ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。


■「小さな献げ物を大きな信仰で」ルカ9:10-17

1.退く意味

 先週はバプテスマのヨハネがヘロデ・ヘロデヤ夫婦によって

殺害される事件を学びました。

今晩の御言葉はこのようにして始まります。

10節「さて、使徒たちは帰って来て、自分たちがしたことをすべて報告した。」 

これは何のことかと言いますと、9章の冒頭において弟子たちが

イエス様の元から派遣される記事学びました。

そのことを直接的に指しているのです。

これまでいつもイエス様に付き従って、イエス様の為さることを

見ていただけの弟子たちが、「さぁあなたたち出かけていって

福音を告げ知らせてきなさい。

悪霊に憑かれた者がいれば助けて上げなさい」とイエス様の元から遣わされた。

弟子たちは不安だったと思います。

「自分たちにイエス様みたいなことが出来るだろうか。

何の役にも立たないのじゃないだろうか」そう思いながらも、

半ば無理やりイエス様に追い出されるようにして出かけてみると、

少し前の6節にありますように彼らの伝道旅行は大成功に終わるのです。

それで、この10節で弟子たちは自分たちの成果をイエス様に伝えている。

「自分たちがしたことをすべて報告した」、自分たちの大きな成果を

イエス様に伝えている弟子たちの姿が描かれています。 

学校で起こったこと子どもが親に喜び勇んで報告するようなそういう場面。

そういう弟子たちの報告を聞かれた時にイエス様は

10節の後半「それからイエスは彼らを連れて、

ベツサイダという町へひそかに退かれた。」


この10節の前半と後半は繋がり合っています。

弟子たちがこのようにして自分たちのしてきたことを報告した。

それを聞いた時に、イエス様はベツサイダという町、

寂しい町に一度退こうとおっしゃった。


 しかしながら、しばしば成功体験の中に

失敗の始まりが潜んでいるということが多いのです。

「失敗は成功の元」にもなりますが、「成功は失敗の元」にもなる。

私たちは往々にして、この両者を行ったりきたりするものです。

パウロは「私は弱い時にこそ強い」と言いました。

決して勝つことのない弱い者が、信仰の力によって勝つことがある。

蟻のような無力なキリスト教会が、ライオンの様なローマ帝国に勝利した。 

そういう奇跡が起こります。弟子たちの伝道活動も正にそうでした。

この後イエス様を裏切り捨てる弟子たちが、

しかしイエス様に遣わされて行く時に大きな働きをすることが出来た。

これは主イエス様のなさった一つの奇跡です 

しかし、そうして大きな成果を体験した時に

「私がしたことはこれこれです」と自分を誇りたくなる誘惑。 

そこでイエス様はベツサイダに退かれた。

退かれた、退却されたということです。 

戦いの最中に司令官から退却の命令が出る。

それは、兵が非常に疲れていたり、また明らかに旗色が悪くて

これ以上戦っても犠牲者が増えるだけ。

そういう状況において退却の命令が下るのです。 

けれども、そもそも弟子たちはこの時疲れていたのだろうかと思うのです。

確かに多くの群集に取り囲まれて、忙しかったことは間違いありません。

 しかし私たちがそうであるように、どんなに忙しくても、

仕事が乗りに乗っているとき、順調な時というのは疲れを感じないのです。

「疲れた」と言いながらも、休もうなどとは思わない。

「もっともっと」、宣教に遣わされ大成果を収めた弟子たちは、

当然気分を良くしていた。 そう言う所に、食事をする暇も無いほど、

次から次に人々がやってくるのですから、

弟子たちは休まなかったと思います。 

もっと働きたい、もっとイエス様の役に立ちたい。 

「イエス様お休みなさっていて下さい。私たちが応対します。」 

しかしそう言う弟子たちにイエス様は待ったをかける。

「あなたたちは一度ベツサイダの街に退きなさい」 

弟子たちは、そう言われて「イエス様まだ出来ます。働きたいのです。

働かせて下さい。」そう頼んだかもしれない。 

しかし主イエスはそれをお許しにならなかった。



 2.あなた方に出来る事をしなさい

 さて、そのようにしてひそかにベツサイダに退いた一行は、

しかし直ぐに群集に見つかってしまうのです。

11節「ところが、それを知った群衆がイエスの後について来た。」 

密かに退いたはずであったのに、ぞろぞろと群集が

イエス様一行についてきました。

14節を見ますと、そこにいた群集は男だけで実に5,000人。

ですから、女性や子どもたちを加えるならば

一万人を超える人々が集まっていた。 

しかしイエス様はこの群集を見られて、ああせっかく

弟子たちを休ませようと思ったのに困ったことだとおっしゃらない。

11節中ごろ「それで、イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、

また、癒やしを必要とする人たちを治された。」 


この所を思い巡らしながら不思議なことだと思うのです。 

イエス様は、弟子たちをこの群集から退かせようと思ったのです。

彼らが、霊的な疲労状態の中に留まっていることを危惧しておられる。

そうして、密かに彼らを退却させて、霊的な体勢を整えようとしておられる。

それなのに、群集はぞろぞろついてきて、もしかしてたくさんの群集を見て、

更に多くの人々が集まってきたかもしれません。

これでは退却した事にならない。

かえって、更なる激戦地に弟子たちを連れて

行ってしまったことにならないだろうか。 

このところから生れる一つの疑問でございます。

しかし一行が荒野に移動する事によって一つの変化が

起こっていることに気が付かなければなりません。 

先程まで、物語の前面に出ていた弟子たち。

伝道活動によって悪霊を追い出し、病を癒し、人々を救いに導いた。

そうして私はこんなことをしました、と話している

弟子たちの姿が後方に移っている。 

一方それまで弟子たちを遣わし、弟子たちの話を聞いておられた

イエス様の姿がスッと前面に出てくるのです。 

大勢の群集を前に語りだすのは、また様々な人々の

必要に応えていかれるのは

「こんなことが出来ました、あんなことも出来ました」

と意気揚々としている弟子たちではなく、イエス様なのです。

それはなぜかと言いますと、あまりにも人数が多かったからでしょう。

一万人の人々を前にして語ることなど、弟子たちには出来ない。 

ここでせっかく手に入れた彼らの自信が砕かれるのです。 

自分たちには出来ない、これ程の人数を相手にすることは無理だ、

そういう劣等感・悲しみ・憂いが押し寄せてくる。

そうして更にイエス様は弟子たちにお命じになる。

13節から「すると、イエスは彼らに言われた。

『あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。』彼らは言った。

『私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません。

私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか。』」


「私はこんなことが出来ました。イエス様、私はこんなことです」

と意気揚々としていた弟子たちは、一万人の群集を見た時に

「私たちには無理だ。イエス様で無ければ」そう思った。 

そうして彼らの気勢が削がれた上に更に、

「一万人の群集にあなたたちで食べ物を上げなさい」と言われる。 

弟子たちは更に落ち込むのです。

彼らは勿論そんなお金を持っていないのです。

「それ程の量のパンをどうやって手に入れるんですか。

私達には出来ません。」

今まで、「私にはこう言うことが出来た。ああ言う事が出来た。」

そうやって喜びに満たされていた彼らは、

しかしイエス様の求めに答えることが出来ずに、

「私たちには出来ません」と答えるより無かった。 

彼らの喜びというものはすっかり消し飛んだと思うのです。

それまで大喜びで自分のしたこを誇っていた弟子たちは、

「出来ません」と答える事によって惨めさの中におとし入れられる。 

ですから13節の弟子たちの言葉には、怒りさえ読み取ることが出来るでしょう。

「どうやったらそんなことできますか!そんなこと出来るはずありません。」 

どうして弟子たちは主イエスに怒りを覚えるほどに苦しむのか。 

それはイエス様の要求が、弟子たちに全く実現不可能な要求だったからです。

「私にはこれが出来るあれが出来る」

そうやって自分の能力を誇りにして生きる時、

「出来ません」と答えることは苦しみなのです。


自分がどれ程の能力を持っているか。どれ程の人々の役に立っているか。 

そう言うことを頼りにして生きていくならば、

私たちは絶望しなければならない。 

私たちには出来ないことが沢山あるから。 

「主よ、こんなこと出来ません。なぜあなたは私に

こんな出来もしないことをお命じなされるのですか。 

私を苦しめたいのですか。」

そう怒りを込めて主に不平を申し上げたくなる。 

この時の弟子たちの思いが正にそうだった。

しかしそう言う弟子たちに対して、イエス様は

どのような行動をとられたでしょうか。

16節「そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、

天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、

群衆に配るように弟子たちにお与えになった。

人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、

十二かごあった。」


今晩私たちが目を留めたいのはこのところです。

「主よ、私には1万人の群集に食べ物を与えることなど出来ません。

ここには5つのパンと2匹の魚しかないのですよ。

出来ないことをご存知でどうしてそんなことおっしゃるのですか。

私を惨めな気持ちにさせないで下さい。」

これが弟子たちの気持ちです。

 しかしイエス様は弟子たちが「こんな物しか無いのですよ」と言った、

その5つのパンと2匹の魚から、1万人の食物を生み出して下さったのです。

弟子達は一万人分の食べ物を揃える事しか頭になかった。

一万人の人々に対してたった五つのパンと二匹の魚、

何の意味があるでしょうか。 

彼らは一万人分の食物を集めたかったのです。

イエス様の求めに完璧に答えることが出来る自分たちで無ければ嫌だった。 

しかしイエス様が要求された事はそう言うことではないのです。 

イエス様は全ての群集に食べ物を与えたい、

その為にあなた方に出来る事をしなさい。

弟子たちが、一万人の人々に食べ物を与える事が出来ない事など

百も承知で、それでもあなた達に出来る事をしなさいとおっしゃっている。 

弟子達はただ出来る事を喜んですれば良かったのです。

持っている僅かなお金で僅かなパンを買っても良かったでしょう。

パンを持っている人を探しても良かったでしょう。 

その結果たった5個でも10個でも見つけて配るなら、

それをイエス様は一万人の群集に与えるまでに増やして下さるのです。 

なぜならイエス様は弟子達の力に頼っているのではない、

助けを求めているのではない。ただ用いようとして下さっているのです。 

一万人に対してパン一つでも良い、その人が持っている物を

ただ差し出せばイエス様がそれを大いに増し加えてくださるのです。 

イエス様が望んでおられたことは何でしょうか?

5つのパンと2匹の魚を指差して「こんな物しかありませんよ」

という言葉ではありません。 

「イエス様、ここには5つのパンと2匹の魚しかありません。 

今私たちが見つけることが出来た、この群集に差し出すことが

出来るものはこれしかありません。

けれども、この僅かなものを喜んであなたに差し出します。」

ヨハネ福音書を見ると、少年がこの僅かな食べ物を

差し出したと書いてあります。 

イエス様が求めておられることはただ一つ、

一万人の群衆に対して本当に僅かな食べ物を素直に差し出した

少年の様に、たとえ何の意味もない様な無駄な様な事であっても

素直な自分自身を喜んで差し出す、その事だけなのです。

イエス様はそんな時決して私達を馬鹿になどされない。

「こんな大人数がいるのにそんな物差し出してどうするんだ」

とおっしゃらない。

その本当に僅かなものを見て、あなたはこんな沢山持ってきたのかい。

見てごらん一万人の群集がおなか一杯だよ、

あなたのしたことは素晴らしいねと声をかけて下さるのです。
 
私たちも弟子たちのように「今、こんな物しかありません」と嘆いたり、

怒ったり、落ち込んだりすることがないでしょうか。 

けれどもあの5つのパンと2匹の魚が一万人の人々の空腹を満たしたのです。

あなたに与えられている、僅かと思える賜物を

イエス様は必要としていて下さるのではないでしょうか。

そのようにして、私たちを用いたいと願っておられないでしょうか。

イエス様は私たちにも同じように今晩声を掛けて下さっているのです。

「食べる物が無くて可愛そうだ。あなたが何か食べるものをあげなさい」 

そこで「私に何が出来ますか。役立たずの私を苦しめないで下さい」

と劣等感から怒るのではない。 

私たちに与えられているそれぞれの5つのパンと2匹の魚を、

イエス様に信頼して差し出したい。

5つのパンと2匹の魚から奇蹟を始めて下さるイエス様に信頼して。

5つのパンと2匹の魚を信頼するのではありません。

それを受け取って下さる神様を信頼するのです。


それぞれに賜物がある。また、それぞれに委ねられた奉仕がある。

人間的に見て、どんなに小さい、些細な事と思えても、

主にあって大胆に、また忠実にお献げしたい。

恥ずかしがらないで、こんな物無駄ですよねと言わないで、

はい主よここにあなたが下さった5つのパンと2匹の魚がありますから、

これをあなたの愛する人々の為に捧げますと、そう進み出て頂きたい。 

主が必ず大きな愛の業として用いて下さるのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


 Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。

伊豆夢(イズム)こと

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山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

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■「どちらを選ぶのか」ルカ9:7-9



1.ヘロデの怯え

今晩私たちに与えられている御言葉はわずか3節の短い記述でありますが、

しかしその内容は重大です。

ここに再びイエス・キリストの道ぞなえとして重要な役割を果たした

バプテスマのヨハネの名前が記されています。

しかも「ヨハネなら、私が首をはねた」と、

そのようなヘロデの衝撃的な言葉が突然に記されているのです。 

最後にルカ福音書にヨハネについての

記述がなされていたのは7章であります。

この時すでにバプテスマのヨハネは獄中におりました。

なぜ捕えられていたかと言いますと、ここに出てくる

ヘロデ・アンティパスという人物は、当時ユダヤ地方の領主をしておりました。

このヘロデ・アンティパスが実の兄弟であるピリポの妻

ヘロデヤを自分の妻にしてしまった。

実の兄弟の奥さんを奪い取って自分の妻にする、

バプテスマのヨハネはこのことについてヘロデに面と向かって

「あなたのしていることは不法です」と糾弾した。

そうやってヘロデの怒りに触れたヨハネは投獄されたのでありました。

そのヨハネがこの時点ではもう殺されている。

なぜ殺害されたのか。その理由はルカ福音書には記されていませんが、

マタイやマルコの福音書にその経緯は詳細に記されています。

 ある時、ヘロデが自分の誕生日に祝宴を開いた。

そこにヘロデが兄弟ピリポから奪い取った妻ヘロデヤの娘がいて、

彼女が踊りを見せるのです。

この娘はヘロデとヘロデヤの娘では無く、

ヘロデヤと前の夫ピリポとの間に生まれた娘でありました。

伝説ではサロメという名前であったと言われます。

サロメが躍ったのは普通の踊りではない、恐らく肌を露出する

猥褻な踊りだったと言われています。 

そのような踊りをヘロデは酔い心地で見ながら大いに喜ぶのです。

ここまで聞いてすでにその光景がどんなに異様・異常なものであるかは

誰にでも分かります。

自分が奪い取った兄弟の娘の猥褻な踊りに大喜びしながら

ヘロデはサロメにいうのです。

「お前の願いなら何でも聞いてやろう。好きなものを言え」、

そこでサロメは母親ヘロデヤと相談し、

「バプテスマのヨハネの首が欲しゅうございます」と願い出る。 

こうしてヨハネは首をはねられ殺されてしまうのです。 

暴君ヘロデのすることを戒められる人など誰もいません。

ヘロデヤもまた野心に満ちた女性でありましたから、

前の夫ピリポよりも領主であるヘロデの妻であることの方が

都合が良かったのでしょう。 

そういう二人の関係を罪として戒める目障りなヨハネを

殺すヘロデとヘロデヤ。

怖いもの知らずに暴虐無人に振る舞う2人。

 そこでしかし、細かいことのようですが、

7節を見ますとルカはヘロデのことを

「領主ヘロデ」と呼んでいます。

そしてその後は「ヘロデ」とだけ記している。 

彼はサロメの踊りに喜んで「何でも欲しい物を言いなさい」、

他の福音書の並行記事を見ると

「私の国の半分でも与えよう。」と述べている。

しかしながら、実際にはヘロデにそんな権力は無かったのです。

当時のガリラヤ・イスラエル一帯はくまなくローマ帝国の領土です。

ヘロデはガリラヤの一領主、国主。

ローマ皇帝にその地の統治を委ねられている、

下請けのような領主に過ぎない人物。

自分で国を譲るとかそんな権威を持ってはいない。

そしてまた、ガリラヤ地方の領主という身分は

ローマ帝国の中で決して輝かしいものではなく、

むしろ閑職と言って良いようなものでありました。

ヤハウェなる神のみを神とし独自の律法を固く守るユダヤは

ローマ帝国の広大な領土の中でも最も治め辛い地として知られていたからです。 

結局何をするにも皇帝の許可を得なければいけませんし、

許可を得てもまた中々言うことを聞かない国民に悩まされ、

あっちもこっちもうまくいかない。

「国主」とは名ばかりのものであった。 

ただ自分の誕生日に重臣を集め盛大なパーティーを催し、

そしてひと時、自分が一切の権力を持つガリラヤの王で

あるかのように振る舞う。

そう言う空しい喜びしか知らない人、

そのようなことにしか望みを見出せない人であったのです。 

そう言うヘロデに対して、バプテスマのヨハネは神の真理を語った。

そしてその言葉を打ち消すために、彼らはヨハネを殺害したのです。

あたかもヨハネを通して語られる神の言葉に対して耳を塞ぐかのように。

そうやって完全にヨハネの言葉を封じたはずであるのに、

7節から

「さて、領主ヘロデはこのすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。

ある人たちは、「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と言い、

別の人たちは、「エリヤが現れたのだ」と言い、

さらに別の人たちは、「昔の預言者の一人が生き返ったのだ」と

言っていたからである。」


「このすべての出来事」というのはイエスによって派遣された

弟子たちの活躍ももちろんそうでありますが、

それ以前に記されていたイエス様の力ある業を含んでのことでありましょう。 

バプテスマのヨハネは当時大変な人気を博し、

エルサレム中から人々が彼の元に集まってきていた、

そう聖書に書いてあります。

そのヨハネを殺したのに、今度はイエスという男の元に

人々がどんどん集まってくる。

来週学びます5000人の給食では、女性や子どもたちを含むと

1万人を超える人々が集まってきていた。

「これはヨハネの再来だ。いやヨハネ自身だ」と人々は噂し

「いや、ヨハネ以上。エリヤだ、旧約の預言者の生まれ変わりだ」

そうやって噂された。 ヘロデはこのことに大いに戸惑いました。

ヨハネなら確かに私自身がその首をはねたのだ。

じゃぁこの男は誰なのか?

 
明らかにヘロデは怯えている。

けれども一方で、ヨハネの再来と言われた

イエスに深い関心をも払うのです。

ルカ福音書は9節の終わりではっきりと

「ヘロデは言った。「ヨハネは私が首をはねた。

このようなうわさがあるこの人は、いったいだれなのだろうか。」

ヘロデはイエスに会ってみたいと思った。」


と記しています。どういうことでしょうか。

恐ろしいけれど会ってみたい、怖いもの見たさ。

そういうこともあるかもしれないけれど、

ヘロデの真理に対する関心が浮かび上がってくる。

福音書を読んでいくとヘロデの心理の複雑は際立ちます。 

例えばマタイ福音書で「ヘロデはヨハネを殺したかった」

と書いてあるにも関わらず、一方でヘロデヤが

「ではヨハネの首が欲しい」と願い出ると

「王は心を痛めた」とあるのです。

マルコ福音書にはもっとはっきりとこのように書かれています。

マルコ6:19
「ところが、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、

果たせないでいた。それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、

彼を恐れ、保護を加えていたからである。

また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、

喜んで耳を傾けていた。」


不思議なことですが、ヨハネを黙らせようと思って

彼を捕らえたのに、投獄することによって

ヘロデは逆にヨハネの言葉に耳を傾けるようになっていた。

嫌だ嫌だ、と思いながら一方でヨハネの言葉が慕わしい、

「非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」。

ヨハネを殺したかったのはヘロデヤの方で、

ヘロデはむしろヨハネを生かしておきたかった。

なぜならその教えを聞くことを喜びにしていた。 

一方でヨハネを憎み、捕え殺害した、そういう事実があります。

ヨハネの語る神の真理に耳を塞ごうとする

ヘロデの姿が確かにある一方で、彼はヨハネの教えを聞くことを喜び、

彼を生かしておきたいと願っていた。

彼を殺した後も、ヨハネに似たイエスという

教師に会ってみたいと願っていた。

これが聖書が描き出すヘロデの姿なのです。



2.どちらを選ぶのか

 以前、火曜礼拝でサムエル記からダビデの生涯を学びました。

ダビデ王人生最大の失敗。 

ウリヤという家来の妻バテ・シェバを、

ウリヤが戦いに出ている間に召し入れてしまった。

そうして今度はそのことが発覚するのが怖くなって、

ウリヤを殺してしまう。姦淫と殺人の罪を同時に犯したのです。 

その時の思いをダビデは詩篇でこのように歌っております。 

詩篇32篇
「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、

私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」
 

何とか自分の罪を覆い隠そうと、誤魔化そうとしていた

時には、苦しくて私の骨骨は疲れ果てた。 

ダビデが苦しかったと言うのは、預言者ナタンによって

彼の罪が指摘された時ではない。黙っていた時が苦しかった。

自分の罪から、弱さから目を逸らして

偽りに生きていた時が一番苦しかった、そう告白している。 

これは私たちにも良く分かることではないでしょうか。 

本当の自分を誤魔化そう、自分を良く見せよう、

自分の問題を無い事にしよう、そうやって人を欺き、

自分自身を欺こうとしている時が実は一番苦しいのです。

そう言う事の空しさをよく知っていながら、

止められない弱さがあるのです。 

ガリラヤの王ヘロデを名乗りながら、

実は何の権力もない自分。何も出来ない自分。

そう言う自分の空しさを埋め合わせるように、

兄弟から妻を奪い取り、無理難題を民衆に押しつける。

そうやって自分が万能だと錯覚したかったのです。

けれどもそのようなことをすればするほど、

彼は人々にうとまれ人心は離れ…。 

傍若無人に振舞いながら実は不安感・無力感で一杯のヘロデに対して、

ヨハネは「あなたは罪を犯している。悔い改めなければいけない。

あなたのしていることは間違っている。」少しの妥協もない、

真実を突き付けて行った。

そのヨハネの言葉、悔い改めを迫るメッセージに

ヘロデが不思議と惹かれたのです。

そしてヨハネの預言の成就であるイエス・キリストに

会ってみようと思った。会いたいと思った。

この所を読むと、ヘロデがイエスに会いたいと願った、

それだけのこととして物語は閉じられているようでありますが、

実はこのヘロデの願いはやがて実現する。

それはイエス様がゲツセマネで捕えられて後のことであります。

23章に念願かなってヘロデがイエス様と出会う場面が出てくるのです。

23:8「ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。

ずっと前からイエスのことを聞いていたので、

イエスに会いたいと思っていたし、

イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。」


明らかに今晩の9章の物語と繋がり合っています。

けれども9節「それで、いろいろと質問したが、

イエスは彼に何もお答えにならなかった。」

イエス様はヘロデに対して一言も言葉を発せられなかった。

そのことに怒ってヘロデは

11節「ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり

嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ヘロデに送り返した」


ルカが記すヘロデ・アンティパスについての記述はこれが最後になります。

 暴虐無人に振る舞うヘロデと、

神の真理に関心を持つヘロデと2つの顔がある。

「私はガリラヤ王などでは無い。実際の私は無力で、

何一つ思い通りに出来ることなど無いのだ」

この事実を否定するために裸の王様を演じながら、

一方でこの事実の前に真の王キリストに関心を示したり。

ヘロデの内には明らかにせめぎ合う2つの思いがありました。

これはヘロデだけが問われることではない。 

しかし結局、ヘロデは裸の王様を選んでしまいました。

自らの誕生日、大宴会を開いて酒に酔い、万能感に浸り、

「この国の半分でもお前にやろう」と王を気取り、

そして引っ込みが付かなくなってしまった。

マタイ福音書をみるとその場面はこう書いてある。

「王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、

与えるように命令した。」そうして自分の誕生日が終わった時に、

ヘロデはいったいどんな気持ちだったろうかと考えるのです。 

やがてヘロデにもう一度チャンスが訪れる。

十字架を直前にしたイエス・キリストにお目にかかる機会が得られたのです。

しかしそこでもまた彼は自分の問いに何も答えないイエスを前に、

自らの王たる権威を現そうとし、イエスを侮辱した。

それで終わりであります。 

王の体面は守られた。ヘロデヤの愛を繋ぎ止め、

家臣たちの前で面目を保つことができた。

預言者ヨハネの命、救い主イエスの命さえ、

私の手の内にあったと誇ることが出来た。 

しかしそうして残った言いようの無い空しさ、

自分のような者が救われる唯一の道を自分自身で断ち切ってしまった

悲しみをヘロデは終生抱え続けていたことでありましょう。

 ヘロデの物語はここで閉じられます。

しかし、ヘロデ・アンティパスの辿った末路を歴史は記録しています。

この後、ヘロデ・アンティパスに破滅をもたらしたのは、

皮肉にもここで「ヨハネの首」を求めるよう指図した

妻ヘロデヤでありました。

ヘロデヤは、絶大な権力を握った夫アンティパスの父である

あのヘロデ大王のような位を求めるよう夫を動かそうとします。

そして、ヘロデはヘロデヤの求めに応じて、

自分にも父ヘロデ大王と同じ権威を与えて欲しい、

認めて欲しいと時のローマ皇帝に申し出るのです。

このヘロデの行動がローマ皇帝のヘロデに対する

疑念・危機感を呼び起こします。

そして、ヘロデは野心家・危険分子とみなされ

やがてガリラヤ国主の座をはく奪され、リヨンに追放されます。

歴史書には「ヘロデ・アンティパスが妻ヘロデヤと共にヒスパニアで死んだ」

と記録されています。真に哀れな末路でありました。 

神をも恐れず、自らを王であると示そうとした

悪王ヘロデ・アンティパス、その象徴であった妻ヘロデヤによって、

ヘロデの人生は潰えるのです。

 ヘロデの生涯の中にも救いのチャンスがあった。

ヨハネとの出会い、イエスとの出会い。 

せめぎ合う心。もう救いようが無い、滅びにしか道は開いていない、

そう思えるヘロデにもターニングポイントが用意されていた。

「今、神の支配を認めるか。それとも自分を王とする幻想でごまかすか」、

神の国に生きるか否か?

 黒人解放運動の指導者として知られるキング牧師の言葉。

キング牧師は敵対者たちに向かって

「我々の子どもを脅してみるが良い。それでも我々はあなたを愛する」

このように述べたというのです。凄い言葉です。

簡単に言える言葉ではない。

けれども、私たちが神の国に生きるという課題は

正にこういうことなのです。 

 私たちを恐れさせる様々な出来事がある。

自分が王として力を行使する以外に止められないと思える

恐れが様々な顔で近づいてくる。そこでどちらを選ぶか。

ヘロデが直面した問いは私たちの人生の問いである。

私ども人間は、神の一人子イエス・キリストを拒絶し、

苦しめ痛めつけ、十字架で殺してしまった。

そのような私たちをなお愛して下さる神様。

そこでこそ、私たちに愛を表して下さる神様。

ここに、罪の世に神の愛の支配が始まったのです。 

私たちもそこに加わる者として選ばれている。 

それでも私は愛に生き、それでも私は真理に生きる、

この信仰を携えて出て行きましょう。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


 Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。
伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは

この火曜礼拝ブログは

川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。


■「恵みによって遣わされる」ルカ9:1-6

1.12弟子の派遣

今晩の個所は12弟子の派遣と呼ばれる個所です。

イエス様は12弟子を伝道のために派遣された。

これまで弟子たちはイエス様の周りにいて、イエス様の説教を聴き、

イエス様の為される力ある業を見ておりました。

驚きに包まれていたと思います。

自分たちは何とすごい先生にお仕えしているのだろうという

喜びがあったと思います。

そう言う弟子たちにイエス様は、

今度はあなたたちを遣わします、そう言われた。

イエス様にお仕えするようになってどれだけの日数が経っていたか。

一年くらいでしょうが。

彼らはこのイエス様のご命令に大いに戸惑ったと思います。

初めてイエス様のことを人に話す、伝道する時、

非常に緊張なされることと思います。

だ私には早い、無理だ、そう思ってしまう。

12弟子のリーダーだったペテロは、この後もう少し私たちが

ルカ福音書を読み進めていきますと、

やがてある失敗から「下がれ、サタン」とそう言う

恐ろしい言葉でイエス様に戒められる場面が出てきます。


また、イエス様の十字架を前にして「誰がいちばん偉いだろうか」、

そんなことを弟子たちの間で議論していたという記事が記されています。

そして、皆さんよくご存知のように、

イエス様がゲッセマネの園で捕らえられた時、

弟子たちは一目散に逃げていくのです。

そう言う弟子たちです。

人に福音をのべ伝える前に、まず己自身が良く弁えるべきではないか。

悔い改めを説く前に、まず彼ら自身が悔い改めるべきではないか。

そう考え出すならば、弟子たちがこの時期に

主イエスに遣わされるということに違和感を覚えるのであります。

しかし6節を見ますと

「十二人は出て行って、村から村へと巡りながら、

いたるところで福音を宣べ伝え、癒やしを行った。」

そう書いてあるのです。彼らの伝道活動は成功したのです。

確かに成果が上がった。

彼らの働きによって救いに預かった人々がいたというのです。

これはとても不思議なことではないでしょうか。

福音をのべ伝えている彼ら自身が、福音を理解していなかったのです。

悔い改めがまったく不十分なのです。

それでいて、そう言う彼らの働きによって多くの人々が救われていった。

主に召された伝道者が何がしかの事情で、

その働きから離れていくと言うことがあります。

率直に言って、私どもの教団においても数年に一度くらい

牧師戒規が執行されることがあります。

そのようなケースで無く、心身を病んで休職し退職される先生もおられる。

皆さんがキリスト者として信仰生活を歩んでいかれる中で、

自分が誰誰牧師に洗礼を授けて頂いたということは

忘れることが無いでありましょう。

そして、いつまでも自分に洗礼を授けてくださった牧師を

信頼し尊敬することができたら、それは幸いなことであります。

けれどもそうではないケースというのもこれは現実として幾らでも起こる。

皆さんの中ですでにそういう思いを経験された方々もおられるわけです。

時には、自分に洗礼を授けてくれた牧師の躓きゆえに、

自分自身の救いや洗礼が無効になったような気持ちになることもあるでしょう。

時には「私はもう一度洗礼を受けなおしたい」

そういう希望を持たれる方もいらっしゃる。

しかし教会はだからと言ってもう一度洗礼を授けるという事を致しません。

そんなことをしてはいけない。

牧師がその後どんな極悪人になろうとも、

授けられた洗礼の価値・効力というものはいささかも揺るぐものではありません。

その理由は明確。洗礼を授けて下さるのはただ一方的な神様の働きであるからです。

神様の働きに促されて、その時その場所にたまたまいた牧師が

洗礼を授けるだけのことなのです。

誰の手によって渡されたものであっても、

それは神様がその時に用いられたご自身の道具に過ぎない。

与え主である神様だけが重んじられるべきである。

ですから逆の意味において、どんなに尊敬する、

素晴らしい牧師によって授けられた洗礼であったとしても、

そこで人を見てはいけない。

ただその牧師を用いて救いの印を与えてくださった

神様だけを覚えるべきであります。


この後、沢山の失敗をし、イエス様を捨てて逃げる、

そう言う経験をする12弟子が、ここでイエス様に遣われて行く。

しかも彼らの伝道活動によって、人々が救われる、癒される。

不思議なことです。

そして彼らがこの不思議に気が付いたのは、

ずっと後のことであったろうと思います。

ゲツセマネでイエス様が捕らえられた時弟子たち逃げ出した。

そしてイエス様は捕らえられ十字架に架かって死なれた。

そして3日の後に蘇りになられ、もう一度弟子たちの前に現れるのです。

その時イエス様は弟子たちに何と言われるでしょうか。

今晩の箇所と同じように、もう一度弟子たちを派遣されるのです。

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

信じてバプテスマを受ける者は救われます。

しかし信じない者は罪に定められます。」、

もう一度イエス様は弟子たちを遣わされるのです。

その時に、彼らはきっとこの9章の出来事を思い出したと思います。

そして気が付いたと思うのです。

「ああ、あの時私たちが相応しいからイエス様は遣わされたのでは無い。

こんな私が語った御言葉で、あの時何で人々が救われたのだろうか。

あれは私の力じゃなかったのだ。

悔い改めを説く私自身が、悔い改めなければいけない

不信仰の種を宿したまま遣わされているのだ。」

そうして始まった弟子たちの宣教活動というものは、

謙遜なものだったと思います。

謙遜にならざるを得ない。

悔い改めを語っていた自分自身が悔い改めるべき者だった、

そう言う今晩の箇所における経験。

彼らには振り返って初めて気づくことだった訳ですが、

自分たちが何も分かっていない時に語った言葉、

しかしこの言葉に確かな力があった、これは神様の働きだ。

こう言う信仰が土台となって世界中に福音が広まっていったのです。


私たちも同じです。私たち一人一人が神様からいつも遣わされていく。

礼拝を終え、それぞれの持ち場・立場に遣わされるのです。

私たちが生かされている場所は、神様によって派遣された場所である。

そこで、私たちはキリスト者として神の御心を現し、福音を語り、

神の国を前進させていく務めを与えられている。

けれども、そういうことができるのは、

もう少し自分がクリスチャンとして成長してからでないとダメだ。

こんな私がキリスト者であると名乗ったら教会の看板を汚してしまう。

そんなことを考えてしまう思いが誰にでもある。

けれども私たちはすでに8:16でイエス様の御言葉を聞いたのです。

16節「だれも、明かりをともしてから、それを器で覆ったり、

寝台の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。

入って来る人たちに、その光が見えるようにするためです。」


この燭台に灯りをともしてくださったのはイエス様である。

だから、イエス様にともされた燭台を寝台の下に

置いてしまうことではいけない。


同じように、イエス様が遣わしてくださる。

不十分な者であるけれども、イエス様が用いてくださる。

ですから私たちは大胆に、遠慮しないで

キリスト者として自らを現していくべきである。

後の責任はイエス様が取ってくださる。

相応しくなってから始めようと思ってはいけないし、

そんな時は来ない。

私たちは今キリスト者として、光として、

イエス様にともしていただいた灯りとして出ていくのだ。

そのことを覚えたいのです。

イエス様は3節でこのようにも言われました。

「旅には何も持って行かないようにしなさい。

杖も袋もパンも金もです。また下着も、

それぞれ二枚持ってはいけません。」

2つはいらない、一つで十分。

つまり後の心配をするな、とおっしゃっているのです。

今頂いている物だけで出ていく。

会堂を増築しました時に素晴らしいステンドグラスを設置しました。

山本香織さんの作品ですが、ご覧になって分かるように

イエス様の山上の説教「空の鳥を見なさい」

「野の花がどのように育つか、よくわきまえなさい」

その所をモチーフにして制作していただきました。

イエス様は「空の鳥を見なさい」

「野の花がどのように育つか、よくわきまえなさい」

とイエス様がおっしゃった言葉は、

“即座の行動を要求する”そういう単語が使われています。

イエス様は多くの群衆を前に、

「あなたたち、今度畑仕事をしている時にでも

空の鳥を良く見て御覧なさい。

家に帰ったら野のゆりのことをよく考えて御覧なさい」

そうおっしゃったのではなくて、即座の行動を求められた。

つまりガリラヤ湖を見下ろす小高い丘でイエス様が

説教をしておられる時に、空を見上げると鳥たちが飛んでいた。

周りをみると野のゆりが辺り一面に咲いていたのです。

イエス様は“今、この時”に注目された。

「今空を見てごらん、鳥たちが元気に飛び回っているよ、

今野の花を見てごらん、美しく咲き誇っているよ」

そうおっしゃっている。なぜでしょうか。

山上の説教を聞いていた貧しい群衆たちは、

明日の生活を心配していたのです。

明日食べるものがあるか、明日着るものがあるか。

先行きに対する切実な不安を抱えていた。

そういう貧しい人々に、

「心配する替わりに、今に目を向けてごらん。

今ここに神様が働いているじゃない。

神様の素晴らしい業を今見てごらん」

私達心配だ心配だと思うあまり、先の事にばかりに目が向いてしまって、

結局今神様が与えてくださっている恵が見えなくなってしまう。

今与えられている恵みが見えないから、益々先のことが不安になる。

イエス様は一つで十分、2つはいらない、そうおっしゃった。

2つ目を、明日のことを考えるのではない。

今、神様から与えられているものに目を留めることに集中したら、

今与えられている豊かなものに気が付いたら、

明日も同じように必要を満たしてくださる主がおられることを信じられる。

逆にどうでしょうか。

今の恵みを見逃して明日を心配し明日の準備ができたら、

明後日が心配になる。1週間後、1ヶ月後、

どんなに準備しても今が見えない限り私たちが安心することはありません。



2.不安の虜

創世記で人間の歩みを学ぶとよくわかります。

定住生活の中に現れる人間の不信仰です。

移住生活というのは先の見えない生き方です。

移動した場所で本当に食べ物が得られるか分からない。

行ってみないと分からない。何の保証も無い。だから祈るのです。

だから神様に頼るのです。

けれども、人が定住生活をするようになり、

先が見通せる生活ができるようになった時に、

神様に頼ることを忘れるのです。

神様に頼るのではなく、自分たちで蓄えるようになる、

先々の不安に備えることができるようになる。

そのようにして祈らなくても生きられるようになって、

神様に頼らなくても生活ができるようになって、

そのことによってドンドン人は不安の虜になっていったのです。

そういう古代の人々の生活に比べたら

現代人の生活は驚くほどに安定している。

けれども、現代は不安の時代といわれる。

現代人は不安で一杯です。先行きの不安。

今はイイけれど、来年急に会社が潰れたらどうしよう。

人間関係の不安、いつかあの人に嫌われるのではないか。

子育ての不安、子どもが何歳になった時に

こういう問題が起こるかもしれない。

そうやって、先に起こるかもしれない事柄を考えて悩んでしまう。

結局、自分たちの力で不安を打ち消そうとしてもがけばもがくほど、

人間はドンドン不安に弱くなっていく。

不安に押しつぶされるようになっていく。

なぜでしょうか。神様から離れてしまうからです。

現在の切迫した世界情勢も、その根底にあるのは不安です。

不安だから怖いから自分を強くする。

そうやって安心を得るために自分を強くする。

そうやって強くなった相手を見て、

周りが不安を感じ自分たちを強くしようとする。

不安を和らげようとする。

そうやって強くなっていく周りに不安を覚え

もっと自分を強くしなければ、と。神などいない。

私たちは自分自身の手で生きていくと、

自らを絶対化して歴史を築いてきた人間が

行きついたのが不安の時代だったという皮肉。


そういう不安から解放されていくための道は、

私たちが神様に寄り頼み、神様から平安を頂いていく生き方を回復するしかない。

ではどうやって、私たちは神様への信頼を回復できるのでしょうか。

それは、正にこの弟子たちのように自分には

どうしようもできない課題に向き合うこと。

神様からの賜物一つを頼りに出ていくしかない、

そういうチャレンジに身を置くこと。

そう言う中で、一方的に今を支えてくださる神様を体験する時に、

私たちは自分を根拠に安心を得ようとして益々不安に陥っていく生き方から、

神様に信頼する平安。理屈抜きに安心できる人生へと変えられていく。

そのためにイエス様は弟子たちを宣教の働きに遣わされ、

そして「旅には何も持って行かないようにしなさい。

杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。」

と教えてくださったのです。

考えれば考える程、益々不安になることがある。

備えれば備える程、益々欠けが多くなることがある。

安心を追い求めて益々不安定に向かって行く

人生を生きてはいないでしょうか。

突然宣教活動に遣わされていった弟子たちは大いに戸惑いました。

自信を持って出ていけるような物を何一つ持ち合わせてはいなかった。

ただ、自分たちを遣わしてくださるイエス様に信頼して出ていくしかない。

神様から頂いた賜物を信じて出ていくしかない。

そのことが功を奏した。その信仰が思いがけない実りを与えた。

頼るものが無いことこそが、何の保証も無い時こそが、

神様の与えてくださる大勝利の兆しである。

ですから不安を覚えている方こそが、大きな実りを頂く方である。

望みを天に抱き、私たちも出かけてまいりましょう。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


 Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。