ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。


■「死を避ける者と死に囚われた者」ルカ8:26-39

1.縛り付けている鎖と暴力性

嵐に襲われたガリラヤ湖上での物語を先週は学びました。

ようやくのことで向こう岸についた一行、弟子たちは

恐らく一睡もしていなかったと思われます。 

けれども、ボンヤリと眠気眼ではありません。

彼らが着いた場所はガリラヤ湖の南東の方向、

イスラエルから見るとヨルダン川を挟んで東側に当たる

デカポリスと呼ばれる地方です。

この地域は異邦人、異教徒の住んでいる場所でありましたから、

ユダヤ人が日常的に足を踏み入れる場所ではない。

当時のユダヤ人の異邦の地に対する警戒心は

並々ならぬものがありましたので、緊張感を持って

弟子たちは足を踏み入れていったことでしょう。 

そのような弟子たちの緊張をいよいよ刺激する

出来事が早速待ち受けておりました。


26節
「こうして彼らは、舟で、ガリラヤの反対側にあるゲラサ人の地に着いた。

イエスが陸に上がられると、その町の者で、

悪霊につかれている男がイエスを迎えた。

彼は長い間、服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいた。」


悪霊につかれた男が出てきた。

この男は衣服を身につけず、墓場に住み着いていたというのです。

聖書はこの男が悪霊の働きとだけ書いております。

29節を見るとこの男は鎖や足かせで繋がれていたとあります。

でもそれを断ち切ってしまう。

つまりこの男の狂暴性、暴力性が暗示されているのです。

そもそもなぜこの男は墓場に住み着いていたのか。

墓場とは言うまでも無く死者の葬りの場所です。

命尽きた者が葬られる場所。 

その場所を住処にするという事は、

自分自身の生を否定していることの現れ。

自分が死者に加えられることを願っている。

町で人々と共に命を喜ぶことを拒否している。 

他の福音書を見ると、この男は夜昼と無く墓場や山で叫び続けていた。

悲鳴です。自分に命があることの悲鳴、生きることへの絶望、

そんな思いに取りつかれた男が主イエスの前にあらわれるのです。

 
色々な問題が地域・社会・家庭にも起こりますが、

暴力の問題というのも決して珍しいものではありません。

しばらく前にお母様に連れられて一人の女性が

相談にいらしたことがありましたが、

やはり混乱すると暴力を振るわれて、

ご家族に危害を加えられたりお家の中の物を

めちゃくちゃにしたり為さるということで、

最初お母様が相談に来られ、次にはお嬢様と一緒にお出でになりました。

お母さんが「あの子は小さい時から剣道を習っていたのでとても強い」

とおっしゃるので緊張します…。


ただ一概には言えませんが、多くの場合暴力の問題を

お持ちの方というのは、そもそも自分が抑圧され、

自己の主張を許されなかった方が多いと言われます。

そこで抑圧されてきた本当の自分を現わすために、

押さえつける人の手を暴力を振るってでも振り解こうとする。


 この悪霊につかれた男は自分の命を呪いながら

墓場に住み着いておりました。

そういう男を町の人々は鎖で縛りつけようとしたようです。

墓場に住み着くことを止めさせようとしたのです。

しかしそういう町の人々の押さえつける力を、

縛り付ける鎖をほどいてしまう。

墓場に住みついて奇声をあげる、このような男が居たら

私たちも恐ろしいと思うでしょう。

この物語はルカ福音書以外にもマタイ・マルコ福音書に記されています。

そのどこを読んでも、この男自身が人々に危害を加えるような

暴力性を現している箇所はありません。

むしろ丁寧に読んでいった時に分かることは、

この男の暴力性というのは彼を押さえつけ・縛り付けようとする

人々の力に対する抵抗・反発としてだけ出てくる。

これは聖書の非常に丁寧な観察だと思われます。


 家庭内で見られる暴力というのもほとんどこのようなものであります。 

積極的に親に殴りかかるのではない。

本人(子どもと言って良いでしょう)にしてみたら、自分を押さえつけ、

本当の自分を閉じ込めている親の手を何とか振り解いて

自分を解放してあげたい、それだけなのです。

相手を傷つけたい訳でも殺したい訳でもない。

ただただ、自分のことを押さえつけるその手をどけて欲しい。

自分ががんじがらめにされてきた見えない鎖、

人の狂暴さに対する抵抗としての力であります。 

けれども抑えつけている方は、自分が縛り付けてきた

鎖があることが見えないので、

「この狂暴な人間をどうしたらよいか」となってしまう。

親も先生も子どもが少しでも暴力的になると、

直ぐに「警察だ・子どもにも罰を」と騒ぐのですが、

そう言いながら現代の社会が・親が・大人が

暴力的に子どもを縛り付けている鎖には目が向かないのです。


この男も同じであります。別に町の人々に危害を加えるつもりは毛頭ない。

ただ自分は墓場に居たかったのです。

みなと同じように命を喜ぶのではない、死を恋い慕い、

死者と共にあることを望んでいただけ。

ですから、この男の好きにさせておけばよかったとも言える。 


どうして町の人々はこの男を捕まえて鎖で繋いだり押さえつけたり、

ということをしたのでしょうか? 



2.「死」という圧倒的現実の前に


 「悲観論」の思想家ショーペンハウエルが言いました。

「この世界は考えうる世界で一番悪い世であるゆえ、

人間にとって一番いいことは生まれてこなかったこと。

その次にいいことは早く死ぬこと。一番悪いのは長生きすることである」、

こんな言葉誰も聴きたくありません。

今私たちは現に生きているのだから、「生きていることが一番不幸だ」

そんな思想聞きたくない。

ニヒリズム・虚無主義が言うこともやはり絶望です。

「どんなに頑張って生きても、どんなに正しく生きても、

豊かな財を得ても、私たちはやがて死んでいく。

虚無、結局この世の一切には意味も無く価値も無い。」

やはり聞きたくないような言葉。

せっかく生きているのだから、生きていることが

有意義であってほしいと願う。

自分の命は、人生には、これまで経験した苦労には

みんなが意味があると信じたい。そんな否定的な言葉は聞きたくない。 

この町の人々の思いも似ていたかもしれません。

命を呪い続けるこの男。

生きていることを最大の不幸と思い墓に住み着いているこの男。 

生きていることが不幸だ。死こそが幸いだ、

と死を慕って墓場に住む男の姿を見ながら、

町の人々はこの男が住み着く墓場が自分たちと

無関係ではないことを思い知らされるのです。

いつか自分たちも死ぬ。その時には自分も、

この男が住み着いているあの場所に居ることになる。

その現実が嫌だから、そんなことを考えたくないから、

だからこの男を鎖で縛りつけてでも墓場から連れ出そうとしたのです。


ある人が言いました。

「人間の希望とは繰り返しの中にある。

今自分が体験していることを“もう一度体験できるに違いない”

と信じる思いの中に生きる希望が生まれてくる」、

例えば美しい桜の花を見ている時に、

来年もまた桜の花を見ることができると信じることが希望になる。

逆にどんなに美しい花を見ても、もう二度と見ることが出来ない、

これが最後だということではその花から希望を得ることはできない。 

私たちの人生には、必ず行き止まりがある。

もう繰り返すことができなくなる最後がある。

そしてこの男が住みついていた墓場に自分の体が納められる時が来る。 

この事実はどんな人間にも突き付けられていて確率は100%です。

そういう現実の前で私たちはどのように生きるか?

人間には二つの方法しかない。

 一つは、この悪霊につかれた者のように絶望する。ペシミズム・ニヒリズム、

「どうせ何をしたって最後には皆消えて無くなる。

それなら一生懸命生きることなんて愚かしい。

生きていること事態が空しい。命があることが最大の不幸。死こそが幸い」、

そういう生き方。 

もう一つは、この町の人々がそうしたように、

人生の墓場を示すその場所を避けて、

いつか繰り返せなくなる命の終わりがあることを誤魔化して、

終わりなんか考えずに生きる生き方。

人間にできるのはこの2つのどちらかである。


イエス様が救い主としてお出でになり、

そして異邦の地デカポリスにまで足をお運びになれたのは、

このような人間の二つの生き方とはまったく異なる

救済の道を用意して下さったということなのです。


28節「彼はイエスを見ると叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。

「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。

お願いです。私を苦しめないでください。」


イエス様の登場にこの男にとりついていた悪霊たちが騒ぎだした。

この男から自分たちを追いだそうとするイエス様に対して、

どこかに自分たちの行き場所を作って欲しいと頼むのです。 

そこでイエス様は悪霊たちの願いを聞き入れ、

32節「ちょうど、そのあたりの山に、たくさんの豚の群れが

飼われていたので、悪霊どもは、その豚に入ることを

許してくださいと懇願した。イエスはそれを許された。

8:33 悪霊どもはその人から出て、豚に入った。

すると豚の群れは崖を下って湖へなだれ込み、おぼれて死んだ。」


イエス様は悪霊を豚の群れの中に入らせた。

すると、死の悪霊にとりつかれた豚は湖に突っ込んでみんな死んでしまった。

実に不思議な出来事です。

これまで私たちが学んできたように、

主イエスが人々を癒したり解放することは、

手軽なことではありませんでした。

イエス様が人々の様々な痛みをお癒しになられる時に、イ

エス様は人々の痛みをご自身の身に担われる。

消えて無くなってしまうのではなくて、

イエス様が受け取ってくださる。

そうやって私たちの痛みを担われたイエス様の行きつかれた場所が十字架であった。

しかしこの時主イエスは、ご自身の身にこの男の痛みを

負われるのではなくて豚の群れに悪霊を負わせられた。 

この土地には豚飼いが多くおりました。その人々にとって豚は貴重な財産。

全財産。つまり、イエス様は豚の飼い主達に、

この男の悪霊を追い出すその代償を払わせたのです。 

唯一の収入源であった豚が、この男が悪霊から解放され、

正気にかえる為に犠牲とされたのです。 

主イエスはここで、あえて豚飼いたちに犠牲を払わせたと思えてなりません。

彼らは同じ町の人々です。この男と共に生きていくべき人々。 

彼らは全財産を失いました。

この男が正気に返るために、自分たちの唯一の収入源を失ったのです。 

しかしそのことによってこの男が、生きることへの絶望から解き放たれた。

自分の命を喜び、人々共に町で生きる人生を回復したのです。

もし自分たちの全財産を犠牲にすることによって、

一人の人が生きるのならばそれは幸いなことではないか。 

しかし町の人々は、この幸いに目が向かなかった。

向かなかったばかりか、自分たちの財産が失われたことに心を奪われ、

37節「ゲラサ周辺の人々はみな、イエスに、

自分たちのところから出て行ってほしいと願った。

非常な恐れに取りつかれていたからであった。

それで、イエスが舟に乗って帰ろうとされると、」


一人の男の人生の回復のために、街の人々が財産を失った。

これは不条理なことなのか、それとも幸いなことなのか。

私たちならどう考えるのか。 

けれども、この男が悪霊から解放されたのは

この男一人だけの恵みではありませんでした。

この男のために、街の人々が犠牲を払った、それだけのことではない。 

すでに学びましたように、死への絶望に取りつかれていたのは、

墓に住み着いた男だけでは無かったからです。

何気ない日常の生活を送っていた人々もまた、

彼の目の前に立ちはだかる墓場への恐怖に取りつかれていた。

ただ彼らはそこから目を逸らすこと、考えずに

済ませる生き方を身に着けていただけ。


先程ペシミズム・悲観論について触れました。

命があることこそが最大の不幸。

実はこのような発想は、私たちが心の病を負い

鬱的に鳴った時に考えることと酷似していると言われます。 

私自身が心病む方々との関わりの中でふと感じることは、

今様々な事情で心病んでらっしゃるこの方と、

今たまたま健康な心で生きられている私と何の違いがあるのだろうか、

そういう風に考えることがあります。本質的には何の違いも無い。

ただ私の方が要領よく世の中を生きられるだけではないか。

この人の方がよっぽど真剣に、真面目に、現実を直視して生きている。

だからこそ、疲れ果ててしまっているのではないか。

そういう思いをさせられることがしばしばあるのです。

実際その通りでありましょう。


 3.主イエスの招き

イエス様は言われました。マタイ福音書25章で言われました。

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、

これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、

わたしにしたのです。」


この御言葉はマザー・テレサの献身の御言葉であり、

また彼女が生涯を通して支えとした御言葉でもありました。

“貧しい物、小さい者の中に主イエスがおられる。

私はこの人たちに触れることで主イエスに触れているのだ”という信仰。

そうして彼女が認めた小さい者とは、

インドのスラム街、路上に捨てられ死んでいく人々でありました。

どんなに手当てしても、大切にしても、生き返る訳ではない。

100パーセント数日後には死んでしまう路上生活者たち。

そういう方々を死の直前に愛すること、尊ぶこと。 

それは墓場で終わらない、そこに永遠の命の道を備えて下さった

主イエスへの信仰なくして為すことの出来ない業であると思います。 


そのようにして、墓場にうずくまる者の友になることで、

その人に恵みを施せるというだけの話しではありません。

そうやって、墓場にもたらされた救いを現すことによって、

私たち自身が墓場から甦られた主イエスの恵みに

生かされていることに気がつき、喜べるようになるのです。 

この世界には確かに死の力に絶望している方々と、

死の力から逃避することを力にして生きる人々と、二種類の人間がおります。

そこで私たちがどのようにしたら健やかな魂を得られるのか?

それは主イエスの福音によって始まる。

その福音の力が具現化される為には、

墓場に生きる者と、墓場を避ける者が共に生きることを学ばなければいけない。 

慰める者と慰められる者という関係ではありません。

教える者と学ぶ者。助ける者と助けられる者。

憐れみを受ける者、犠牲を払う者。そういう関係性では無い。

慰めを与えることの中で逆に慰められる。

慰められることの中で逆に慰めを与える、

そのような共に生きる関係の中にこそ救いがある。

それゆえに、イエス様はこの男の癒しのために、

街の人々が犠牲を払うようにと導かれたのです。


豚飼いたちはこのことによって多くの財産を失ったでしょう。

その日から彼らの食卓は貧しくなったかもしれない。

けれどもその貧しい中にある一切れのパンを食することに喜びが溢れる、

これまで当たり前と思えていた生活の様々な事柄が光り輝いてくる、

そのような人生を真に生かす霊の糧。

もはや墓場を恐れる必要が無い人生に招かれていたのです。

しかし、彼らはその主イエスの招きを拒否し、

墓場を避ける生き方の中に留まることを選択したのです。 

私たちはどうでしょうか。

「着る物が無い。食べる物が無い」、

そうやって私たちは直ぐ不満を言うけれども、

実際には洋服ダンスには洋服が一杯。

冷蔵庫には食べ物が一杯。

ただ、着たい服が無い、食べたい物が無い、それだけです。 

もしあなたが日々を生きる望みを得るだけの豊かさを持っているならば、

その豊かさを望み無き人々の為に捧げるよう召されていると思って下さい。

そうやって望み無き人々と共にあることの中で、

私たち自身が主イエスの与えたもう望みの喜びに生かされるのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


 Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

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■「本当の奇跡はどこにあるか」 ルカ8:22-25

1.あなた方の信仰はどこにあるのか

 イエス様の癒しの力を伝え聞いた人々が続々と集まってくる中で、

イエス様は弟子たちに「向こう岸に渡ろう」とお命じになられました。

ペテロもヤコブもヨハネも、12弟子の中にこのガリラヤ湖の漁を

仕事としてきた者たちが多くおりました。 

ガリラヤ湖の向こう岸目指して船を出す。

距離にして15キロ位ありますから、手漕ぎの船で渡るのは

相当な苦労があったと思いますが、そこは彼らの専門分野、

ホームグラウンド、ここぞとばかりにがんばったかもしれません。 

しかしながら、

23節「ところが突風が湖に吹きおろして来たので、

彼らは水をかぶって危険になった。」


ガリラヤ湖というのは東西を高地に挟まれた

谷底のような地形になっているため、しばしば強烈な風が

湖に吹きつけ嵐になることの多い湖でありました。

もちろん弟子たちはそんなことは良く知っている。 

波が荒れてきてもさほど驚くことはなかったでしょう。

しかしながら、この時の嵐は弟子たちも

経験の無いほどのものでありました。

24節にありますように突風が吹き下ろしてきて湖は荒れ狂い、

弟子たちは死を意識するほどであった。 

そこで
24節
「そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、

「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。」


川奈というのは風がとても強く吹く場所でありますが、

特に旧会堂は高い所に立っていましたので風をまともに受ける。

荒井先生がちょうど今晩の箇所に準えてよく話しておられた

お得意のジョークがありまして、川奈に越してきて

余りの風の強さに恐ろしくなり、ひどい風の日にイエス様のように

「黙れ、静まれ」と風に向かって叫んでみたけれど、

おばあさんの言葉では何も起こりませんでした、

と冗談をおっしゃっておられました。

木造のお家がギーギー音を立てていたのを思い出します。

それでも、相当の風が吹いて建物が音を立てたとして、

死にそうな恐怖を感じるということは無いでしょう。 

弟子たちが感じた船の上の恐怖とは、ただ上から

風が吹きつけてくることだけではありません。

船が浮んでいる水面そのものが強風によって揺れ動くのです。 

建物であっても、立っている地面そのものが揺れ動く時に

恐ろしい恐怖を感じるものです。足元が揺らぐことの恐怖。 

私たちは一人一人、自分が頼りにしている土台がある。

そこに根差して、そこを頼りにして歩いている。

上から、横から風が吹き付けてもある程度は大丈夫。

けれども、足元が揺るぐことは恐ろしいことです。

全ての前提が意味を失ってしまうような恐怖がある。

漁師であった弟子たちにとってガリラヤ湖というのは

自分たちのホームグラウンド、自分たちにとって生きていくための

土台・大地のようなものであった。

その場所が揺らいだのです。

イエス様は24節の後半

「イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。

すると静まり、凪になった。8:25 イエスは彼らに対して、

「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。」


そして弟子たちに言われた。

イエス様は「あなたたちの信仰はどこにあるのか」

つまり「あなたたちの信仰がどこにも見えないではないか」

そう言われたのです。 

マルチン・ルターがここで素晴らしい解説をしております。

「弟子たちは、目に見える物しかみていませんでした。

目に見えないものを信ずることはできなかったのです。

目に見える物だけを頼りにして生きて、

それで信じているつもりでありました」

これこそが弟子たちの信仰の薄さだというのです。 

ここでルターが見えるものと言っているのは、

弟子たちの目に映るガリラヤ湖。

これまで何度も漁をして知り尽くした

彼らの経験に基づくガリラヤ湖であり、また海面が揺れ動き

自分たちの手に負えなくなった嵐のガリラヤ湖であります。 

私たちの乗り込む信仰の船も案外そういうものかもしれません。

教会に行って礼拝をささげ、御言葉を学び、献金をし、祈りをし、

賛美歌を歌い、奉仕をし。確かに手ごたえがある、目に見える信仰の営み。

そうやって自分の信仰生活の感触を確かめながら、

その信仰に神様が答えて下さると思いこんでいる私たちの誤解。

そこでルターが警告している。

本当にそれがあなたたちの揺るがない信仰生活の土台となりうるのか?

もしそういう目に見える信仰の営みが崩れたらどうなるか。 

プロテスタント教会は少々神経質すぎるほどに偶像礼拝を警戒する。

私は別に部屋に十字架を飾っても、アクセサリーとして身につけても

何ら問題は無いと思っています。

ただそれを信仰の対象としてはいけない。

そのことは本当に気をつけていないといけません。


そしてそれは物としての偶像に留まらない。 

礼拝を守ること、聖書を読むこと、祈ること、

そういう一つ一つの信仰生活のアクションは大切です。

私たちが信仰を守っていくことで欠かすことができません。

けれども一方でどうでしょうか。

「私は毎週礼拝を守っている。毎週説教を聞いている」、

そういう形に安心を求め、自分の救われた者としての根拠を

見出すような錯覚をすることがあるかもしれません。

でもそこに私たちの信仰生活の保障があるわけではない。 

礼拝をこうして献げている時に、私たちが本当にこの場所に座して、

十字架で私たちのために命を捨てられた

イエス・キリストを私の主としてお受入れし、お従いして歩んでいるのかどうか。

そこで与えられる御言葉を私の人生の糧として食しているのか。

そういうことが切実に問われる。 

夫婦の関係性も同じです。

形も大切です。でも同じ家で生活して、戸籍上夫婦の関係性があって、

だから自分たちは夫婦だと形を頼りにしていて、

しかしそこに愛を失っていることは幾らでも起こることです。

「あなた方の信仰はどこにあるのか」

このイエス様の問いかけは私たちにとっても

決して無縁のものではない。

いや、こうして礼拝に集っている私たちであるからこそ

「あなたの信仰はどこにあるのか」

このイエス様の問いを真剣に受け止めなければ

いけないのではないでしょうか。

 一つの例えでありますが、ヴァイオリンやコントラバスなどの

弦楽器がギターと違う点の一つは、

フレットと呼ばれる線が入っていないということです。

指を抑える場所に何の目印も無い。

ですから音程を取るためには耳で聞いて、

手の感触で覚えていくしかありません。

これがピアノやフルートなど、音を出す目印を持っている楽器と、

弦楽器の違いですし難しさでもある。 

良くチェロなどを始める方が、目印のシールをペタペタ貼って

「ここを押さえればド、レ」と練習をなさるのです。

それなら、最初から目印がついていても良いようなものですが、

ではどうして元々目印の線がないのか。 

それは目で見て“あの場所だ”と目印を確認し、そこに指を合わせていくことと、

体にしみ込んだ動きの中で視覚に頼らずに一つの場所を捉えていくことと、

演奏上の違いが歴然としてあるからです。

視覚的な狙いでの動きと、体が自然にその場所を捉えていくことと、

音の動きの滑らかさは全然違うものです。

しかも、目印を追って習得しても、中々目印なしで弾けるようにはならない。

目で覚えたことというのはいつまでも目を必要とする、そういう所があるのです。 

私が弾くコントラバスは移動距離が非常に長い。

音程を取るのが最も難しい楽器です。

そうすると、無意識に楽器についた傷とか木目とか、

そういうものを知らない内に目印にしていることがあるのです。

それで、突然別の楽器で弾くことになった時に

「あの目印がない」と慌てることがある。 

そのように知らず知らずのうちに、私たちは自分の信仰の目当て、

信仰生活の感触を覚えて、それを通して神様に触れようとする所がある。




2.本当の奇跡はどこにあるか

 この時弟子たちは嵐の中でどのような態度を取ることが

イエス様によって求められていたのでしょうか。

嵐の中でもイエス様のように落ち着いていること。

寝ているイエス様を起こさずに

「この嵐の中でも私たちは守られる」と信じ抜くことだったのか。 

そういうことではありません。

イエス様が問うておられるのは、嵐の中でも、弟子たちが

イエス様を見つめ続けられるかどうかでありました。

嵐の中、嵐を見るのではなく、イエス様を見る。

イエス様が今眠っておられる、その事実を認めることが出来るか。

イエス様の眠りの意味は

「この嵐はあなたたちの滅びをもたらす嵐では無い」

ということでありました。

確かに湖は荒れ狂っておりました。

船が浮かぶ水面そのものが揺れ動いていた。

しかし、その揺れ動く水をお造りになったのは誰か。

風を、水を、波を支配しておられるのは誰か。

イエス様が私たちに与えようとしておられる恵みは、

この地が揺れ動き、その上に立つ全ての物が倒れても、

ご自身を信じる者が倒れない、そのような信仰です。 

きっと、全ての方が信仰をもつ前にこの物語を読んだ時に考えることは

「嵐の海を沈める、そんな自然の法則に逆らう奇跡が起こりうるか」

という問題であろうと思います。

しかしながら、信仰を持つ決心が与えられた時に

「わたしはこういう奇跡が信じられるようになったので洗礼を受けます」

とはならないのです。

神様は全能のお方でありますから、あらゆることがお出来になられます。

そこでしかし、神様の全能を矮小化(わいしょうか)してはいけません。

大風が吹いている時に、それを鎮められるかどうか、

そんな風にして神様を試してはいけないのです。

実際、多くの人々がイエス様の奇跡を経験しました。

1万人の人々がパンの奇跡を目の当たりにしました。

数えきれない群衆が奇跡を体験して、

しかし彼らはどこに行ったのでしょうか。

イエス様の十字架の時に、彼らはたまたまそのことを知らなかったので、

イエス様が捕らえられた時に行動できなかったのでしょうか。

そうではないでしょう。人々は良く知っていました。

ですから、十字架の一週間前にエルサレムに入城されたとき、

みんなが「イエス様万歳」と大喜びでお迎えしたのです。

しかし、一週間後にその群衆が同じ口で

「イエスを十字架にかけろ」と叫びました。

彼らは奇跡を知っていましたが、しかし主イエスを

救い主と信じぬくことができませんでした。

なぜでしょうか。答えは明白です。

私たちが必要としている、一番大きな奇跡に目が向かなかったからです。

それは言うまでも無い、私たちの罪を贖うための十字架の犠牲です。

神の一人子、救い主キリストが、私たちの罪のために

十字架で死んでくださり、そうやって私たちの罪を聖めてくださった。

許してくださった。これ以上の奇跡はありません。

本当に自分の惨めさ、汚らわしさ、罪深さを見せつけられる時の絶望。

あのイスカリオテ・ユダが銀貨30枚で、

イエス・キリストを売り渡してしまった。

その自らの愚かさを痛感し、命を絶ったあの絶望。

これが私たちの罪の重さです。

そういう私たちが、本当に認めなければいけない奇跡は、

銀貨30枚のために救い主を売り渡すほどに汚れ切った私たちを、

なお救い出そうと手を差し伸べて下さる神の御子がおられたということ。

私たちの前に救い主の御手が差し出されていて

「わたしの手につかまりなさい。私について来なさい」、

そうやって愛の言葉をかけて下さるイエス様がおられる。

どうしようもないような私たちの愚かさを、罪を、汚れを、

消すことのお出来になったイエス様の大奇跡を

信じることで私たちは救われます。

私たちの根底にある嵐が、イエス様の十字架と復活によって

鎮められたのです。

古代から、教会とはイエス様とともに船に乗り込み、

嵐の湖にこぎ出していくようなものだと考えられてきました。

それゆえに、船に似せてデザインされた礼拝堂が西洋では多くみられます。

しかし今晩私たちは御言葉を学んで、さらに深くそのことを

理解出来たのではないでしょうか。

私たちが、イエス様と一緒に船に乗り込むのではないということ。

イエス様が私たちの沈没間近の船に乗り込んできて下さったのです。

私たちの船にイエス様が乗り込んで来て下さり、

そしてその船の中でゆっくりとしておられる。

眠ることなどできない、大嵐のさ中にも静かにお休みなさるイエス様。

その眠りの根拠は、この後イエス様ご自身が成し遂げられる

十字架と復活の御業にかかっていました。

ご自身が成し遂げられる救いの道への絶対的な確信において、

イエス様はお休みになられている。

この眠りに私たちも招かれているのです。

嵐の中でもゆっくりと休まれるイエス様が、

お一人一人の寝床に今晩伴ってくださいます。

私たちも安心して休むことができるのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


 Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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異なることをご理解下さい。


■「キリストに結ばれる関係」ルカ8:19-21

1.家族を繋ぎ合わせる絆

 今晩私たちに与えられている御言葉は

イエス様の家族の様子を記すものであります。

19節
「さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、

大勢の人のためにそばに近寄れなかった。」


このようにイエス様の実の家族が登場するのです。 

聖書を調べて行きますと、イエス様には少なくとも4人の兄弟と

幾人かの姉妹がいたことが分かります。

マルコ6:3には「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン」

と4人の兄弟の名前が記されています。

この中のヤコブはのちの日に12弟子と共に

初代教会のリーダーとして活躍します。

特にエルサレムの教会の指導者でありまして、

ヤコブの手紙の著者と考えられております。

また、非常に短いですがユダの手紙という書物が

新約聖書の終わりにあります。

この書物を書いたのもイエスの兄弟ユダではないかと考えられています。 

このように主イエスの実の兄弟たちは、後の日には

初代教会のリーダーとして活躍するのですが、

今晩の箇所においてはまだそのような信仰は現れていません。

そしてここに出てくるのは兄弟たちだけではない。

イエスの母マリアも一緒に居た。 

彼らは何をしにイエス様のもとに来たのでしょうか。

しばらく会っていないイエス様の顔を久しぶりに見たくなったのか。

この出来事はマルコ福音書、マタイ福音書にも記されています。

それらを読んでいくと、イエス様の家族がここに来たことの理由は、

ただ単に顔を見に来たというようなことではない。

イエス様を連れ戻しにきたのです。

こんなことは止めさせて家に連れ戻そう。何とかして説得しよう、

そういうことです。 

聖霊によって主イエスを胎内に宿し、イエス様が

どのような方であったのか誰よりも良く知っていたはずのマリアが

そのようなことを考えていた。

なぜこのように考えたのか、理由ははっきりしています。

これまで学んできたようにイエス様と宗教教師たちの対立が

ドンドンと激しくなってきた。

その噂がマリアたちの耳にも届いたでしょう。

当然イエスの身に危険が近づいていることを理解していた訳です。

これ以上状況が悪化しない内に速やかに家に連れ帰られなければならない

と思ったのでしょう。それは良く分かる親心です。 

それだけ状況が切羽詰まっていたのだと思います。

やはり身内の役割というのは重たいものでありまして、

身内で無ければ・家族で無ければ言えないことというのがある。

それは私もしばしば経験するのです。 

牧師と言っても血が繋がっている訳ではない私が

これを言ったら関係が途切れてしまう、

そういう局面で家族の方が言うべきことを

はっきり言ってくださると本当にありがたい。

夫が妻が、子どもが、これはもう自分たちが出ていかなければ。

イエス様の肉親がここに現れたのはそういうことなのです。

20節「それでイエスに、「母上と兄弟方が、

お会いしたいと外に立っておられます」という知らせがあった。」

面白いことにここで母マリアと兄弟たちは

主イエスを呼びに来たにも関わらず、家の中に入って来ないのです。

外で立って待っていた。 

この時主イエスは沢山の人々に囲まれていて、

イエスの用が終わるまで外でジッと待っていたのだろうと思います。

その様子を周囲の者が察して

「イエス様、お母さんと弟さんが外でお待ちですよ」と伝えてくれたのです。 

こういう情景を思い浮かべると、主イエスのご家族と言っても

極々普通のどこにでも見られる家族関係だったことが分かります。

母マリア、そして4人の兄弟達は本当にイエス様のことを愛していたのです。

「我が子イエス」「我が兄イエス」

宗教教師たちと対決して身を危険にさらすような、そんなことをしないで欲しい。

「元の生活に戻ろうよ。これ以上やったら大変なことになるよ」

そのようなイエス様に対する愛情の中で、

彼らは思い切ってイエスの下にやってきた。

かといって、家の中にズカズカ入っていって

イエスに恥をかかせてはいけない。

イエスの仕事が終わるまで私たちはここで待っているので、

そういうことで戸口に立ち続けている。


21節
「しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。

「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、

神のことばを聞いて行う人たちのことです。」」
 

厳しい言葉です。

わたしの母とはだれのことですか。兄弟たちとはだれのことですか。」 

もしかして、少なくともマリアは分かっていたのかもしれません。

ルカ福音書の冒頭で学んだように、聖霊によって身ごもるという

特別な体験を通してイエス様を産んだのですから。

御使いの声を直接聞いたのですから。

シメオンやアンナという預言者たちの言葉を聴いたのですから。 

イエスがメシヤとして人々を救いに導く、特別な生涯が待ち受けている。

そのことがついに現実のものとして現れている。

しかしそのことを受け入れられない人間マリアがいるのです。

早くに夫を亡くし、長男のイエス様が家族を支えてきた。

マリアのイエス様に対する母親としての愛情、愛着。

「いつまでも自分の元に居ておくれ、いつまでも私のイエスでいておくれ」、

そういう家族を前にしてイエス様は

「私の母、私の兄弟とは神の言葉を聞いて行う人たちである」とおっしゃった。

これは肉の家族、実の家族に対する決別の響きを持った言葉と言えるでしょう。


今日早川谷二郎の講演で、木下杢太郎の柏屋傳右衛門という戯曲を紹介しました。

その中で、早川をモデルにする広吉という人が、

明治の伊東で伝道活動して人々に反発や戸惑いを与えるのですが、

こういう所があります。

「仏教じゃ、出家が勤める道と、在家が勤める道とが違っているが、

イエスのほうじゃ、どいつもこいつもイエス坊主にならなきゃならん

みたいなことを言うね。

“教えのためなら親や妻子も捨てなきゃいけない”

なんて言うのを、わしは聞いたよ。

東京じゃ、それで井上さんや加藤さんなんていう偉い学者も、

イエスを嫌っているね。慶応の福澤先生なんかは

どんな考えを持っているのかねえ。

今でも広さんが、毎晩毎晩、赤い十字架の絵を描いた提灯を灯して、

宿の四つ辻で大道説教をやっているそうだよ。

だけどなあ、そんなことばかりしてたら、お互いの商売が成り立ちやしない。


非常に興味深い内容です。130年前の伊東で早川が伝道した時に、

一つの戸惑いになったのは正にこの

「教えのためなら親や妻子も捨てなければいけないのか」

という今晩のイエス様の教えにあった。

そしてまた、十字架の提灯を灯して道端で伝道する谷二郎に、

そんなことじゃ商売が成り立ちやしない。

つまり、もっと人との繋がり、伊東の古いコミュニティを大事にしないと、

神様との結びつきばかりでは生活が成り立たない。

非常に核心的なやり取りが出てくる。

つまり、杢太郎という人はこの辺のことを熟知していたわけです。

キリストが本来的になにを教えているのかを分かった上で、

それを誤解する人々。また人との繋がり、地縁・血縁が正義に勝り、

古い悪習を手放せない伊東の人々の姿を見抜い

てこのように小説にしている。大変興味深いところです。






2.イエス様が繋ぎ合わせて下さった

ルカ福音書に戻りまして、なぜイエス様はこのようなことを

あえて言われたのか?

聖書を見ていくならば、決して神様は

「家族なんか二の次だ。信仰に生きれば良い。

家族のことなど考えるな」そんな教えを与えてはおられません。

むしろその逆、家族を愛することを教え、

両親を敬うことを命じています。 

モーセの十戒の第5戒「あなたの父母を敬え」という旧約聖書の教え、

聖書が信仰の家族だけでは無い。

実の家族を愛すること、重んじることを

教えていることは間違いありません。 

では、そのようにして家族を愛するように教えている聖書の中で、

なぜイエス様がこのように実の家族を冷たくあしらわれるような

記事が記されているのか?

ここで考えなければなりませんことは、

私達が本当に父母を敬う、家族を愛することを知っているものなのか

どうかということです。 

聖書が語っていますことは、

「あなた方が家族を愛するということ。

そのことは決して自明のことではない」ということです。

父母を、兄弟を、子どもを、伴侶を大切にするとはどのようなことか。  

イエス様は一体何を拒絶されたのか。

イエス様は自らの家族を拒否されたのではありません。

そうではなくて、ご自身の家族がイエスに

「ナザレに帰って再び以前の生活に戻るよう勧めた」

その事を拒否されたのです。 

イエス様はマリアをはじめ家族との繋がりを、愛情を

否定されたのではありません。

その反対に誰よりも家族を大事にされた。

大事だからこそ、何によって結び合うのか、家族を繋ぎ合わせる絆は何か、

そのことを厳しく問われたのです。


時にカップルや夫婦の関係の中に、

間違った絆・繋がりが見出されることがあります。

それでも相手との関係性を求める余り、

この人と繋がっていられるのならば構わないと言って、

例えば相手の暴力であるとか、酒乱、ギャンブル、浮気、

そういうものを許容してしまうことがあります。

傍から見たら「もうそんな人と別れなさい」と言わないではおられない状況。

それでも「この人と一緒にいられるのなら」

とか「この人が居ないと私は」とか、

そういう依存的な思いで相手の過ちを許容し

繋がりを保つことに必死になってしまう。 

親子の関係であれば、「あなただけが私の生き甲斐だ」

と子どもに依存する親が居て、

「お母さんの言う通りに生きるから、その代わり

私の人生に責任を取って頂戴」と甘える子どもがいる。

繋がり合っていればなんでも良い訳ではありません。

正しく繋がり合わなければ、その関係性は相手を生かし、

自分を生かすものにはならない。

繋がり合っているゆえに、お互いの人生を破壊してしまうということは

しばしば起こるのです。 

主イエスがここで母と弟たちに大変厳しい言葉を投げかけられた。

それは、家族が主イエスに求める繋がりが正しいものでは無かったからです。

「とにかく繋がっていたい」と思う家族に対して、

主イエスの家族に対する思いはより深い、より大きい、愛であったのです。


結婚式でしばしば申し上げることです。

愛し合う二人、握り合う二人の手は強固で確かだと思う。

そういう二人がなぜわざわざ神の御前で結婚式を上げるのか。

それは、二人が握り合う手に神の御手を添えて頂き、

神によって繋がり合い、保たれる関係性を頂くためでございます。 

結婚というのは神様に夫婦という家の鍵をして

頂くようなことということが出来ます。

結婚式の時に「神が結び合わせたものを離してはならない」と宣言することは、

非常に厳粛な場面です。

この言葉によって、夫婦という関係性に神様が鍵を閉めて下さるのです。

そのカギは夫婦も持っていない。

ただ神様だけがお持ちの物なので、夫婦といえども開けることができない。 

神様が鍵を閉めて下さったという事実は、

結婚生活を続ける中でズシリと重みを持ってくるのです。

人と人とが共に生きる時、相手に対する不満と言うのは避けようもない。

ホトホト相手に嫌気が差すことがあるかもしれない。 

そこで「あなたたちが結ばれたのは神の定めである。

神が結び合わせたものを引き裂くことは赦されない」、

この結婚式の宣言はどういう響きを持つでしょうか。 

お互いが離れたくて仕方が無い時に、しかし自分たちは

その関係性を引き離すための鍵を持っていない。

あっ、あの時鍵をしたのは私たちじゃない。神様だった。 

そうして始めて、神のみ前で、神の定めの基で、

結び合わされたことを知るのです。 

逆に言えば、神によって結び合わされるということの重さを知らずして、

結婚生活に耐え得ない私たちである事を弁えなければならない。 

どんなに堅い決心と愛で結ばれたと、二人が確信し合っても、

その確信は絶対に揺らがないかと言えばそうではない。

結婚生活の重大な苦しみの基では、人間の決心というのは

あっけないほど簡単に崩れてしまう。

そういう所で自分たちが神によって結び合わされたという事実を

受け入れる思いを持つこと、それが結婚の本質であるのです。

私たちが握り合う手というのは、一見すると強い絆のように見えるけれども、

しかしその手は余りにも脆い。

いや、仮に握り合っていたとしてもそれは愛ではなく、

束縛であったり、相手を自分の思い通りにしようとする

自己中心の手であったり、相手に依存して離せない手。

世間体を気にして繋がれている手に過ぎなかったり、

今さら離すわけにいかないから

仕方なく繋がれている手であることもある。 


けれども、聖書は語っています。

エペソ2:14
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、

隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」


イエス様によって与えられる繋がりは、隔ての壁を打ち壊し、

敵意を廃棄されるものだ。 

やがて主イエスの十字架の場面において、

ヨハネ福音書はこのような一つの出来事を記しています。 

ヨハネ19:26-27
「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、

母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。

それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。

その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。」


主イエスの十字架の下に泣き崩れる母マリアと愛弟子ヨハネを、

「こちらがあなたの息子、こちらがあなたの母」

そのように主イエスを中心にして結び付けて下さった。 

同じように、ここに集められている私ども一人一人の繋がりも、

私たちの個人的な思いや好みではない、

イエス様が「あなたの兄弟、姉妹ですよ」と繋ぎ合わせて下さった、

そういう絆で結ばれている。

そして、このイエス様によって繋ぎ合わされた絆が

教会の中だけで必要なもの、有益なものなのでしょうか。 

“もう数十年連れ添っているから。今さら離れることなんか出来ないから。

世間体もあるし不本意だけど仕方がない”

そういうこの世の現実という名の後ろ向きの繋がりではない、

聖書が教える、赤の他人同士、敵対する者をさえ結びつける

イエス・キリストの絆。そしてまた、

どんなに誠実に愛し合う関係であっても、

いつか死はその絆を残酷にも引き離すでしょう。 

そこで私たちの繋ぎ合う手はほどかれます。

しかし、死から甦られたイエス・キリストによって

繋ぎ合わされるのであれば、その関係は死をも超えて守られていく。

これが聖書の教えです。 

 私たちは深いつながりを持つ関係性の中でこそ、

もっとも傲慢になる者なのです。

他人に言ったら生涯許されない言葉も家族なら許してもらえる。

だからこそ、家族の絆に甘えて傲慢に立ち振る舞ってしまう

私たちの罪の心があるのではないでしょうか。 

その自分の一番傲慢な場所、怠惰な場所に、

神のご支配を受け入れていく。

そうやって、本当に自分の一番身近な場所から、

イエス様が自分の母と自分の弟子を家族として繋ぎ合わせて下さった、

あの主イエスの御手に繋がられる関係性を求めていく。 

家族に対する真実の愛、永遠の神の御手によって

母と弟たちと繋がり合うことを求められた主イエス。

その真剣なご愛に私たちも預かりたいと思うのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


 Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。