこの群集から退かせようと思ったのです。
彼らが、霊的な疲労状態の中に留まっていることを危惧しておられる。
そうして、密かに彼らを退却させて、霊的な体勢を整えようとしておられる。
それなのに、群集はぞろぞろついてきて、もしかしてたくさんの群集を見て、
更に多くの人々が集まってきたかもしれません。
これでは退却した事にならない。
かえって、更なる激戦地に弟子たちを連れて
行ってしまったことにならないだろうか。
このところから生れる一つの疑問でございます。
しかし一行が荒野に移動する事によって一つの変化が
起こっていることに気が付かなければなりません。
先程まで、物語の前面に出ていた弟子たち。
伝道活動によって悪霊を追い出し、病を癒し、人々を救いに導いた。
そうして私はこんなことをしました、と話している
弟子たちの姿が後方に移っている。
一方それまで弟子たちを遣わし、弟子たちの話を聞いておられた
イエス様の姿がスッと前面に出てくるのです。
大勢の群集を前に語りだすのは、また様々な人々の
必要に応えていかれるのは
「こんなことが出来ました、あんなことも出来ました」
と意気揚々としている弟子たちではなく、イエス様なのです。
それはなぜかと言いますと、あまりにも人数が多かったからでしょう。
一万人の人々を前にして語ることなど、弟子たちには出来ない。
ここでせっかく手に入れた彼らの自信が砕かれるのです。
自分たちには出来ない、これ程の人数を相手にすることは無理だ、
そういう劣等感・悲しみ・憂いが押し寄せてくる。
そうして更にイエス様は弟子たちにお命じになる。
13節から「すると、イエスは彼らに言われた。
『あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。』彼らは言った。
『私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません。
私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか。』」
「私はこんなことが出来ました。イエス様、私はこんなことです」
と意気揚々としていた弟子たちは、一万人の群集を見た時に
「私たちには無理だ。イエス様で無ければ」そう思った。
そうして彼らの気勢が削がれた上に更に、
「一万人の群集にあなたたちで食べ物を上げなさい」と言われる。
弟子たちは更に落ち込むのです。
彼らは勿論そんなお金を持っていないのです。
「それ程の量のパンをどうやって手に入れるんですか。
私達には出来ません。」
今まで、「私にはこう言うことが出来た。ああ言う事が出来た。」
そうやって喜びに満たされていた彼らは、
しかしイエス様の求めに答えることが出来ずに、
「私たちには出来ません」と答えるより無かった。
彼らの喜びというものはすっかり消し飛んだと思うのです。
それまで大喜びで自分のしたこを誇っていた弟子たちは、
「出来ません」と答える事によって惨めさの中におとし入れられる。
ですから13節の弟子たちの言葉には、怒りさえ読み取ることが出来るでしょう。
「どうやったらそんなことできますか!そんなこと出来るはずありません。」
どうして弟子たちは主イエスに怒りを覚えるほどに苦しむのか。
それはイエス様の要求が、弟子たちに全く実現不可能な要求だったからです。
「私にはこれが出来るあれが出来る」
そうやって自分の能力を誇りにして生きる時、
「出来ません」と答えることは苦しみなのです。
自分がどれ程の能力を持っているか。どれ程の人々の役に立っているか。
そう言うことを頼りにして生きていくならば、
私たちは絶望しなければならない。
私たちには出来ないことが沢山あるから。
「主よ、こんなこと出来ません。なぜあなたは私に
こんな出来もしないことをお命じなされるのですか。
私を苦しめたいのですか。」
そう怒りを込めて主に不平を申し上げたくなる。
この時の弟子たちの思いが正にそうだった。
しかしそう言う弟子たちに対して、イエス様は
どのような行動をとられたでしょうか。
16節「そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、
天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、
群衆に配るように弟子たちにお与えになった。
人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、
十二かごあった。」
今晩私たちが目を留めたいのはこのところです。
「主よ、私には1万人の群集に食べ物を与えることなど出来ません。
ここには5つのパンと2匹の魚しかないのですよ。
出来ないことをご存知でどうしてそんなことおっしゃるのですか。
私を惨めな気持ちにさせないで下さい。」
これが弟子たちの気持ちです。
しかしイエス様は弟子たちが「こんな物しか無いのですよ」と言った、
その5つのパンと2匹の魚から、1万人の食物を生み出して下さったのです。
弟子達は一万人分の食べ物を揃える事しか頭になかった。
一万人の人々に対してたった五つのパンと二匹の魚、
何の意味があるでしょうか。
彼らは一万人分の食物を集めたかったのです。
イエス様の求めに完璧に答えることが出来る自分たちで無ければ嫌だった。
しかしイエス様が要求された事はそう言うことではないのです。
イエス様は全ての群集に食べ物を与えたい、
その為にあなた方に出来る事をしなさい。
弟子たちが、一万人の人々に食べ物を与える事が出来ない事など
百も承知で、それでもあなた達に出来る事をしなさいとおっしゃっている。
弟子達はただ出来る事を喜んですれば良かったのです。
持っている僅かなお金で僅かなパンを買っても良かったでしょう。
パンを持っている人を探しても良かったでしょう。
その結果たった5個でも10個でも見つけて配るなら、
それをイエス様は一万人の群集に与えるまでに増やして下さるのです。
なぜならイエス様は弟子達の力に頼っているのではない、
助けを求めているのではない。ただ用いようとして下さっているのです。
一万人に対してパン一つでも良い、その人が持っている物を
ただ差し出せばイエス様がそれを大いに増し加えてくださるのです。
イエス様が望んでおられたことは何でしょうか?
5つのパンと2匹の魚を指差して「こんな物しかありませんよ」
という言葉ではありません。
「イエス様、ここには5つのパンと2匹の魚しかありません。
今私たちが見つけることが出来た、この群集に差し出すことが
出来るものはこれしかありません。
けれども、この僅かなものを喜んであなたに差し出します。」
ヨハネ福音書を見ると、少年がこの僅かな食べ物を
差し出したと書いてあります。
イエス様が求めておられることはただ一つ、
一万人の群衆に対して本当に僅かな食べ物を素直に差し出した
少年の様に、たとえ何の意味もない様な無駄な様な事であっても
素直な自分自身を喜んで差し出す、その事だけなのです。
イエス様はそんな時決して私達を馬鹿になどされない。
「こんな大人数がいるのにそんな物差し出してどうするんだ」
とおっしゃらない。
その本当に僅かなものを見て、あなたはこんな沢山持ってきたのかい。
見てごらん一万人の群集がおなか一杯だよ、
あなたのしたことは素晴らしいねと声をかけて下さるのです。
私たちも弟子たちのように「今、こんな物しかありません」と嘆いたり、
怒ったり、落ち込んだりすることがないでしょうか。
けれどもあの5つのパンと2匹の魚が一万人の人々の空腹を満たしたのです。
あなたに与えられている、僅かと思える賜物を
イエス様は必要としていて下さるのではないでしょうか。
そのようにして、私たちを用いたいと願っておられないでしょうか。
イエス様は私たちにも同じように今晩声を掛けて下さっているのです。
「食べる物が無くて可愛そうだ。あなたが何か食べるものをあげなさい」
そこで「私に何が出来ますか。役立たずの私を苦しめないで下さい」
と劣等感から怒るのではない。
私たちに与えられているそれぞれの5つのパンと2匹の魚を、
イエス様に信頼して差し出したい。
5つのパンと2匹の魚から奇蹟を始めて下さるイエス様に信頼して。
5つのパンと2匹の魚を信頼するのではありません。
それを受け取って下さる神様を信頼するのです。
それぞれに賜物がある。また、それぞれに委ねられた奉仕がある。
人間的に見て、どんなに小さい、些細な事と思えても、
主にあって大胆に、また忠実にお献げしたい。
恥ずかしがらないで、こんな物無駄ですよねと言わないで、
はい主よここにあなたが下さった5つのパンと2匹の魚がありますから、
これをあなたの愛する人々の為に捧げますと、そう進み出て頂きたい。
主が必ず大きな愛の業として用いて下さるのです。
大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。
Peace, Love and Understanding
今、ここにある幸いに感謝しよう。

