ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

■「神より始まる愛」ヘブル13:1-6

1.愛に生きることと陥りやすい罪への戒め

 いよいよヘブル書の最終章である13章に入って参ります。

これまで大ローマ帝国の迫害という嵐に翻弄される、

小舟のような初代教会。そこにあるキリスト者に

ヘブル書は励ましと希望の言葉を語り込んでいきました。 

しかしこの13章に入りますと、明らかにこれまでと違う

響きを感じるところがある。

1節「兄弟愛をいつも持っていなさい。」

2節「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。」

3節「牢につながれている人々を思いやりなさい。」

4節「結婚が尊ばれるようにしない」

5節「金銭を愛する生活をしてはいけません」


このようにヘブル書の響きが一転、

道徳的・実践的な内容が教えられていきます。 

1節でまず「兄弟愛」が教えられます。

これは具体的には教会の中にある教会員同士の関係性

についての教えであります。

そのような教会内における愛の関係が2節では広がって、

旅人への愛が教えられる。

迫害下という緊急事態の中で支え合っている

教会内の愛に留まらず、あなた方の所を訪ねてくる外の人々。

その中にはキリスト者もいたでしょうし、

そうではない人もいたでしょう。

いずれにしても、あなた方のところに来る

旅人を愛せよと教えられる。それが更に3節に行きますと、

今度はあなた方のところを訪ねてくることもできない、

獄中に繋がれた人々。

遠く離れて耳にするだけの存在であったとしても、

そういう人々の弱さや痛みを覚えながら愛する愛。

このように3節までは教会の中に始まった愛が、広がっていく。

愛の波紋の広がりとも言えるような勧めが為されているのです。





 一方4節以下は一転して「結婚」「夫婦の関係」における罪が語られます。

姦淫についての戒めです。そうやって無秩序に異性関係を

貪ることの罪が語られ、さらに5節において今度は金銭を

愛することの戒め、金銭の貪りについての罪が語られ、

その後5節の後半で

「私は決してあなたを離れず、またあなたを捨てない」

とこれは申命記31章6節のモーセの言葉の引用。

更に6節は詩編118:6の引用です。 

分かり辛い展開だと思います。3節まで愛の広がりが語られ、

4・5節で罪への戒めが語られ、そして旧約聖書の

御言葉が二つ引用される。

牧師をしている父親から、私が献身の道に進んでいくに当たって

2つのことに注意しなさいと戒められました。

牧師が陥ってはいけない、そしてまた陥りやすい失敗は

「異性関係」と「お金」、この二つである。

ここで躓いたらお終いだ、そういうことでした。

それはもしかして牧師に限らないかもしれません。 

例えば政治家のスキャンダルと言った時に

主なものは異性関係とお金のスキャンダル。

芸能人のスキャンダルも主にはこの2つ。

つまり、人間の大きな2つの躓きが4・5節において

戒められているということが言えるでしょう。 

ここで、ヘブル書が一方において愛の広がりについて教えている。

いつも顔を合わせている教会の仲間を愛すること。

それが、初めて顔を合わせる方への愛に繋がり、

最後には見たこともあったことも無い人への愛にまで広がっていく。

愛に生きないではおられない、そういう勧めをしながら、

その一方で異性とお金の罪に対する戒めが為される。

つまりこれはセットの話しなのです。

愛に生きることは大切。

でも愛に生きることの中にまた落とし穴があるんだ。

 しばらく前にある教会が新築のビル一棟丸々教会という

ビックリするような会堂建築をしました。

牧師たちが見学をさせていただいて、驚きながら

一つ一つ中を見せていただいた。

牧師たちの見学ですから、やはり牧師室・牧師の執務室が

どんな作りになっているのか関心がある訳です。 

それはもう見事な牧師室で、10人くらいの会議ができる

部屋と牧師一人が執務をする部屋と2部屋がセットになって

牧師室として用意されていて、更に中にもう一つ

ドアがあるのです。何と牧師専用のトイレがついていた。 

その教会の牧師が説明してくれました。

元々当初の設計では牧師室の中にトイレは無かった

そうでありますが、途中である信徒さんがおっしゃった。

「牧師先生が牧師室からチョコチョコ出てきて

トイレに行って、また部屋に戻っていく。

そういう様子を頻繁に信徒が目にするのはどうだろうか」、

そんな意見があって牧師室の中にトイレを設置したというのです。 

唖然とする思いで聞いていました。

あぁそうか、この教会の信徒さんは牧師がトイレに行く姿を

「牧師らしくない」そう思ったのか。興味深いことであります。 

聖書を学び、祈り深く、愛の奉仕に励んでいる牧師さんが

トイレに行く、そんな姿は牧師に似つかわしくない。

こういう感覚というのが、今晩のヘブル書の御言葉を

読み解く一つの助けになるのです。

 なぜ愛に生きることとセットで異性の罪、金銭の罪が戒められるのか?

愛に生き、その愛が広がっていく時に人は傲慢になるからです。

トイレに行くことなど似つかわしくない、

昼寝することなどみっともない、そう思える程に聖い

私の生き方、愛に溢れた生き方。そういう日常から離れた

特別な愛は、私たちの生活の場にあるべき基本的な愛を失わせてしまう。

及びもつかないような特別な愛の中で、当たり前の愛、

一番身近にあるべき愛を見失わせてしまうし、

そのことの罪が、問題が見えなくなってしまうことがあるのです。


 佐藤優さんの著書に「同志社大学神学部」という本の中で

20世紀を代表するドイツの歴史的神学者のことを話題にしています。 

佐藤氏を同志社で指導した神学部の教授が、

その世紀の神学者についてこのように語るのです。

「実は、ヨーロッパの神学界は、狭い人間関係によって

固まっている閉鎖的な世界だ。彼は自宅でゼミをしていた。

これは、『波長が合わない学生は指導しない』という姿勢だ。

彼にはキルシバウムという名の女性秘書がいた。

その秘書と同居していた。プロテスタント教会の道徳基準はもとより

スイスの標準的な道徳基準でもこういうことはありえない。

彼の奥さんはこの状況に耐え抜いた。

しかし、ヨーロッパの神学者は誰もこのことを問題にしない。

偉大な神学者の私生活を問題にするのはよくないと考えたのだろう。

しかし、自分のもっとも近いところにいる妻に

苦痛を与え続けるような男がほんとうに

人間の魂を救う神学を展開することができるだろうか」

この言葉に対して、佐藤氏は「できないと思います」と答えた。 


こういうことは世の中に非常に多いのです。

歴史的な偉人と呼ばれる人々が私生活において深い闇を抱えていた。

けれども、それはしばしば不問とされ、闇から闇に葬られる。

余りにも大きなその人の業績ゆえに、プライベートの

ひとつの闇を暴くことで名を汚してはいけない。

あれ程のことをしたのだから、このことには触れないでおこう。

そういう心理でありましょう。

2.神より始まる愛

 ヘブル書はここで、キリスト者が大祭司キリストの贖いによって

導かれる場所が隣人愛であることを語っています。

それは教会内に留まらない、やがて見ず知らずの人にまで広がり、

見ず知らずの人の痛みをも自分の痛みにする、

世界大のスケールをもった愛になる。しかしその後に言う訳です。

「結婚を尊びなさい。寝床を汚すな」、生々しい程の警告。

大きな愛を志向しながら、足元の愛が崩れていく。

そうであってはいけない。

一方で、身近な人を愛していればそれで良いという

考えを戒めています。愛が欠けている、

愛を必要としている場所は、至る所にある。

そこに心を合わせられるのがキリスト者である。 

けれどもこのような戒めは、近くと遠くの愛のバランスを

解くようなことではありません。

私は信仰を語るのに「バランス」という言葉を

あまり使わない方が良いと思っています。

「バランス」という言葉は便利です。

旧約と新約のバランス、律法と愛のバランス、知識と実践のバランス、

でもそれは違う。 

旧約は新約を要求するし、新約は旧約を要求する。

律法は愛に繋がり、愛に生きることを願う時、律法を必要とする。

正しい知識は正しい実践に導くし、

正しい実践を求めれば正しい知識が必要になる。 

バランスでは無いのです。 

一番身近な人を愛することと遠くの人を愛することの

バランスを取るのではありません。

もっとも近くに居る人を愛すること、たまたま出会った人を愛すること、

見ることのできない遠く離れた人のことを愛すること、

そういう一つ一つの愛の業が繋がり合っている。

バランス、配分の問題ではありません。

私たち一人一人の生きる愛がどこから

生み出されるものであるか、という問題です。



 世界の平和のために祈ります。ウクライナのために、

ミャンマーのために。被災地のために祈ります。 

私たちキリスト者は様々な時にまず祈る。

祈って何になるのか?

祈っている時間に出来ること、やるべきことがある、という人もいる。

けれども私たちは祈るのです。

祈りによって始める。なぜか?

私たちがどんなに素晴らしいことを行ったとしても、

その思いが神様によって始まらなければ、

神様に与えて頂いたものでなければ、

それは良き業にはならないからです。

良かれと思う私たちの思いが、神様から離れる時に

善きことには繋がらない、そのことを認める謙遜が、慎みが必要です。

慎みを忘れて、私こそがあの人を救い、

私こそがこの教会を救い、私こそがこの国を、この世界を。

そういう風に思い出した時に、その人が隣人を傷つけ、

教会を痛めつけ、社会を世界を壊してしまう。 

愛に夢中になってはいけないのです。

いつも一度愛を手放して、そして新しく神様に

愛をくださるよう求めるのです。

金銭を愛してはいけない。今与えられている、

その財産で十分。先の心配をして、今日与えられているよりも

多く蓄えようとしてはいけない。

金を愛するのではなく神を愛することが教えられています。 

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

この神様がおられるのだからいつもこのお方に求めること。

兄弟を家族を夫を妻を愛する愛を、今日・今神様に求めていただきたい。

そこから始めなければ躓いてしまう。 

今日たまたま出会った旅人を愛する愛を神様に求めていただきたい。

神様から始まらなければその愛もまた躓きになってしまう。 

世界の裏側にある痛み、苦しめられている自分とは直接関係が

無い人を愛する愛。自分さえよければ、自分の回りさえという

無関心の罪を離れて、遠く離れて痛んでいる人を

愛する愛を神様に求めて頂きたい。

そうでなければ、どんなに壮大な理想を掲げても

その愛は躓きになってしまう。 

6節
「主は私の助け手です。私は恐れません。

人間が、私に対して何ができましょう。」


このお方を頼りにしていつもいつも歩み出すこと。

恐れ戦き愛の業から逃げ出すことも、恐れを忘れて

主を忘れた愛に飛び出していくことも、

どちらも私たちが戒めるべき不信仰の罪であります。

プロテスタント教会の大切な一つの原則として

「万人祭司」という言葉があります。

全ての信徒が神の祭司である。

牧師だけではない、神父だけではない、

全ての信徒は神に召された祭司である。

確かに牧師がいる、伝道者がいる、一般企業に勤める信徒がいる。

けれどもそれは、役割の違いだけ。

牧師という役割に召される人がいるし、

会社員に召される人がいる。主婦に召され、

個人事業主として召される人がいる。 

全ての人が神様によって、その職業・立場を通して神の祭司。

即ち、大祭司キリストが自らの命を持って私たちを代表し、

私たちの罪を執り成してくださったように、

私たちもそれぞれの置かれた場所において、

そこに居る人々を神に執り成し生かす使命が与えられている。

そうした時に、非常に大切なことは聖さをどのように理解するかであります。 

例えば礼拝堂のことを考えました時に、今東伊豆の教会を整備しています。

それはただ壊れているから直しているというだけではない。

豪華である必要はありません。古くて良い、地味で良い。

しかし、聖なる神様を礼拝する場所でありますから、

私たちなりの最善をもって掃除し、修繕し、整え、礼拝を献げたいと願う。

これは当然のことであるし、また大切な礼拝の心であります。

神様は心を見るお方でありますが、その心が形にこそ

現れてくるものでもあります。

一方で、聖さの内実を問い続けることも大事なことであります。

私たちの教会は子どもたちが時に会堂で元気に遊んだり、

食事会をしたりもする。塾もここでしていた時期があります。 

そうやって、礼拝以外におことに礼拝堂を使うのは

聖さに対して無頓着だからではありません。 

私たちは、神を礼拝する場所の聖さを重んじます。

そしてその神様は、子どもたちがここで元気に遊んだり、

リトミックをしたり、勉強をしたり、食事の交わりを持ったり、

そのような私たちの日常の営みを喜んでくださる神様であられる。

美味しい食事を皆で喜んでいただき、楽しくおしゃべりをし交わりをする。

その中に喜びをもって伴ってくださる神様の聖さを信じる。 

トイレに行くこと、昼寝すること、そこに

神の聖さが見えなければいけない。

商売をし、仕事をし、家を掃除し、そのような生活の営みが

神様から離れたものであるならばそれこそが汚れです。

皆さんの日常の生活に神様を認めていただきたい。

神様に見せられないような、そういう現実がたくさんある。

そこに神様を迎えて頂きたいのです。

日常を否定した聖さや愛ではない。

自分自身でさえ目をそむけたくなるような日常の中に

お住まいくださる神様を認めること。

神様によって、そのような現実を生きることをはじめていく。 

汚れた場所、乱れた場所を否定する別世界の聖さでは無く、

あなたの置かれているその場所に神様をお迎えし、

神様と共にその場所から始めていく。

そういう誠の聖さを弁えることが、

誠の愛の波紋を広げていく生き方に繋がるのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

 Peace, Love and Understanding

 今、ここにある幸いに感謝しよう。
伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

■「礼拝を重んじる心」ヘブル12:25-29

1.神様に喜ばれる礼拝

ローマ帝国からの迫害に苦しむ初代教会にヘブル書は

「全ての人と平和を保ちなさい」と教えました。

そして平和を築くとは、神の聖さを求めることであると教えたのです。

神様が与えてくださるものに信頼し期待することが、

平和の始まりになっていくのです。

そして先に28・29節に目を向けるのですが

「このように揺り動かされない御国を受けるのですから、

私たちは感謝しようではありませんか。

感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、

神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。

12:29 私たちの神は焼き尽くす火なのです。」


へブル書が様々な言葉で語ってきた結論が

ここに一つ示されていると言えるでしょう。

「神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか」

迫害下にある教会を様々な言葉で励ましてきたのですが、

その行きつくところは礼拝。

「神様に喜ばれる礼拝」を捧げること、

そこに生きることがあなたたちの勝利である。 

何度も申し上げたように、礼拝は英語で

ワーシップ・サービスと言う訳ですが、

そこで「サービス」という言葉を勘違いしてはいけない。

会衆がお客さんのようになって

サービスを受けるのが礼拝ではありません。

私たち礼拝者一人一人が神様にサービスをする。

神様に喜んでいただける礼拝を心を込めてささげる。 

ですから、私たちが歌っていて気持ちが良い、

楽しくなる音楽が礼拝賛美ではなく、

神様が喜んでくださる音楽が礼拝賛美である。

皆さんが喜ぶ話しが礼拝説教なのでは無くて、

神様が喜んでくださるのが礼拝説教である。

全てにおいて、私たちは礼拝を通して神様に奉仕をする。 

そうやって私たちの思いが満たされるのではなく、

私たちが神様の喜びとなっていく時に、そこに私たちの力があり、

喜びがあり、望みが生まれる。

神の被造物である人間にとって、それが原点なのです。

25節ではこのように教えられています。

「あなたがたは、語っておられる方を拒まないように

気をつけなさい。地上において、警告を与える方を拒んだ

彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、

天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、

なおのこと処罰を免れられません。」


語っておられる方と言うのはこれはイエス様のことであります。

イエス様の言葉をちゃんと聞いていなければいけない。

ましてや拒むようなことがあってはいけない。

そのことが礼拝において問われている。 

私たちはイエス様の言葉を喜びとして聞いているのかどうか?

20世紀の大神学者カール・バルトという牧師が

まだ若い30歳の時に語った「人々を満足させる牧師」

という説教があります。

非常に厳しいことを書いておりまして、

「愛する教会の皆さん、皆さんは心の中に開いていて

ほとんど口に出しかかっている願いがあるでしょう。

その願いに今日お答えします。

あなたがたの中で10人いたら、その内の9人までは

この願いを持っている。その願いとは何か?

私に偽預言者になってもらいたいと思っていることです」

偽預言者とは神の言葉を取り次ぐのではない。民が望む言葉を語る。 

つまり、バルトはこの教会の9割の信徒は

私が神の言葉を取り次ぐのではなくて、

自分たちが望む言葉を語ってくれるように期待していると、

若干30歳のバルトが教会でこのように語ったというのです。 

心探られ戒められる言葉です。
 
ある社会学者が最近話していたのですが、現代は情報が溢れていて、

動画でもテキスト形式でもネットでいくらでも情報が得られる時代。

だからこそ本を読むこと、本を買うことの重要性があるというのです。

ネットで無料で幾らでも情報が得られる。

その時に例えばyoutubeで動画を見ている。

20分の動画だとして、3分経ってつまらないと

思ったらもう消してしまう。

10分聴いて自分の関心や自分の求める方向性と違ったら消してしまう。

けれども買った本はそうはいきません。

お金を払って買ったわけですから途中で難しかったり、

違うだろと思ってもよっぽどでない限り最後まで読む。

そうやって、自分の納得のための情報ではない、

成長したり、変化したり、本当の意味での情報体験ができるというのです。 

礼拝も正にそうです。私が30分の説教をお取次ぎする。

途中退屈したり、違うだろと思ったり、色々のことが

あるけれど最後まで聴き通した時にやはり自分の中からは生まれてこない、

外から。神様からのお語り掛けがある。

自分の安易な満足で聞くのではない。

神様の喜びとなる言葉を聞き続けることで、

私たちの内に本当の喜びが生じるのです。

2.神を恐れる

さらに「敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげよう」、

ここに「恐れ」と言う言葉があります。

「神を恐れる」ということを聖書は繰り返し教えていますが、

新改訳聖書はこのように「恐怖」の「恐」という言葉を使います。

新共同訳聖書は「かしこまる」という漢字の「畏れ」を使います。

恐らく一般的に考えたら「神をおそれる」と言うことの意味は

「かしこまる」の漢字で現す「畏れ」があてはまるだろうと思います。

しかしながら、だから新改訳聖書が訳した「恐れ」という漢字が

まったく見当はずれであるのかと言えばそうは言えないと思います。

29節には「私たちの神は焼き尽くす火なのです。」

という言葉がありました。

これは申命記4:24に記されている御言葉

「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである」

を引用した言葉です。 

出エジプトの渦中にあってモーセは

「主はご自身の御名を汚し、御旨に逆らう者を、

イスラエルの民であっても焼き尽し、滅ばしてしまわれる」

とイスラエルの民に語りました。

十戒を守り重んじる祝福と共に、そのことを忘れるならば

あななたちに何が待ち受けているのか、

厳しい裁きの言葉を持ってイスラエルの民が

正しく神様を礼拝するようにと戒めたのです。 

その言葉をヘブル書の記者は初代教会のキリスト者たちに語るのです。

非常に極端な対比です。



一方において礼拝を捧げることの喜びを語り、

一方で礼拝を忘れた者に対する焼き尽くし滅ぼす裁きの火を語る。

どちらを選ぶのか。脅されている、

脅迫されているような思いがするかもしれません。 

けれども、ここで私たちは脅しとしての恐怖を

突き付けられているのではなくて、

事実私たちが生きている場所、私たちが存在している

場所の危うさに恐れを抱くことを聖書は親切に教えてくれている、

そういう風に読むべきでありましょう。


3.神様に創られながら、神様の御心に生きることができない

私たちの罪の問題


 19世紀アメリカの信仰復興運動の代表的伝道者

ホイットフィールドをはじめ、この頃の説教集を読みますと、

説教の内容は「罪、世の終わり、最後の審判、地獄、滅び」

そうしたことが中心になって、正に火が出るような

メッセージを語っていることに驚きます。 

もちろん、時代にあった切り口で語ることは重要で、

現代同じように語ったからといって、恐らく

人々の心を捉えられる訳ではないだろうと思います。

しかし一方で、人間の現実を容赦なく、ありのままに

明かしていくという預言者としての務めの重要性は

今日においても変わらない。

いやむしろ今日においてこそ求められていると

言えるのではないでしょうか。 

現代の教会において、ホイットフィールドが語ったような

罪とか、裁きとか滅びとか、そういうことが語られる

機会があまりにも少ないと言われます。

そんなことを聞かされるのなら教会に行きたくない、

という人がたくさんいるのかもしれない。

そして、そういう聴衆を恐れて、癒しとか慰め平安、

耳当たりの良いことばかりを語る説教者の問題もあるでしょう。

正に、バルトが指摘した偽預言者の問題です。 

でも、そうやって慰めばかりが安易に語られても、

どこかでみんな、薄々気付いているのです。

自分がいかに救いようの無い存在であるか。

癒されようの無い、慰めようの無い、救いようの無い人間であるか。

そのことをどこかで知っていて、だからこそ

「そんなこと言わないでほしい。大丈夫だと言って欲しい」

と願いながら、しかし一方で偽物の言葉に救われようの無い思いもする。

例えば、お家の人からいつも「あなたはイイ子だ」と言われて、

何か友人関係で問題が起こると

「あの子が悪い。あなたはイイ子だ」そうやって

育てられてきたお子さんは、当然人間関係は上手くいかない。

何か起こるといつも人にせいにしてしまうから、

結局みんなに避けられてしまう。

そういう時に、その子が本当に求めている言葉はなんでしょうか。

心の奥底においては「あなたは間違っている」

と言ってもらいたいのです。

あなたのしていることはいけないよ、

友達が悪いのではなくてあなたが悪いんだよ。

その上で「でもこうすれば大丈夫だ」、

そうやって正面から間違いを指摘すると

そこに不思議な信頼感が生まれるということがあります。 

「多くの日本人は「イイ子、イイ子」と言いながら、

 子どもを悪い子に育ててしまう。

 イイ子・イイ子と子ども可愛さに子どもの問題、欠点、

 罪の心を見過ごしにする時に、結局子どもは正反対に育ってしまう。

 人間はオギャーと生まれたその時から罪を持っていると

 聖書に教えられています。

 そのことを前提として、罪を抱えた人間がどのようにして

 神様の聖さに与っていくか、それを真剣に考えるのが親の務め。

 親の愛情と言えるでしょう。


 ここでヘブル書は私たちにはっきりと語っている。

 喜びに生きる礼拝者としての道、そこから外れ出る時に

 私たちの魂を焼き尽くす炎がある、そのような二つの道。

 それは、神が私たちを怒って焼き尽くすということ以上に、

 そもそも私たちの置かれている状況、私たちの存在は

 そのような滅びに向かってまっしぐらのものである。

 放っておいたら、自分で燃え盛る炎の中に

 飛び込んでいくような存在である、これが現実なのです。 

 本当の救いというのは、まず私たちが自分の立っている

 その現実の場所を認めることからしか始まらないでしょう。

 今いる場所を誤魔化してしまったら、どこに向かうべきかは

 益々分からなくなってしまう。

 26節にはこのように語られています。

「あのときは御声が地を揺り動かしましたが、

 今は、こう約束しておられます。

 「もう一度、わたしは、地だけではなく天も揺り動かす。」


天地が揺り動かされる時が来る。地だけではない、

天をも揺り動かされるような時。私たちが普段自分の危うさを

誤魔化している様々な事柄がみんな露わになる。

みんな倒れてしまう。そうやって、振るいにかけられて

27節
「この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが

残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが

取り除かれることを示しています。」


天地が揺り動かされ、振るいにかけられることによって、

本当に揺り動かされることのない一つのものだけが残る。

それ以外の物はみんな倒れる。 

こういう風に言われて、あぁ私は大丈夫だと思うならそれで良い。

でも後になって、困った時に

「知らなかった。聞いていなかった」は通用しない。 

「大丈夫、大丈夫。何とかなる」、そうではない。

何とかならないような問題を私たちは抱えているのです。

神様に創られながら、神様の御心に生きることができない

私たちの罪の問題は深刻です。

創造主の意にそぐわない私たちの存在が、

燃え尽くす火に向かっていることは事実である。

しかし、そのような私たちの前になお祝福に繋がる道もちゃんとある。

命に繋がる道がある。 

イエス・キリストが、滅びに向かいまっしぐらであった私たちの前に、

十字架を持って立ちはだかってくださった。

私たちを命に向かわせるためにご自分の命を犠牲にしてくださった。

24節にあるように

「新しい契約の仲介者、キリストがおられる」、

そこで、あなたはどちらを今選ぶのか。

命か死か、祝福か呪いか。

4.ピューリタンの信仰

結婚式で指輪の交換があります。 

けれども、17世紀イギリスに生まれた教会改革運動、

ピューリタン・清教徒たちは結婚式での指輪の交換を

嫌がったと言われます。なぜか。

ピューリタンの信仰というのは、宗教改革以後も

形式ばかりを重んじて内実が伴わないイギリスの国教会に対する

激しい抵抗に始まるものです。

彼らの改革運動の中心は礼拝改革にありました。

本当に神の喜びとなる礼拝が追求されてはいない。

私たち人間の都合の中で神様を利用して、礼拝を権威づけている。

そういう礼拝に対する危機意識が、イギリス国王など

国家体制に対する反発にも繋がり、やがて彼らは

アメリカに移り住んで新しい信仰の世界を創ろうとした。

それは正しい礼拝、神様の喜びとなる、神様にサービスする

礼拝を求めてのことでありました。

そういう彼らが、例えば結婚式での指輪交換を嫌がった。

そこでもまた、直ぐに私たち人間の心が形式的になるからです。

指輪と言う契約の現れを見ながら自分たちが夫婦であることを確認する。

そうやって印に安心することで、契約の内実に

無責任になっていく私たち人間。

けれども神様の前で、夫を愛する、妻を愛すると約束した以上、

妻と夫と形作る家庭生活を通してその契約の真実を現すこと。

現し続けること。 そのことを誰よりもまず

神様の御前に為していかなければいけない。
 
ピューリタンの礼拝を重んじる心、そこに命を見出す心が

新たな国家を生み出す程の力になり、

また生活の細部に至るまでの真実を要求するものとなっていった。

私たちもその信仰の系譜の中にあることを覚えたいと思うのです。 

揺るがないお方に繋がり、属すること。

祝福に繋がる者であることを、それほどに徹底して喜びとしたい、

望みとして歩みたいと願うのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

 Peace, Love and Understanding

 今、ここにある幸いに感謝しよう。
伊豆夢(イズム)こと

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■「神より始まる」ヘブル12:14-24


1.「平和を追い求めよ」

出口の見えない迫害の中にある初代教会に向けられた励ましの言葉。

真っすぐ立っていることができなくなってしまったキリスト者たちに、

よろめく膝を真っすぐにせよとの教えを前回学びました。

続きます14節ですが

「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。

聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」


ここで若干唐突にも感じられるのですが

「平和を追い求めよ」と平和論が語られる。

もちろんキリスト者が平和を追い求めるべきであるのは当然です。

もしここで初代教会の人々が例えば自分たちの信仰ゆえに

武器を取ってローマ帝国に戦いを挑み、血を流してでも

教会の自由を確保しようと、そういうことをしていたのなら

この勧めは分かる訳ですけれども、この時代の教会に

そんな力はありません。

彼らは一方的にローマ帝国から苦しめられるのみ。

傷つけられるのみ。ひたすら耐え忍んでいたのです。

そういうキリスト者たちに「平和を追い求めよ」と教える。

平和を願い祈るというのならある程度意味は分かります。

けれども、この所においては明らかに彼らに平和を追求する、

平和の人になることが教えられている。

一方的にやられている方が、どうやって平和を追い求めたら良いのか?

この手紙を読んだキリスト者たちは大いに戸惑ってあろうと思います。

この御言葉の意味は、平和と並列に「聖められること」、

聖さを求めよと教えられている所に大きなヒントがあります。

平和を追い求めよ、即ち聖さを追い求めよ、

こう言い換えても良いかもしれません。 

つまり、迫害を受ける一方の初代教会の人々が

平和を積極的に生み出していく道がある。

それは神の聖さを求めること。言い換えるならば、

あなた方の内には神の聖さが無い。

だから平和が無いのだ、そういうことでもあります。

2.無制限の医療化

平和というプラカードを掲げ、戦争に反対し、

平和運動を展開したらそれが平和を追求することになるのか?

と言えばそうではありません。平和を求めるという人たちの内に

平和を壊してしまう心が、戦争に反対するという主張の中に

戦争を生み出す要因になる心が潜んでいることは

幾らでもあるのではないでしょうか。 

近年、医療化ということがしばしば話題になります。

医療化というのは、これまで医療的問題ではなかった事柄が、

医療の問題として取り扱われ、治療の対象となっていく

ことを指す言葉です。

様々な問題が医療的な事柄として取り上げられるようになる。

例えば、昔であれば「あの子は落ち着きが無いね」と言われていた子が、

今は「あの子はADHDだね」と医療の問題として整理される。

肥満はメタボリックシンドロームという医療の問題になる。

直ぐに病名がつき、治療法が提示される。 

医療化が一概に悪い訳ではありません。

例えば自分のお子さんがどうして学校で上手くいかないのか、

学習障害という一つのくくりの中でお子さんを見た時に

良く理解できるようになる。そういうプラスの面はある訳ですが、

一方で20世紀の半ばに活躍したフランスの哲学者

ミシェル・フーコーは「無制限の医療化」という警笛を

鳴らしたことで知られます。

あらゆるものが医療化されることによって、

医療によって人間の健全性が測られるようになるだろう。

やがて人間は、医療を測りとした

健康・健全の奴隷になっていくというフーコーの危惧は

半世紀以上が経って正にその通りの状況にあると言えるでしょう。 

医療というのは健康を生み出すためのものであるようでいて、

しかし皮肉なことに医療が病気を作っていく、

そういう側面があるわけです。

様々な病気を生み出すことが、医療の価値を高めていくという皮肉。 

平和も同じようなものになりかねない。

平和を叫ぶことに自らの価値を見出すのであれば、

平和を叫ぶためには争いが必要、戦争が必要である

という矛盾が起きてしまいます。

皮肉なことに、争いを生み出してしまう平和運動、戦争を

生み出してしまう反戦運動というのが幾らでもあると思うのです。

聖書が平和を求めよ、聖さを求めよと言った時に、

そのような争いを必要とする平和ではない。

誠に平和を求めるとはいかなることか、

そのことを私たちに教えているのです。

3.聖さ

平和を求めるとは、神様の聖さを追求するところにある。

神の聖さがこそが平和を生み出す唯一の道であるというのです。

そうすると、今度は私たちが聖さを求めるとは

いかなることかを学ばなければいけない。

旧約聖書が書かれたヘブル語において「聖さ」「聖」

という言葉は、元々「区別する」「分離する」

というような意味があります。

この世の汚れから区別されている、分離されている。

神様というのは真っ白なお方。一点の汚れも曇りも無い。

その神の聖さは、私たちの生きるこの世とは区別されたものです。

例えば絵具のことを考えて、濁った色に

白い絵の具をたくさん入れることで

白に近づいていくことは出来るでしょう。

けれども決して白くはならない。

そういう意味での聖さを追い求めるとしたら、

結局それは自分よりも白いか、自分よりも

白くないかという人との比較に陥らざるを得ない。

それは、聖書が教える聖さとは違います。

聖書が教える聖さとは、先程申し上げたように区別されている。 

どちらが白に近いかと比べ合う偽物の聖さから区別され、

汚れを知らない真の聖である神様に属する者とされる。

自分自身が白いか黒いか、どのくらい白に近づいたかではなくて、

私たちが神様の聖さに属するものとされる。

そのことを求めていくのが本当に聖さを求める歩みです。 

真の聖さは私たちの内側から決して生まれない。

すでに垂らしてしまった黒い絵の具を

無かったことにはできないのです。

そのことが分からなくなった時に、私たちの聖さを求める思いは

逆に平和を壊すものになる。愛とは逆の方向に進んでいくのです。

4.「聖証者」と「棄教者」

キリスト教会の歴史の初期、3世紀半ばに起こったデキウスの迫害。

ローマ帝国が衰退していく時代の中で、皇帝デキウスは

ローマの衰退の原因は古代ローマの神々への信仰を

捨ててしまったことによると考えるのです。

古代ローマの神々を礼拝しないことは反逆罪として

厳しく取り締まります。

そこで迫害の中心に居たのは異教の神々を礼拝することを

拒むキリスト者でありました。

しかし、そうやってキリスト者を迫害する中で

皇帝デキウスは一つのことに気がつくのです。

クリスチャンというのは殉教者が出るごとにむしろ力を増していく。

殉教したキリスト教徒の姿に感銘を受けて、

かえってキリスト教徒が増えてしまったからです。

そこで彼は教会を迫害しながらキリスト者を殺さず、

激しい拷問を加えて行く。殺すことではなく、拷問を通して

信仰を捨てさせることに重きを置くのです。

実際、そのようなデキウスの迫害の中で、

相当数のクリスチャンが拷問に耐えかねて信仰を離れました。 

そういう中で一つの問題が教会の中に起こる。

拷問によって苦しめられ、ついに信仰を捨ててしまった棄教者が、

自分の過ちを悔い改めもう一度教会に戻りたい、

信仰を回復したいと願う。そういう棄教者の扱いをめぐって

教会の中に激しい議論が起こるのです。

結局、棄教者の取り扱いはキリスト教会が分裂しかねない

大問題にまで発展してしまいます。 

ここで問題になったのは一度信仰を捨てながら

もう一度教会に戻りたいと願った棄教者の存在ではなかったのです。

問題の本質は、拷問に耐え抜き信仰を守り通した人の存在でありました。

これまでも教会は度重なる迫害を経験しておりました。

そこで数え切れない人々が殉教の死を遂げていた。

そしてしばしば殉教者たちは聖人として祭り上げられていた。

それでも、殉教者というのはもう死んでいる。

そこにはいないから良いのです。 

デキウスの迫害は基本的に殺すことをしない迫害。

ですから拷問に耐え抜いて教会に戻ってくるキリスト者たちが居たのです。

彼らは「聖証者」と呼ばれて崇められました。

彼らが殉教者と違ったのは、今なお生きているということです。

生きながら聖人のように、拷問に耐え抜いた信仰を褒め称えられ。

そうした時に、迫害に耐え抜いた聖証者たちは

自分たちの聖さ、強さにおいて、棄教者たちを

許すことが出来なかったのです。

自分たちの正しさに最大限の評価を持たせるために、

やすやすと棄教者を受け入れる訳にはいかなかった。 

結局激しい議論の後に、ローマ司教カリストゥスの

「許されない罪は無い」という言葉が賛同を得て、

棄教者たちの教会への回復の道が定められます。

しかしそのことをどうしても受け入れられなかった人々は、

教会を去り独自の道を歩む。 聖さを履き違えた

者たちの頑なさがもたらした悲劇でありました。 

そうやって自分の聖さを誇るのではない。

むしろ私たちはどうしても聖い者になれない、

汚れをぬぐうことができない者であることを認めながら、

そういう私たちのために死んでくださった

キリストの十字架を受け入れること。

そうやって、父なる神様の下に帰ることが

私たちに許された唯一の聖さである。 

自分の聖さを主張する中には平和は訪れない。

ローマからの迫害に苦しむ教会が、

しかしそこで自分たちの正しさと敵対者の不義を主張するのではなくて、

そこでこそ自分たちが罪びとであることを認めよ。

罪許された罪人であることを告白せよとヘブル書は教えたのです。

悔い改め無くして平和はこない、と。

5.神より始まる

その一つの例として16節でエサウとヤコブの双子の兄弟、

エサウの物語を引用するのです。

16節
「また、だれも、一杯の食物と引き替えに

自分の長子の権利を売ったエサウのように、

淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。」


父イサクに愛されたエサウと、母リベカに愛されたヤコブ、

親の偏愛を背負って育ったエサウとヤコブの間には、

当然のように対立関係が生れます。

そのことが決定的になった一つの事件が創世記に記されています。 

弟ヤコブが料理をしていた。そこに獲物を追いかけ、

空腹で倒れそうになった兄エサウが帰ってくるのです。 

エサウは弟が作っているレンズ豆の煮物を見て

「その赤いのを、赤いのを食べさせてくれ」と頼みます。

その料理が何であるか、彼は関心を持ちません。

狩りに夢中、大きな獲物を仕留めたい。

他のことはどうでも良いのです。

そのエサウの心にヤコブは付け入ります。 

空腹になればとにかく美味しい料理をお腹一杯食べることしか考えない

エサウの性格を良く知って、したたかにヤコブは

長子の権利を料理との引き換えに求めます。

するとエサウは、

「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」

こうしてエサウは狩りに夢中になることで

神様から頂いた大切な長子の権利を弟ヤコブに譲ってしまうのです。 

何か大きな、自分を満たしてくれる一つのものだけを

夢中に追いかける生き方というのは、このような危険性をいつも伴います。 

人間にはこういう性質があります。

獲物を追いかけている時は、大きな獲物しか目に入らなくなる。

腹が減れば、腹を満たすことしか考えられなくなる。

お酒に目が眩むと、一杯のお酒を飲む為には

家族が壊れても構わないという価値観に陥ってしまう。 

エサウの姿が正にそれです。

一回の食事が長子の権利よりも大切に思えてしまう。

17節
「あなたがたが知っているとおり、彼は後になって

祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。

涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。」


ここでヘブル書が様々な言葉で私たちに教えていることは、

自分で追い求めることの決定的な過ちです。



18節以降で語られているのはモーセが十戒を

神様から頂いた時の恐れです。

21節
「また、その光景があまりに恐ろしかったので、

モーセは「私は怖くて震える」と言いました。」


あの大指導者モーセにして神が十戒を下された時に恐れ震えた。

私たち人間が作り出すものと、神がご一方的にくだされるものの

異質性が強調されているのです。

私たちが、自分で頑張って、自分の知恵や力で

何がしかを手にできると思った時に、そこにある

魅力・望み・喜びは抑えがたく大きい。

エサウが長子の権利をも放り出す程に狩りに夢中になり、

大きな獲物をしとめることの喜びに心を奪われてしまったように、

頑張ったらこの先に素晴らしい物を得られると思い込んだ生き方は、

どこかでコントロールが効かなくなってしまいます。

家族も、健康も、財産も、過去も、未来も、どうでも良い。

罪というのは、アダムとエバが神様との親しい関係性よりも

木の実一つに魅力を覚えたあの時から変わらず、

無価値なものに飛びついてしまう人間の愚かさであり、

その愚かさを手玉に取るサタンの働きです。

自分の内側から何か良い物が出てくると思ったら、

私たちの人生はそこでもう崩れていってしまう。

のんびり礼拝など捧げておられない。

もしこの時間をあのことに使えたら、

祈っているくらいならあれこれ努力した方が。

信仰に価値を見出せなくなるでしょう。でもそうではない。 

私たちは神様からまず頂かなければいけない。

私たちの外側から、私たちとは異質なところから

私たちの方に来てくださる神様を受け入れていくこと。

生きることではなく、生かされること。

手に入れるよりも、与えられること。

聖さを示すことではなく、聖められること。 

いつもまず私たちは神様に頂くところから始めなければいけない。

そうやって頂いたものの恵み、価値を噛み締めた時に

そこで私たちにどのような生き方が生まれるのか。

神様からご一方的にいただく恵みの豊かさを知るならば、

怠惰な人生に留まることなど考えられない。

やはりそこで、頂いている恵みに感謝しながら、

平和を求め、愛を求め、後に続く人々を思い、

被造物の管理者として一生懸命生きるでしょう。

精一杯努力するでしょう。 

24節にはっきり記されています。

「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、

アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。」

あなたがたを聖めるキリストの十字架の血潮があるではないか。

その恵みの完成がドンドン近づいているではないか。


2000年前に起こったローマ帝国からの迫害。

その厳しさは真に現実的であり、今日の命の問題、

明日の家族の問題であった。

そこでしかし、あなた方の内側から生まれる

何がしかに頼るのではなく、神様が与えてくださる聖さを追い求めよ。

それが平和に繋がると聖書は教えたのです。

観念的な信仰ではありません。

誠に私たちの生活の只中に根差した現実の信仰です。 

皆さんが様々な課題を抱えて生きておられる。

問題に直面し、居ても立っても居られない状況の中で、

何に期待するのか。

まずはじめに自分が何かを生み出すことか、

それともまず神様が与えてくださるものに期待をするのか。

どちらに始まる望みが皆さんの人生を支配するのか、この順番は決定的です。 

聖書の始まりに何と書いてあるでしょうか。

「はじめに神が」、始まりである神様に信頼することが、

この世界の秩序であり、その中に生まれてきた人間の祝福です。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

 Peace, Love and Understanding

 今、ここにある幸いに感謝しよう。