ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。
この火曜礼拝ブログは
この火曜礼拝ブログは
川奈聖書教会・火曜礼拝における
山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり
オリジナルの説教とは多少、
異なることをご理解下さい。
■「神より始まる愛」ヘブル13:1-6
1.愛に生きることと陥りやすい罪への戒め
いよいよヘブル書の最終章である13章に入って参ります。
これまで大ローマ帝国の迫害という嵐に翻弄される、
小舟のような初代教会。そこにあるキリスト者に
ヘブル書は励ましと希望の言葉を語り込んでいきました。
しかしこの13章に入りますと、明らかにこれまでと違う
響きを感じるところがある。
1節「兄弟愛をいつも持っていなさい。」
2節「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。」
3節「牢につながれている人々を思いやりなさい。」
4節「結婚が尊ばれるようにしない」
5節「金銭を愛する生活をしてはいけません」
このようにヘブル書の響きが一転、
道徳的・実践的な内容が教えられていきます。
1節でまず「兄弟愛」が教えられます。
これは具体的には教会の中にある教会員同士の関係性
についての教えであります。
そのような教会内における愛の関係が2節では広がって、
旅人への愛が教えられる。
迫害下という緊急事態の中で支え合っている
教会内の愛に留まらず、あなた方の所を訪ねてくる外の人々。
その中にはキリスト者もいたでしょうし、
そうではない人もいたでしょう。
いずれにしても、あなた方のところに来る
旅人を愛せよと教えられる。それが更に3節に行きますと、
今度はあなた方のところを訪ねてくることもできない、
獄中に繋がれた人々。
遠く離れて耳にするだけの存在であったとしても、
そういう人々の弱さや痛みを覚えながら愛する愛。
このように3節までは教会の中に始まった愛が、広がっていく。
愛の波紋の広がりとも言えるような勧めが為されているのです。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240715/09/hara-ism/ca/68/j/o1091091815463272113.jpg?caw=800)
一方4節以下は一転して「結婚」「夫婦の関係」における罪が語られます。
姦淫についての戒めです。そうやって無秩序に異性関係を
貪ることの罪が語られ、さらに5節において今度は金銭を
愛することの戒め、金銭の貪りについての罪が語られ、
その後5節の後半で
「私は決してあなたを離れず、またあなたを捨てない」
とこれは申命記31章6節のモーセの言葉の引用。
更に6節は詩編118:6の引用です。
分かり辛い展開だと思います。3節まで愛の広がりが語られ、
4・5節で罪への戒めが語られ、そして旧約聖書の
御言葉が二つ引用される。
牧師をしている父親から、私が献身の道に進んでいくに当たって
2つのことに注意しなさいと戒められました。
牧師が陥ってはいけない、そしてまた陥りやすい失敗は
「異性関係」と「お金」、この二つである。
ここで躓いたらお終いだ、そういうことでした。
それはもしかして牧師に限らないかもしれません。
例えば政治家のスキャンダルと言った時に
主なものは異性関係とお金のスキャンダル。
芸能人のスキャンダルも主にはこの2つ。
つまり、人間の大きな2つの躓きが4・5節において
戒められているということが言えるでしょう。
ここで、ヘブル書が一方において愛の広がりについて教えている。
いつも顔を合わせている教会の仲間を愛すること。
それが、初めて顔を合わせる方への愛に繋がり、
最後には見たこともあったことも無い人への愛にまで広がっていく。
愛に生きないではおられない、そういう勧めをしながら、
その一方で異性とお金の罪に対する戒めが為される。
つまりこれはセットの話しなのです。
愛に生きることは大切。
でも愛に生きることの中にまた落とし穴があるんだ。
しばらく前にある教会が新築のビル一棟丸々教会という
ビックリするような会堂建築をしました。
牧師たちが見学をさせていただいて、驚きながら
一つ一つ中を見せていただいた。
牧師たちの見学ですから、やはり牧師室・牧師の執務室が
どんな作りになっているのか関心がある訳です。
それはもう見事な牧師室で、10人くらいの会議ができる
部屋と牧師一人が執務をする部屋と2部屋がセットになって
牧師室として用意されていて、更に中にもう一つ
ドアがあるのです。何と牧師専用のトイレがついていた。
その教会の牧師が説明してくれました。
元々当初の設計では牧師室の中にトイレは無かった
そうでありますが、途中である信徒さんがおっしゃった。
「牧師先生が牧師室からチョコチョコ出てきて
トイレに行って、また部屋に戻っていく。
そういう様子を頻繁に信徒が目にするのはどうだろうか」、
そんな意見があって牧師室の中にトイレを設置したというのです。
唖然とする思いで聞いていました。
あぁそうか、この教会の信徒さんは牧師がトイレに行く姿を
「牧師らしくない」そう思ったのか。興味深いことであります。
聖書を学び、祈り深く、愛の奉仕に励んでいる牧師さんが
トイレに行く、そんな姿は牧師に似つかわしくない。
こういう感覚というのが、今晩のヘブル書の御言葉を
読み解く一つの助けになるのです。
なぜ愛に生きることとセットで異性の罪、金銭の罪が戒められるのか?
愛に生き、その愛が広がっていく時に人は傲慢になるからです。
トイレに行くことなど似つかわしくない、
昼寝することなどみっともない、そう思える程に聖い
私の生き方、愛に溢れた生き方。そういう日常から離れた
特別な愛は、私たちの生活の場にあるべき基本的な愛を失わせてしまう。
及びもつかないような特別な愛の中で、当たり前の愛、
一番身近にあるべき愛を見失わせてしまうし、
そのことの罪が、問題が見えなくなってしまうことがあるのです。
佐藤優さんの著書に「同志社大学神学部」という本の中で
20世紀を代表するドイツの歴史的神学者のことを話題にしています。
佐藤氏を同志社で指導した神学部の教授が、
その世紀の神学者についてこのように語るのです。
「実は、ヨーロッパの神学界は、狭い人間関係によって
固まっている閉鎖的な世界だ。彼は自宅でゼミをしていた。
これは、『波長が合わない学生は指導しない』という姿勢だ。
彼にはキルシバウムという名の女性秘書がいた。
その秘書と同居していた。プロテスタント教会の道徳基準はもとより
スイスの標準的な道徳基準でもこういうことはありえない。
彼の奥さんはこの状況に耐え抜いた。
しかし、ヨーロッパの神学者は誰もこのことを問題にしない。
偉大な神学者の私生活を問題にするのはよくないと考えたのだろう。
しかし、自分のもっとも近いところにいる妻に
苦痛を与え続けるような男がほんとうに
人間の魂を救う神学を展開することができるだろうか」
この言葉に対して、佐藤氏は「できないと思います」と答えた。
こういうことは世の中に非常に多いのです。
歴史的な偉人と呼ばれる人々が私生活において深い闇を抱えていた。
けれども、それはしばしば不問とされ、闇から闇に葬られる。
余りにも大きなその人の業績ゆえに、プライベートの
ひとつの闇を暴くことで名を汚してはいけない。
あれ程のことをしたのだから、このことには触れないでおこう。
そういう心理でありましょう。
2.神より始まる愛
ヘブル書はここで、キリスト者が大祭司キリストの贖いによって
導かれる場所が隣人愛であることを語っています。
それは教会内に留まらない、やがて見ず知らずの人にまで広がり、
見ず知らずの人の痛みをも自分の痛みにする、
世界大のスケールをもった愛になる。しかしその後に言う訳です。
「結婚を尊びなさい。寝床を汚すな」、生々しい程の警告。
大きな愛を志向しながら、足元の愛が崩れていく。
そうであってはいけない。
一方で、身近な人を愛していればそれで良いという
考えを戒めています。愛が欠けている、
愛を必要としている場所は、至る所にある。
そこに心を合わせられるのがキリスト者である。
けれどもこのような戒めは、近くと遠くの愛のバランスを
解くようなことではありません。
私は信仰を語るのに「バランス」という言葉を
あまり使わない方が良いと思っています。
「バランス」という言葉は便利です。
旧約と新約のバランス、律法と愛のバランス、知識と実践のバランス、
でもそれは違う。
旧約は新約を要求するし、新約は旧約を要求する。
律法は愛に繋がり、愛に生きることを願う時、律法を必要とする。
正しい知識は正しい実践に導くし、
正しい実践を求めれば正しい知識が必要になる。
バランスでは無いのです。
一番身近な人を愛することと遠くの人を愛することの
バランスを取るのではありません。
もっとも近くに居る人を愛すること、たまたま出会った人を愛すること、
見ることのできない遠く離れた人のことを愛すること、
そういう一つ一つの愛の業が繋がり合っている。
バランス、配分の問題ではありません。
私たち一人一人の生きる愛がどこから
生み出されるものであるか、という問題です。
世界の平和のために祈ります。ウクライナのために、
ミャンマーのために。被災地のために祈ります。
私たちキリスト者は様々な時にまず祈る。
祈って何になるのか?
祈っている時間に出来ること、やるべきことがある、という人もいる。
けれども私たちは祈るのです。
祈りによって始める。なぜか?
私たちがどんなに素晴らしいことを行ったとしても、
その思いが神様によって始まらなければ、
神様に与えて頂いたものでなければ、
それは良き業にはならないからです。
良かれと思う私たちの思いが、神様から離れる時に
善きことには繋がらない、そのことを認める謙遜が、慎みが必要です。
慎みを忘れて、私こそがあの人を救い、
私こそがこの教会を救い、私こそがこの国を、この世界を。
そういう風に思い出した時に、その人が隣人を傷つけ、
教会を痛めつけ、社会を世界を壊してしまう。
愛に夢中になってはいけないのです。
いつも一度愛を手放して、そして新しく神様に
愛をくださるよう求めるのです。
金銭を愛してはいけない。今与えられている、
その財産で十分。先の心配をして、今日与えられているよりも
多く蓄えようとしてはいけない。
金を愛するのではなく神を愛することが教えられています。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
この神様がおられるのだからいつもこのお方に求めること。
兄弟を家族を夫を妻を愛する愛を、今日・今神様に求めていただきたい。
そこから始めなければ躓いてしまう。
今日たまたま出会った旅人を愛する愛を神様に求めていただきたい。
神様から始まらなければその愛もまた躓きになってしまう。
世界の裏側にある痛み、苦しめられている自分とは直接関係が
無い人を愛する愛。自分さえよければ、自分の回りさえという
無関心の罪を離れて、遠く離れて痛んでいる人を
愛する愛を神様に求めて頂きたい。
そうでなければ、どんなに壮大な理想を掲げても
その愛は躓きになってしまう。
6節
「主は私の助け手です。私は恐れません。
人間が、私に対して何ができましょう。」
このお方を頼りにしていつもいつも歩み出すこと。
恐れ戦き愛の業から逃げ出すことも、恐れを忘れて
主を忘れた愛に飛び出していくことも、
どちらも私たちが戒めるべき不信仰の罪であります。
プロテスタント教会の大切な一つの原則として
「万人祭司」という言葉があります。
全ての信徒が神の祭司である。
牧師だけではない、神父だけではない、
全ての信徒は神に召された祭司である。
確かに牧師がいる、伝道者がいる、一般企業に勤める信徒がいる。
けれどもそれは、役割の違いだけ。
牧師という役割に召される人がいるし、
会社員に召される人がいる。主婦に召され、
個人事業主として召される人がいる。
全ての人が神様によって、その職業・立場を通して神の祭司。
即ち、大祭司キリストが自らの命を持って私たちを代表し、
私たちの罪を執り成してくださったように、
私たちもそれぞれの置かれた場所において、
そこに居る人々を神に執り成し生かす使命が与えられている。
そうした時に、非常に大切なことは聖さをどのように理解するかであります。
例えば礼拝堂のことを考えました時に、今東伊豆の教会を整備しています。
それはただ壊れているから直しているというだけではない。
豪華である必要はありません。古くて良い、地味で良い。
しかし、聖なる神様を礼拝する場所でありますから、
私たちなりの最善をもって掃除し、修繕し、整え、礼拝を献げたいと願う。
これは当然のことであるし、また大切な礼拝の心であります。
神様は心を見るお方でありますが、その心が形にこそ
現れてくるものでもあります。
一方で、聖さの内実を問い続けることも大事なことであります。
私たちの教会は子どもたちが時に会堂で元気に遊んだり、
食事会をしたりもする。塾もここでしていた時期があります。
そうやって、礼拝以外におことに礼拝堂を使うのは
聖さに対して無頓着だからではありません。
私たちは、神を礼拝する場所の聖さを重んじます。
そしてその神様は、子どもたちがここで元気に遊んだり、
リトミックをしたり、勉強をしたり、食事の交わりを持ったり、
そのような私たちの日常の営みを喜んでくださる神様であられる。
美味しい食事を皆で喜んでいただき、楽しくおしゃべりをし交わりをする。
その中に喜びをもって伴ってくださる神様の聖さを信じる。
トイレに行くこと、昼寝すること、そこに
神の聖さが見えなければいけない。
商売をし、仕事をし、家を掃除し、そのような生活の営みが
神様から離れたものであるならばそれこそが汚れです。
皆さんの日常の生活に神様を認めていただきたい。
神様に見せられないような、そういう現実がたくさんある。
そこに神様を迎えて頂きたいのです。
日常を否定した聖さや愛ではない。
自分自身でさえ目をそむけたくなるような日常の中に
お住まいくださる神様を認めること。
神様によって、そのような現実を生きることをはじめていく。
汚れた場所、乱れた場所を否定する別世界の聖さでは無く、
あなたの置かれているその場所に神様をお迎えし、
神様と共にその場所から始めていく。
そういう誠の聖さを弁えることが、
誠の愛の波紋を広げていく生き方に繋がるのです。
大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。
Peace, Love and Understanding
今、ここにある幸いに感謝しよう。