ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。
この火曜礼拝ブログは
この火曜礼拝ブログは
川奈聖書教会・火曜礼拝における
山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり
オリジナルの説教とは多少、
異なることをご理解下さい。
1.イエス様を受け入れないサマリア人
イエス様は3年間の公生涯の大半をガリラヤ地方で過ごされました。
今私どもはルカの福音書9章を学んでいます。
ルカの福音書は24章まで続きますので、まだまだイエス様の
伝道活動も道半ばのように思われるのですが、
実はすでに今晩の箇所で、3年間の公生涯の最後の数ヶ月
と言うところまで時間は進んでいるのです。
福音書の時間的な経過を読み取ることは非常に難しく、
中々はっきりと断定できません。
そもそもイエス様が三年間の公生涯を歩まれたと申し上げていることにも、
不確かな要素が含まれているのです。
しかしながら、このガリラヤ伝道を終えられ
エルサレムに向かわれるタイミングについては、
もう十字架の恐らく3カ月前くらいではないかと
かなり明確に読み取ることが出来る。
イエス様の公生涯を大きく整理をするとこのようになります。
2年半のイエス様のガリラヤにおける宣教活動は群衆から大きな評判を得た。
しかし、9章に2度の受難予告がありイエス様の人気は峠を越える。
ここからドンドンとイエス様の周囲にいた群衆の数が減っていく。
そういう中でいよいよガリラヤを後にされエルサレムに向かわれる。
この2回の受難予告以降十字架までの最後の数か月を
ルカの福音書は相当の分量を割いて丁寧に記していく。
特に今晩の個所をはじまりにして、実に19章45節まで、
エルサレムの神殿にお入りになるまでのエルサレムに向かう
旅の記事が続いていくのです。
それほど重要な、また濃密な旅が始まっていくということです。
さて、イエス様は、天に上げられる日が近づいて来たことを思いつつ、
エルサレムに向かう決意を固められました。
そして、先に使いの者を出されるのです。
サマリア人の村をイエス様は通られるという、
そこで宿泊場所などの準備をしてくださいということ。
普段イエス様が、ご自分の旅の準備を弟子に事前に頼むという記事は
あまり聖書の中で見られないのでありますが、
この時はイエス様はそうなさった。
それは、これから通られる町がサマリア人の町であった、
つまり馴染みの無い、普段行くことのない町であったからなのです。
なぜサマリア人の町が珍しかったのか。
サマリア人と聴いて聖書中直ぐに思い浮かぶのは
ヨハネの福音書に記されているサマリアの女の記事ではないでしょうか。
あの時もイエス様はサマリア地方を通られ、
そしてサマリア人の女性に水を求められた。
それは当時のユダヤ人には考えられないような行動だったのです。
ユダヤ人とサマリア人というのは元々同じ
アブラハム・イサク・ヤコブに始まるイスラエル民族でありましたが、
ソロモン王の後の時代にイスラエルが南北に分裂いたします。
北イスラエルと南ユダと呼ばれますが、サマリアというのは
その中で北イスラエルのことです。
北イスラエルと南ユダは時に激しい対立関係に陥り
戦争をしたこともありました。
そうした歴史の中で、やがてアッシリア帝国によって
北イスラエルは滅ぼされてしまいます。
そうすると、北イスラエルの民は旧約聖書に禁じられていた
異邦人との結婚を良しとするようになります。
このことを南ユダの人々は大変嫌いまして
「サマリア人は汚れた民族になった」と言って、
民族の純潔を捨てたサマリア人を軽蔑し、
また敵対視するようになります。
ですからこのイエス様の時代においては、
ユダヤからガリラヤに行こうと思ったら、
ユダヤ人はサマリアの地に足を踏み入れる事を嫌って、
わざわざ遠回りをすることが常でありました。
そういうことですから、当然サマリア人の方もユダヤ人を嫌っていた。
イエス様の使いの者がサマリアの町に入った時に、
彼らを歓迎しなかった。
特にも53節にその具体的な理由としてこのように記されています。
「しかし、イエスが御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、
サマリア人はイエスを受け入れなかった。」、
サマリア人たちがユダヤ人のイエス様を歓迎しないのは
当たり前のことでありましたが、特にその理由として、
イエス様がエルサレムを目指しておられる、
それがサマリア人の気に食わなかった。
先程お話したように、イスラエル王国の南北分裂、滅亡という
歴史を辿る中において、異邦人との結婚を許す
サマリア人と民族の血を守るユダヤ人との決別が起こります。
聖地エルサレムから締め出される形になったサマリア人は、
止むなく旧約聖書においてしばしば重要な山として登場します
サマリア地方にあるゲリジム山に新しく神殿を築きまして、
そこで礼拝をするようになるのです。
創世記を開きますと12章7節でアブラハムはカナン到着後
最初にこのところに祭壇を築きましたし、
モーセの時代にも神様の祝福が与えられる山として登場いたします。
サマリア人はゲリジム山の神殿を新たな礼拝の場所として定めるのです。
しかし、このことがいよいよユダヤ人とサマリア人の対立を激しくしていき、
この100年前くらいにはユダヤ民族がゲリジム山のサマリア人の神殿を
破壊するという事件が起こっていた。
あのヨハネの福音書のサマリアの女もイエス様との対話の中で、
イエス様に「どこで礼拝することが正しい礼拝なのでしょうか。
私たちサマリア人は昔からゲリジム山こそが
正しい礼拝の場だと教えられてきたし、
ユダヤ人はエルサレム神殿こそが正しい礼拝の場だという。
一体どちらが正しいのでしょうか」
そういうことを尋ねた。サマリア人とユダヤ人の間に、
正しい礼拝の場所、真の神殿はどこにあるか、
この議論は彼らの対立のもっとも深い場所にある問題でありました。
ですから、エルサレムに向かうイエス様一行を
受け入れることができなかったのです。
使いの者たちは、サマリアでの出来事を受けて
イエス様のもとに戻りことの次第を報告しました。
その報告を耳にした12弟子のリーダー格、ヤコブとヨハネの兄弟は
激怒するのです。
54節「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。
『主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』」
先週も学びましたが雷の子とイエス様にあだ名をつけられた、
その本性が露わになるような場面です。
「先生を拒否するような者たちは焼き打ちにしましょう」という言葉。
これまでも、イエス様を拒んだ人はいたのです。
例えばゲラサ人の地において、イエス様は墓場に住みつく男を
お癒しになられたのですが、ブタを失った豚飼いたちが
「ここから出ていって欲しい」とイエス様を追い出す場面がありました。
その時にヤコブやヨハネが同様に怒ったとは書いてない。
この時の怒りはやはり相手がサマリア人だから、
という面が強くあったのです。彼らは何を望んでいた。
元はアブラハムに繋がる同族とは言え、罪を犯し神を離れ、
あろうことかエルサレムとは別に礼拝の場を定めたサマリア人。
弟子たちもまたサマリア人に対する嫌悪感を強く持っていたのです。
そう言う町にイエス様が立ち寄られる。
そこで彼らがイエス様に期待していたことは裁きの宣告でありましょう。
「あなた方は間違っている。真の礼拝はサマリアでは無い、
エルサレムでこそなされるべきだ。悔い改めよ」
そういう言葉を期待していたと思うのです。
そういう自分たちが願うメシヤ像の中では、
彼らはイエス様に命を献げる覚悟があった。
けれども、使いが帰ってくると、サマリア人はイエス様を拒否した。
それで怒り心頭、という場面です。
このような弟子たちの姿に対して
55節「しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。」
これはかなり厳しいイエス様のヤコブ・ヨハネに対する
叱責があったことを表す言葉です。
彼らの心をイエス様は厳しく戒められた。
イエス様は9章5節で弟子たちを伝道旅行に派遣する際に
このような原則をお示しになられました。
「人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに
、彼らに対する証しとして足のちりを払い落としなさい。」
あなたたちを受け入れ無い町があるなら、
その時には足のちりを払い落していきなさい。
自分たちにはこれ以上の責任は、なすべきことをしました、
というそういう姿勢。それで良いとイエス様は言われた。
しかしヤコブ・ヨハネはそれでは満足いかない。
焼き尽くし、滅ぼしてしまいたい。

2.さばいてはいけない
私たち人間は、正しさの中でこそ恐ろしい罪を犯すものであります。
正義の中でこそ、人間は醜いことを平然とする。
マックス・ウェーバーが
「善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、
人間の行為にとって決して真実ではない」と教えました。
戦争とか虐殺とか、私たちがもっとも嫌悪する出来事は
しばしば正義の中から生まれるということです。
自分が正義に立っているという思いこそが、歯止めを失い
人間をどこまでも残虐にする。
正義なんだから人を殺しても仕方がない。
正義のためなのだから残虐な行為も仕方がない。
正義なんだから許される、そういう思いです。
ユダヤ人にとってサマリア人の過ちは明らかでありました。
信仰の純潔を捨て、神の定めたもう都エルサレムを捨て、
勝手な場所で礼拝を捧げるサマリア人。
彼らの過ちが明らかであったがゆえに、
ユダヤ人のサマリア人に対する怒りは激しいものであり、
それゆえに彼らは100年前にサマリア人の礼拝の場所を
破壊するという恐ろしい事件を起こしたのです。
それゆえ当然、サマリア人のユダヤ人に対する怒り・憎しみも燃え上がっていた。
もちろん彼らにも言い分があったのです。
どちらか一方の言い分が100%受け入れられる、
そういうことは人間の関係性の中ではあり得ない。
完全な人は一人もいないからです。
しかしあからさまな相手の罪や問題を目の当たりにした時に、
あまりにも大きな問題を目撃した時に、そこで自分自身の問題や
過ちが見えなくなってしまう。
見なくて済むようになると言った方がよいでしょうか。
週刊誌で有名人の失敗・問題が報じられ、袋叩きに合う。
テレビだけでは無い。私たちの身近な生活の中でも、
誰かの影口を言う時にその場は大いに盛り上がる。
自分自身の問題から解放される快感です。
けれども、イエス様は「あの街を焼き滅ぼしましょう」と言う
ヤコブ・ヨハネを戒められました。
そうやって他者の問題や過ちで心を一杯にして騒ぎたてることを
お許しにはならなかったのです。
51節にイエス様のお心がどこに向いているのか、
そのことが明確に記されています。
「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。
イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。」
天に上げられる日が近づいてイエス様は御顔をエルサレムに向け、
毅然として進んで行かれた。そこに何を見ておられたかは
もう言うまでも無いことです。
イエス様は、十字架の死を見つめておられた。
そしてそのことによって、私たち人間の罪を贖い救いの道を開くことを
一心に見ておられたのです。
そういうお心の中でエルサレムに向かう旅をお始めになられた。
ですから、19章までの長いエルサレムへの旅の記事は全て、
十字架を真っすぐに見つめられるイエス様のお心の中で
読み解かれていかなければならないものであります。
当然、サマリア人の街に足を向けようとされた
イエス様のお心が彼らを滅ぼすことにではない、
彼らをも救いに招き・導くことを目的としておられたことは明らかである。
そこでたとえご自分をサマリア人が受け入れなかったとしても、
そのことを持って火で焼きつくすなどとんでもない。
イエス様は彼らを何とかして救い出すことを願っておられるのであるから、
自分の思いが適わないなら今すぐ滅ぼしてしまえ、
そんなことは思われない。
イエス様は6章37節から38節で弟子たちにこのように教えてくださいました。
「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。
人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。
赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。与えなさい。
そうすれば、自分も与えられます。
人々は升をよくして、押しつけ、揺すり入れ、
あふれるまでにして、あなたがたの懐に入れてくれるでしょう。
あなたがたは、自分が量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」
イエス様はさばいてはいけない、と教えてくださいました。
さばくというのは、裁判の用語。判決を下す、
つまり結論を出すということです。
さばいてはいけないと言われている時に、それはあなた方が
結論を出してはいけないということなのです。
この人は悪い人です、とさばいた。
結論を出した。そうするともうそれで終わりです。
それ以上もう前には進まない。変化は望めない。そこで終わり。
ヨハネとヤコブが、火を下して、と言ったのは正に結論です。
もうサマリア人は終わりだ。最後にイエス様によって
悔い改めるチャンスがあったのにそれを拒否した。
彼らは滅ぼされるべきだ、もうこれで終わりと思ったのです。
さばいたのです。
でもイエス様は結論を出すな、さばくなと教えてくださいました。
もうあの人はダメだ、愛しても無駄だ、何をしたって意味が無い、
そうさばいて終わりにするな。
まだ可能性がある、まだ希望があると信じてなお愛せ。
逆に、もしあなた方が裁きをくだすなら、
その裁きがあなた自身をも裁くことになる。
それは神様がそうされると言うこと以上に、自分が自分をもう許せない、
自分に望みを見出し得ない、自分に絶望しなければいけない、
そういうことになる。
ヨハネとヤコブはサマリア人の罪を断罪しました。
もしその裁きが神の御前に認められたならば、
この後イエス様を裏切り逃げ出していく
ヤコブとヨハネはもはや許されなかった。
自分を許すことはできなかった。
けれども、サマリア人に結論を出さず
忍耐してくださったイエス様は、同じ心をもって
ヤコブとヨハネに忍耐してくださった。
ヤコブとヨハネの結論とイエス様のご忍耐と、
どちらが優先されるかは彼ら自身にとっての大問題であったのです。
ロイドジョーンズというイギリスの説教者がこのように言いました。
「キリスト者とは、自分で自分をゆるすことができないにもかかわらず、
神は自分をゆるしてくださったということを悟っている人のことである。
言い替えれば、自分がゆるされている事実に驚いている人のことである。」
私たちは自分で自分を許すことができない、
つまり自分で自分を裁く他無くなってしまう、
自分で自分に結論を出してしまう、そういう存在です。
しかしキリスト者は、そうやって自分で自分を見切る他無い現実の中にあって、
そんな自分を許してくださっているお方がいることを知り、
その事実に驚いている、ロイドジョーンズはこのように信仰を告白しました。
自分にさえ裁かれてしまうような私を裁かずに生かして下さったお方がいる。
そうであるならば、結論を出してしまいたくなるようなあの人を、
この人を、なお裁かずに望みをもって愛することができるのではないか。
結論を出したくなるその人に、なお神様のご臨在ゆえに
望みを持ち続けることが、それがあなた自身の望みである。
そのことを忘れないで頂きたいのです。
十字架は、もう終わりという結論が出ていたその場所に
望みを与える救いの道でありました。結論を変える、それが救いです。
私たちがそのことを信じる時に、私たちの他者に対する
言葉は変わるのではないでしょうか。
大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。
Peace, Love and Understanding
今、ここにある幸いに感謝しよう。

