ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

1.イエス様を受け入れないサマリア人


 イエス様は3年間の公生涯の大半をガリラヤ地方で過ごされました。

今私どもはルカの福音書9章を学んでいます。

ルカの福音書は24章まで続きますので、まだまだイエス様の

伝道活動も道半ばのように思われるのですが、

実はすでに今晩の箇所で、3年間の公生涯の最後の数ヶ月

と言うところまで時間は進んでいるのです。

福音書の時間的な経過を読み取ることは非常に難しく、

中々はっきりと断定できません。

そもそもイエス様が三年間の公生涯を歩まれたと申し上げていることにも、

不確かな要素が含まれているのです。

しかしながら、このガリラヤ伝道を終えられ

エルサレムに向かわれるタイミングについては、

もう十字架の恐らく3カ月前くらいではないかと

かなり明確に読み取ることが出来る。

イエス様の公生涯を大きく整理をするとこのようになります。

2年半のイエス様のガリラヤにおける宣教活動は群衆から大きな評判を得た。

しかし、9章に2度の受難予告がありイエス様の人気は峠を越える。

ここからドンドンとイエス様の周囲にいた群衆の数が減っていく。

そういう中でいよいよガリラヤを後にされエルサレムに向かわれる。

この2回の受難予告以降十字架までの最後の数か月を

ルカの福音書は相当の分量を割いて丁寧に記していく。

特に今晩の個所をはじまりにして、実に19章45節まで、

エルサレムの神殿にお入りになるまでのエルサレムに向かう

旅の記事が続いていくのです。

それほど重要な、また濃密な旅が始まっていくということです。


さて、イエス様は、天に上げられる日が近づいて来たことを思いつつ、

エルサレムに向かう決意を固められました。

そして、先に使いの者を出されるのです。

サマリア人の村をイエス様は通られるという、

そこで宿泊場所などの準備をしてくださいということ。

普段イエス様が、ご自分の旅の準備を弟子に事前に頼むという記事は

あまり聖書の中で見られないのでありますが、

この時はイエス様はそうなさった。

それは、これから通られる町がサマリア人の町であった、

つまり馴染みの無い、普段行くことのない町であったからなのです。

なぜサマリア人の町が珍しかったのか。

サマリア人と聴いて聖書中直ぐに思い浮かぶのは

ヨハネの福音書に記されているサマリアの女の記事ではないでしょうか。

あの時もイエス様はサマリア地方を通られ、

そしてサマリア人の女性に水を求められた。

それは当時のユダヤ人には考えられないような行動だったのです。


ユダヤ人とサマリア人というのは元々同じ

アブラハム・イサク・ヤコブに始まるイスラエル民族でありましたが、

ソロモン王の後の時代にイスラエルが南北に分裂いたします。

北イスラエルと南ユダと呼ばれますが、サマリアというのは

その中で北イスラエルのことです。

北イスラエルと南ユダは時に激しい対立関係に陥り

戦争をしたこともありました。

そうした歴史の中で、やがてアッシリア帝国によって

北イスラエルは滅ぼされてしまいます。

そうすると、北イスラエルの民は旧約聖書に禁じられていた

異邦人との結婚を良しとするようになります。

このことを南ユダの人々は大変嫌いまして

「サマリア人は汚れた民族になった」と言って、

民族の純潔を捨てたサマリア人を軽蔑し、

また敵対視するようになります。

ですからこのイエス様の時代においては、

ユダヤからガリラヤに行こうと思ったら、

ユダヤ人はサマリアの地に足を踏み入れる事を嫌って、

わざわざ遠回りをすることが常でありました。

そういうことですから、当然サマリア人の方もユダヤ人を嫌っていた。

イエス様の使いの者がサマリアの町に入った時に、

彼らを歓迎しなかった。

特にも53節にその具体的な理由としてこのように記されています。

「しかし、イエスが御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、

サマリア人はイエスを受け入れなかった。」


サマリア人たちがユダヤ人のイエス様を歓迎しないのは

当たり前のことでありましたが、特にその理由として、

イエス様がエルサレムを目指しておられる、

それがサマリア人の気に食わなかった。


先程お話したように、イスラエル王国の南北分裂、滅亡という

歴史を辿る中において、異邦人との結婚を許す

サマリア人と民族の血を守るユダヤ人との決別が起こります。

聖地エルサレムから締め出される形になったサマリア人は、

止むなく旧約聖書においてしばしば重要な山として登場します

サマリア地方にあるゲリジム山に新しく神殿を築きまして、

そこで礼拝をするようになるのです。

創世記を開きますと12章7節でアブラハムはカナン到着後

最初にこのところに祭壇を築きましたし、

モーセの時代にも神様の祝福が与えられる山として登場いたします。

サマリア人はゲリジム山の神殿を新たな礼拝の場所として定めるのです。

しかし、このことがいよいよユダヤ人とサマリア人の対立を激しくしていき、

この100年前くらいにはユダヤ民族がゲリジム山のサマリア人の神殿を

破壊するという事件が起こっていた。

あのヨハネの福音書のサマリアの女もイエス様との対話の中で、

イエス様に「どこで礼拝することが正しい礼拝なのでしょうか。

私たちサマリア人は昔からゲリジム山こそが

正しい礼拝の場だと教えられてきたし、

ユダヤ人はエルサレム神殿こそが正しい礼拝の場だという。

一体どちらが正しいのでしょうか」


そういうことを尋ねた。サマリア人とユダヤ人の間に、

正しい礼拝の場所、真の神殿はどこにあるか、

この議論は彼らの対立のもっとも深い場所にある問題でありました。

ですから、エルサレムに向かうイエス様一行を

受け入れることができなかったのです。


使いの者たちは、サマリアでの出来事を受けて

イエス様のもとに戻りことの次第を報告しました。

その報告を耳にした12弟子のリーダー格、ヤコブとヨハネの兄弟は

激怒するのです。

54節「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。

『主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』」

先週も学びましたが雷の子とイエス様にあだ名をつけられた、

その本性が露わになるような場面です。

「先生を拒否するような者たちは焼き打ちにしましょう」という言葉。

これまでも、イエス様を拒んだ人はいたのです。

例えばゲラサ人の地において、イエス様は墓場に住みつく男を

お癒しになられたのですが、ブタを失った豚飼いたちが

「ここから出ていって欲しい」とイエス様を追い出す場面がありました。

その時にヤコブやヨハネが同様に怒ったとは書いてない。

この時の怒りはやはり相手がサマリア人だから、

という面が強くあったのです。彼らは何を望んでいた。

元はアブラハムに繋がる同族とは言え、罪を犯し神を離れ、

あろうことかエルサレムとは別に礼拝の場を定めたサマリア人。

弟子たちもまたサマリア人に対する嫌悪感を強く持っていたのです。


そう言う町にイエス様が立ち寄られる。

そこで彼らがイエス様に期待していたことは裁きの宣告でありましょう。

「あなた方は間違っている。真の礼拝はサマリアでは無い、

エルサレムでこそなされるべきだ。悔い改めよ」

そういう言葉を期待していたと思うのです。

そういう自分たちが願うメシヤ像の中では、

彼らはイエス様に命を献げる覚悟があった。

けれども、使いが帰ってくると、サマリア人はイエス様を拒否した。

それで怒り心頭、という場面です。

このような弟子たちの姿に対して

55節「しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。」

これはかなり厳しいイエス様のヤコブ・ヨハネに対する

叱責があったことを表す言葉です。

彼らの心をイエス様は厳しく戒められた。

イエス様は9章5節で弟子たちを伝道旅行に派遣する際に

このような原則をお示しになられました。

「人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに

、彼らに対する証しとして足のちりを払い落としなさい。」


あなたたちを受け入れ無い町があるなら、

その時には足のちりを払い落していきなさい。

自分たちにはこれ以上の責任は、なすべきことをしました、

というそういう姿勢。それで良いとイエス様は言われた。

しかしヤコブ・ヨハネはそれでは満足いかない。

焼き尽くし、滅ぼしてしまいたい。




2.さばいてはいけない


私たち人間は、正しさの中でこそ恐ろしい罪を犯すものであります。

正義の中でこそ、人間は醜いことを平然とする。

マックス・ウェーバーが

「善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、

人間の行為にとって決して真実ではない」と教えました。

戦争とか虐殺とか、私たちがもっとも嫌悪する出来事は

しばしば正義の中から生まれるということです。

自分が正義に立っているという思いこそが、歯止めを失い

人間をどこまでも残虐にする。

正義なんだから人を殺しても仕方がない。

正義のためなのだから残虐な行為も仕方がない。

正義なんだから許される、そういう思いです。

ユダヤ人にとってサマリア人の過ちは明らかでありました。

信仰の純潔を捨て、神の定めたもう都エルサレムを捨て、

勝手な場所で礼拝を捧げるサマリア人。

彼らの過ちが明らかであったがゆえに、

ユダヤ人のサマリア人に対する怒りは激しいものであり、

それゆえに彼らは100年前にサマリア人の礼拝の場所を

破壊するという恐ろしい事件を起こしたのです。

それゆえ当然、サマリア人のユダヤ人に対する怒り・憎しみも燃え上がっていた。

もちろん彼らにも言い分があったのです。

どちらか一方の言い分が100%受け入れられる、

そういうことは人間の関係性の中ではあり得ない。

完全な人は一人もいないからです。

しかしあからさまな相手の罪や問題を目の当たりにした時に、

あまりにも大きな問題を目撃した時に、そこで自分自身の問題や

過ちが見えなくなってしまう。

見なくて済むようになると言った方がよいでしょうか。

週刊誌で有名人の失敗・問題が報じられ、袋叩きに合う。

テレビだけでは無い。私たちの身近な生活の中でも、

誰かの影口を言う時にその場は大いに盛り上がる。

自分自身の問題から解放される快感です。

けれども、イエス様は「あの街を焼き滅ぼしましょう」と言う

ヤコブ・ヨハネを戒められました。

そうやって他者の問題や過ちで心を一杯にして騒ぎたてることを

お許しにはならなかったのです。

51節にイエス様のお心がどこに向いているのか、

そのことが明確に記されています。

「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。

イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。」


天に上げられる日が近づいてイエス様は御顔をエルサレムに向け、

毅然として進んで行かれた。そこに何を見ておられたかは

もう言うまでも無いことです。

イエス様は、十字架の死を見つめておられた。

そしてそのことによって、私たち人間の罪を贖い救いの道を開くことを

一心に見ておられたのです。

そういうお心の中でエルサレムに向かう旅をお始めになられた。

ですから、19章までの長いエルサレムへの旅の記事は全て、

十字架を真っすぐに見つめられるイエス様のお心の中で

読み解かれていかなければならないものであります。

当然、サマリア人の街に足を向けようとされた

イエス様のお心が彼らを滅ぼすことにではない、

彼らをも救いに招き・導くことを目的としておられたことは明らかである。

そこでたとえご自分をサマリア人が受け入れなかったとしても、

そのことを持って火で焼きつくすなどとんでもない。

イエス様は彼らを何とかして救い出すことを願っておられるのであるから、

自分の思いが適わないなら今すぐ滅ぼしてしまえ、

そんなことは思われない。

イエス様は6章37節から38節で弟子たちにこのように教えてくださいました。

「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。

人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。

赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。与えなさい。

そうすれば、自分も与えられます。

人々は升をよくして、押しつけ、揺すり入れ、

あふれるまでにして、あなたがたの懐に入れてくれるでしょう。

あなたがたは、自分が量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」


イエス様はさばいてはいけない、と教えてくださいました。

さばくというのは、裁判の用語。判決を下す、

つまり結論を出すということです。

さばいてはいけないと言われている時に、それはあなた方が

結論を出してはいけないということなのです。

この人は悪い人です、とさばいた。

結論を出した。そうするともうそれで終わりです。

それ以上もう前には進まない。変化は望めない。そこで終わり。

ヨハネとヤコブが、火を下して、と言ったのは正に結論です。

もうサマリア人は終わりだ。最後にイエス様によって

悔い改めるチャンスがあったのにそれを拒否した。

彼らは滅ぼされるべきだ、もうこれで終わりと思ったのです。

さばいたのです。

でもイエス様は結論を出すな、さばくなと教えてくださいました。

もうあの人はダメだ、愛しても無駄だ、何をしたって意味が無い、

そうさばいて終わりにするな。

まだ可能性がある、まだ希望があると信じてなお愛せ。

逆に、もしあなた方が裁きをくだすなら、

その裁きがあなた自身をも裁くことになる。

それは神様がそうされると言うこと以上に、自分が自分をもう許せない、

自分に望みを見出し得ない、自分に絶望しなければいけない、

そういうことになる。

ヨハネとヤコブはサマリア人の罪を断罪しました。

もしその裁きが神の御前に認められたならば、

この後イエス様を裏切り逃げ出していく

ヤコブとヨハネはもはや許されなかった。

自分を許すことはできなかった。

けれども、サマリア人に結論を出さず

忍耐してくださったイエス様は、同じ心をもって

ヤコブとヨハネに忍耐してくださった。

ヤコブとヨハネの結論とイエス様のご忍耐と、

どちらが優先されるかは彼ら自身にとっての大問題であったのです。


 ロイドジョーンズというイギリスの説教者がこのように言いました。

「キリスト者とは、自分で自分をゆるすことができないにもかかわらず、

神は自分をゆるしてくださったということを悟っている人のことである。

言い替えれば、自分がゆるされている事実に驚いている人のことである。」


私たちは自分で自分を許すことができない、

つまり自分で自分を裁く他無くなってしまう、

自分で自分に結論を出してしまう、そういう存在です。

しかしキリスト者は、そうやって自分で自分を見切る他無い現実の中にあって、

そんな自分を許してくださっているお方がいることを知り、

その事実に驚いている、ロイドジョーンズはこのように信仰を告白しました。

自分にさえ裁かれてしまうような私を裁かずに生かして下さったお方がいる。

そうであるならば、結論を出してしまいたくなるようなあの人を、

この人を、なお裁かずに望みをもって愛することができるのではないか。

結論を出したくなるその人に、なお神様のご臨在ゆえに

望みを持ち続けることが、それがあなた自身の望みである。

そのことを忘れないで頂きたいのです。

十字架は、もう終わりという結論が出ていたその場所に

望みを与える救いの道でありました。結論を変える、それが救いです。

私たちがそのことを信じる時に、私たちの他者に対する

言葉は変わるのではないでしょうか。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。


伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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1.雷の子ヨハネ



先週のみ言葉では、「誰が一番偉いのか」と論じ合う弟子たちの姿。

それに対してイエス様が本当の偉大さとは何か、

を教えてくださったのでありました。

今晩の記事を見ますと、

12弟子のリーダー格ヨハネがイエス様に言うのです。

49節「さて、ヨハネが言った。

『先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、

やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。』」

どんな気持ちでヨハネはイエス様にこう言うことを話したのでしょうか。

「先生、先生。この前、先生の名前を唱えて悪霊を

追い出している者がいたんですよ。でも、私たちの仲間ではないし、

顔も見たことのない者だったので止めさせました。」

多少誇らしい気持ちがあったのではないか、

手柄話のような気持ちで、気軽にイエス様に話しかけたのだろうと思います。

ヨハネは実の兄ヤコブと共に、イエス様に「ボアネルゲス」という

一つのあだ名をもらっていました。これは雷の子という意味のあだ名です。

このあだ名から大体彼がどんな人物だったか、想像がつくのです。

大変なかんしゃく持ち。何かあると、

雷のような声でどなる、わめき散らす。

正に来週学びます54節には彼ららしい言葉が出てきます。

「弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。

『主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』」

兄弟二人、同じあだ名をもらうというのも凄い話しですが、

このように大変威勢の良い人物でありました。

きっとこの時も「お前たち誰だ。私たちの先生の名前を

勝手に使うようなことは許さん。今すぐ止めろ!」

と、威勢の良い怒鳴り声を張り上げたのだと思います。

もちろん、ヨハネは良かれと思って止めさせたのです。

だから、この時手柄話しのようにイエス様に話している。


この当時「まじない」のようなものをする人々は数多くおりました。

古いエジプトの文献を調べますと、異教の地にあるまじない師が

パレスチナから伝え聞く旧約聖書の偉人

「アブラハム・イサク・ヤコブ」こう言う人々の名前を繰り返し

唱えていたという記録が残っているそうです。

そうやって評判の良い人の名前を用いて、病気を治療しようとする、

悪霊を追い出そうとする人々がいた。

ヨハネもきっと、まじない師がそのようにイエス様の名前を

利用しているのを見つけて、

「何をしてるか!」と怒鳴りつけた、止めさせたのです。

現代も聖書をほとんど読まない人が、有名な言葉を切り抜いて、

全く違う意味で使うようなことは散見されます。

そうすると、ヨハネのように止めさせたくなる気持ちになるでしょう。

しかしイエス様はそういうヨハネの言葉に対して

意外な返答をされるのです。

50節「しかし、イエスは彼に言われた。

『やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、

あなたがたの味方です。』」


どうして止めさせてはいけないか?

「あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」

では、このイエス様の言葉はどんな口調であったと想像するでしょうか。

恐らく、「別に良いではないか」、そう言う穏やかな

口調だったのであろうと思います。

決して、彼らのしていることを積極的に評価しているわけではありません。

「まぁ、良いじゃないか。そんなに言う程の事じゃない。

彼らも私の名前を唱えて、力ある業をしたら、

私のことを悪くも言えないんだから。」

つまり、大らかに見てあげなさいということです。

イエス様は、良く分からないでご自身の名前を唱える人々の行動に

大変大らかでおられる。

しかしここで見逃せない事は、イエス様はご自身の名前を唱えて

利用していた人々の行為に大らかであられるのに、

それを止めさせたヨハネの行動については厳しく戒めておられるということです。

ヨハネに対してははっきりと言われました。

「止めさせてはいけない」。

イエス様の言葉の重心が「まじない位良いじゃないか」、

そちらにあるのではないということ。

イエス様がおっしゃりたいことは、イエス様の名を利用する

人々を止めさせたヨハネの行動、

「あなたの行動は良くない。それを止めなさい」、こちらにあるのです。

ヨハネはただのかんしゃくもちではありません。正義感の強い男です。

イエス様の教えを受け入れない人々に怒りを覚える。

イエス様の名前を適当に用いる人々が赦せない。

そうして大声を出すのです。なぜ大声を出すのでしょうか。

相手の言葉や行動を打ち消すためにです。

他の人の言葉は要らない、ただ自分の言葉・声だけを聞けと思うから、

大きな声になるのです。

大声で、恐ろしい言葉で、相手を震え上がらせ、

不条理な要求を受け入れさせる。こういうことは犯罪です。

では正しい事においてはどうでしょうか。

ヨハネのかんしゃくというのは、正義感からくる恐喝です。

あなたは間違っているのだから、何が何でも止めさせてやる。

自分の意見が正しいのだから、大声を出してでも受け入れさせてやる。

イエス様はそういうヨハネのやり方をお認めにはならなかったのです。

ヨハネはイエス様の言葉を聞いてびっくりしたでしょう。

「どうして、イエス様はあんなまじないをするような人々に寛大なんだろう。

私たちに反対しないものは味方だなんて。そうではない。

私たちのようにちゃんとイエス様に従う者だけが正しい。」

今度は、イエス様に対してかんしゃくを起こしたかもしれません。

しかし、まさにこの所がヨハネの最も大きな問題であり、

また弱さでありました。



2.正義感

彼は正義感に燃えていたと申しました。

正義感に燃えるとはどういうことか、自分に正義があると考えることです。

49節で彼はこのように言っている。

「その人が私たちについて来なかったからです。」

私たちの仲間ではない、新共同訳聖書では“私たちに従わないので

”止めさせたと訳しています。私たちの仲間ではない、私たちに従わない、

ここでヨハネが言う私たちとは誰のことでしょうか。

当然自分のことであり、イエス様のことです。

そこには確かに、ヨハネ自身が数えられている。

「イエス様“あなた”の仲間ではなかったので。

“あなた”に従わないので止めさせました」とは言わなかったのです。

イエス様の思いを自分は代弁しているつもりになって、

“私たち”に着いて来ない者がいたので、と言った。

こういう勘違いもまた、私たちがしばしば犯すことではないでしょうか。

私たちは聖書の神様の完全を信じています。

このお方は常に正しいお方であられる。

事実そうであります。けれども真の神様を信じているがゆえに、

教会は過ちを犯すことがある。

完全な神様を信じている自分たち教会もまた完全なのだ。

完全な神様を信じている私も完全なのだ。

このように、神様の完全を気づかないうちに自分にまで転嫁してしまう。そ

うやって、間違いだらけの私たちが、自分の過ちを認められなくなる

ということは本当に恐ろしいことだと思います。


教会に限らず、自分が関わっていたり属している集団と

自分をあたかも一体であるかのように誤解し、

横暴に振る舞ってしまうことがある。

「私は誰誰と親しいんだ。誰誰の弟子だ。私は何何に属しているんだ」、

そうやって勝手な「私たち」を名乗り傲慢になってしまう。

イエス様も当惑されたと思うのです。何も分かっていないヨハネ。

この後主イエスを裏切り逃げ出していくヨハネが、

「あの人は私たちの味方。あの人はそうではありません」

とイエス様に替わってあたかも選別作業をはじめたのです。

そういうヨハネの姿を戒めながらイエス様は、

50節「あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です」

と言われた。この言葉はどうでしょうか。

イエス様は「私たち」と言ったヨハネに対して「あなたがた」と返された。

「あなたがた」とイエス様がおっしゃる時に、

基本的にはそれは弟子たちのことを指している訳です。

その中にイエス様は入っていない。

そうすると、この言葉の響きとしては、

ヨハネが「イエス様、彼らは私たちの仲間ではありませんよ。

あんなことしているんですから」と言ったのに対し、

イエス様は「それはあなたがたの話しだよね。私はそんなこと知らないよ」

と突き放したような「あなたがた」に聴こえる。

けれども、恐らくイエス様がここでおっしゃったのは

そういうことではないのです。

並行個所のマルコ福音書を調べますと、興味深いことに

このイエス様の言葉を「私たちに反対しない者は、私たちの味方です」、

そう記されている。イエス様はヨハネの「私たち」という呼びかけに

呼応するように、イエス様は「私たち」とおっしゃりながら、

その上でヨハネの過ちを戒めてくださっている。

そうであるならば、ルカ福音書が記している「あなたがた」という言葉は、

イエス様が自分の名前を語る弟子に不快感を示されて

「あなたがた」と自分を除いて語られたのではない。

恐らくここで「あなたがた」とあえて記した聖書記者ルカの意図は、

やがてイエス様が天に帰られて後、教会を建てあげていく

弟子たちを指して「あなたがた」と記したのではないかと思うのです。

やがてご自身は目に見える形では弟子たちと共に居られなくなる。

その時に教会を建てあげていく弟子たちへの教えとして

「あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方だよ。覚えておくのだよ」

そう教えてくださっている。

そして、彼らの建てあげていく教会は、イエス様がご自身の御名を置く場所、

ご自分の体、ご自分の花嫁。ご自身と一心同体と認めてくださった場所です。

そうであるならば、ここでイエス様が「あなたがた」とおっしゃった、

その言葉は自分と無関係と突き放しているのではなく、

むしろ私と一心同体の存在として「あなたがた」とおっしゃってくださった。

つまりマルコが記している通り、実質的な意味としては

やはり「私たち」という言葉だったのです。


まったくイエス様のことが分からない。

自分の愚かさも罪も分からないヨハネが、勝手な正義心で

イエス様の名を語り、自分たちをあたかも一体であるかのように

「私たちの敵、私たちの味方」と言う。

でもそのヨハネが語った「私たち」という言葉を

イエス様は否定されなかった。受け入れて肯定してくださった。

イエス様は、やがて自分を裏切るヨハネを「そうだ、お前は私の味方だ」

と認めてくださったのです。


そうした時にどうでしょうか?

直ぐ怒りだすかんしゃく持ち、欠点の多い無学なヨハネ。

これから、イエス様を置いて逃げていくような弱さを抱えた人間。

そのヨハネが、確かに今、イエス様の弟子の一人と認められ、肯定されている。

この事実にヨハネ自身が気が付いた時に、彼はもう誰がイエス様の味方なのか、

敵なのか、自分では分からなくなるはずなのです。

この時のヨハネが、その後自分が辿る無様な裏切りの姿を

目の当たりにしたら、きっと言ったでしょう。

「こんな自分はイエス様の味方などではあり得ない。弟子ではありえない。

こんな男はイエス様の敵だ」、

そうやって自分自身に絶望せざるを得なかったはずです。

でもイエス様はそのことを全部ご存じで、ヨハネを

「私たち」と認めてくださっていたのです。

ここでイエスの名を語った者を排除したヨハネの視点では無い。

何も分かっていない自分を仲間と認めてくださった

イエス様の眼差しの中でヨハネは救われ、そして立ち直っていくのです。

その時にはイエス様がここでおっしゃった言葉

「あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です。」

という言葉の意味が良く分かったのではないか。

自分のようなものがイエス様の仲間として認められるのだから、

あの人もそうなのではないか。この人もイエス様の仲間ではないか。

イエス様はヨハネにおっしゃっておられる。

「そうだ、あなたは私の仲間だ。私はあなたと一つだよ。

私とあなたが一つになっているのだから、あなたが一つになれる者、

あなたがたが一つになれる人ももっともっと沢山居るはずだよね。

考えてごらん。お前が排除したあの人たちには本当に望みが無かったのか。

私たちの仲間になれる可能性は無かったのか」、

そう問いかけてくださっているのです。


怒りというのは自分が変わることを拒否する姿、

ただ一方的に相手が変わる事だけを願う思いです。

あなたが私と同じようにならないなら、あなたの存在は否定されるべきだ、

こういう思いがいつもヨハネを雷の子にしておりました。

しかしながら、真の正しさをお持ちであったイエス様でさえ、

ご自身の正義を怒り押し通すことは為さらなかった事を、

私たちは忘れてはならない。

ですから、私たちは「お前のようなものは教会の仲間では無い。

キリストの弟子では無い」そんなことを言ってはいけません。

イエス様は、私たちが変わることが出来るようにと、怒るのではない。

まずご自身が変わってくださった。

すなわち、神のお姿を捨てて人間となられたのです。

イエス様が変わる必要など一つもありません。改めるべきは私たち人間です。

でもイエス様は、私たちが変わることが出来るようにと、

まずご自身が変わって下さったのです。

イエス様がそうであるなら、ましてや私達人間はどうでしょうか。

自分の些細な正しさに酔って、人の弱さにかんしゃくを

起こすような事ではいけません。

相手が変わることが出来るように、私たちが変わらなければいけない。

私たちもイエス様の大らかな心を身に着けるのです。

私たちを受け入れて下さった、私たちのために

栄光ある姿を捨てて下さったイエス様の愛による大らかさをです。

私たちが、自分の気に食わない人を、キリストの名によって

排除するような心を止めなければいけない。

そしてその人たちを「私達」と呼んで、私たちの仲間として招いていく、

その望みを十字架のキリストゆえに頂いていく信仰を養うこと。

イエス様が私に向けてくださった「私たち」を、

今度は私たちがこの場所に広げていくのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


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伊豆夢(イズム)こと

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1.誰が偉いのか

前回は山上の変貌の後に起こった弟子たちの不信仰を嘆かれる

イエス様のお言葉を学びました。

弟子たちはイエス様に自分たちの理想を重ね、

自分たちの願うメシヤ像を求めました。

神の道を歪めようとする不信仰、それに対してイエス様は

真っすぐに神様が備えられた十字架の道を進んでいかれる。

そのことを9:22において最初の受難予告として表明され、

そして前回学んだ44節でもう一度おっしゃった。

「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。

人の子は、いまに人々の手に渡されます」、

2度目の受難予告。

それなのに、続きます今晩の46節で、

イエス様の言葉とはあまりにもかけ離れた、

イエス様と対極にある会話を弟子たちはしていたというのです。

46節「さて、弟子たちの間で、

だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。」

愕然とするような弟子たちの姿です。

イエス様はすでに二度受難予告を為さった。

それでも弟子たちは、イエス様を自分たちの願う

政治的なメシヤ・王として見ることを止められない。

ここに現れる弟子たちの問題は、偶像礼拝の心です。


偶像礼拝と聞くと、私たちは何か形作られた

神ならぬ異教の神を拝む罪と思いますが、

本質的にはそういうことに留まらない。

イエス様は真の神である。

ですからイエス様を礼拝していたら、私たちの礼拝は

真実だと考えるのですがそうとは限らない。

イエス様の中に自分の願う神を投影し、自分の願う神を

押しつけるのであれば、それもまた偶像礼拝です。 

弟子たちは政治的メシヤ・キリストがエルサレムに王として立つ時、

その時には自分たちも右大臣・左大臣になれるという

打算を持っていたのです。では、12人の中で誰が筆頭に立てるのか。 

イエス様が、自分たちの思いと違う言葉を発すれば発するほど、

それを打ち消すようにして自分たちの願い・思いを声高に語ろうとする。

そうやって彼らの「偉くなりたい」という虚栄心が突出してきて、

ついにはそのことによる口論が始まるほどになっていました。


そういう弟子たちの姿を「どうしようもない」というのは簡単でありますが、

一方で彼らは呆れるほどに素直だったというだけのことかもしれない。

私たちは人前で決して「誰が一番偉いか」などと口にする事は致しません。

それがいかに醜いことかを知っているからです。

しかし、口には出さずに自分が相手よりも自分が偉いことを

暗に主張するようなことを幾らでもするのです。

「あの人が挨拶をしなかった。あの人が私にこんな言い方をした。

どういうつもりか」そういう不満を影で幾らでも呟く私たちは、

やはり「誰が偉いのか」そのことへの執着を持っているということ。

この世は相対的な世界です。

結局人と人を比べ合うことでしか自分を認識することができない。

ですから、あの人よりも自分が偉い、

そのことが自分の存在価値を確かめる上で欠かせないことである。

神様と私という関係性を失った人間の現実です。


そういう弟子たちに対してイエス様は

47節から「しかし、イエスは彼らの心にある考えを知り、

一人の子どもの手を取って、自分のそばに立たせ、彼らに言われた。

『だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに

受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。

また、だれでもわたしを受け入れる人は、

わたしを遣わされた方を受け入れるのです。

あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。』」


ここで興味深いことにイエス様は、弟子たちの

「偉くなりたい」と言う議論を否定されません。

逆に「そうですか。本当にあなた方が偉くなる事を望むのだったら

こうしたら良いですよ」とイエス様はお答えくださるのです。 

偉くなりたいと思う気持ちを否定する必要は無い。 

しかし、一つイエス様が注文を付けられるのは、

偉くなるとは如何なることかを勘違いしてないで下さいね、

そこを間違えてはいけないということです。


このところで訳されている「偉い」という言葉は、

「大きい」と訳することができる言葉です。

神様が私たちに与えて下さった偉さ、大きさとは

どういうものかを良く考えなければなりません。 

イエス様はここではっきりとおっしゃっています。

「あなたがた皆の中で一番小さい者が、一番偉いのです。」

偉さ・偉大さとは、こういうことだよとおっしゃる。

一番小さいものが一番偉い。一番小さいものが一番大きい。

なぞなぞのようであるけれども、これは主イエスのことを考えれば

一番よく分かるのです。

キリストの状態。謙卑と高挙と呼ぶのでありますが、

イエス様は貧しくなられた。全能の神のみ姿を捨てて人となられ、

善と悪を区別される律法の付与者でありながら自らを律法の下に置かれ、

十字架で犯罪人として殺され、さらに神の光の届かないよみにまで下られた。

そのようなキリストを神は高く上げられた。

低さの極めにまで至られたキリストであるからこそ、

ピリピ2:9-11
「それゆえ神は、この方を高く上げて、

すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、

地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、

『イエス・キリストは主である』と告白して、

父なる神がほめたたえられるためです。」


そのことを今度はパウロは夫婦関係に当てはめて教えています。

エペソ5章。5:22
「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、

自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、

ご自身がそのからだの救い主であられるように、

夫は妻のかしらであるからです。」
 

現代社会の中では、すぐさまこのような言葉は問題になります。

夫は妻の頭であるから、夫に従いなさい。

けれども、もちろんそこで、この言葉が差別的に

理解されるのであれば問題なのですが、

イエス様のお言葉の本質をまず冷静に学ぶ必要があるでしょう。

「頭である」とはどう言うことなのか?

キリストが教会の頭であられる事と同じだと、

パウロはここではっきり述べています。

 キリストは教会の為に、人間の為に、自分の栄光を

全てお捨てになられた。貧しさの極みにまでおもむかれました。

このように、頭であるともっとも貧しい者となり、

相手より低くなることであると聖書は教えているのです。

私があなたの頭になる、これはあなたが立っている所よりも

私は低い場所に降ります、ということ。

夫は妻の頭になることによって、妻よりも貧しくなる。

小さくなる。黙って妻の為に十字架を担うのでなければいけない。

そう言う夫に、妻もまた従いなさい、仕えなさい。

あなたより下にあって仕える夫を、これ幸いと踏みつけてはいけないよ。

そう言う夫に、今度はあなたも仕えるのです。

これはまさに、愛し合い、仕え合うように、と教えて下さった

イエス様の言葉そのものであります。




2.「一番小さい者」

イエス様は、こう言うことを話されて、一人の幼子を抱き寄せられます。

48節「彼らに言われた。『だれでも、このような子どもを、

わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。』」 

現代では、少子化の影響もあって子どもの存在が

時に王子様・お姫様のようになるわけですが、しかしこの時代は違います。 

食べるにも困る貧しい庶民の生活の中で、

子どもはしばしば手間のかかる厄介な存在。

子どもの人権などという考えはありません。

半人前なのだから、権利も価値も半分。これが当たり前の価値観。 

ですから必ずしも子どもに限定されて理解されるべきではありません。

現代であるならば、例えばイエス様が抱き寄せられたのは、

幼子ではなく逆に高齢者、寝たきりになった方、

障害者、そういう社会的弱者であったかもしれません。

その証拠に48節の後半をみますと「子ども」と言う言葉が

「一番小さい者」という言葉に変わっていく。 

ここでは、時代背景の中でもっとも弱い・小さいものであった

子ども達が代表として選ばれます。 

けれども必ずしも子どもだから聖いとか、

子どもだから心が美しいとか、そういうことではない。

子どもにも歴然として罪がある。

むしろ大人のような知恵が無いだけに、子どもの内にある

罪というのは生々しく現れてくることがあります。 



私達の教会は幸いなことに多くの子どもさんたちとの

関わりが与えられています。

子ども達の生活に関わるというのは良いことばかりではありませんで、

色々な子どもたちがおりまして、時には本当に悪い子というのが居る訳です。

しばらく前に教会に通っていたお子さんの中に、

悪さばっかりする子がおりまして、学校でも有名な悪い子で、

ですから教会に来ている他のお子さんの親御さんが

「あの子が居るなら教会に行ってはいけない」と言われてしまう。

どうしようかと悩みました。

その子が居るから教会に行かない、行けない、というお子さんが

本当に出てきてしまって、何が良いことなのかと。 

例えばピアノ教室の時に私の目を盗んで他の子どもを脅したりするのです。

あるお子さんの様子が変だなと思って別の部屋で話しを聞くと、

もう怯えていて、よくよく話しを聞くとその子が

「私の親はヤクザだ。私の言うことを聞かなかったら、

あなたの親が大変なことになる」と脅して、

子どもですからビックリして震えあがっている。

それで私もカンカンに怒って怒鳴り合いの大喧嘩をして…。


 とんでもないことだと思うのですが、

でも案外私たち大人も同じようなことをする。

相手が自分の思い通りになるようにと、

面と向かって脅しはしないけれども、

相手が逆らえないように暗に自分の力や権威を見せつけて

人をコントロールしようとする。

そういうことは大人の社会で日常茶飯事でありましょう。 

でも子どもより知恵があるし力があるので、

そういう自分を見せないように誤魔化せる。 

それは老いということも同じかもしれません。

自分の素を隠すための知恵や能力、自制心が無くなったときに

その人の問題が生々しく見えてくる。

介護ホームで認知症の方々と関わっていると、

自分の要求を満たすためにあらゆる手段を使います。

泣き出す方、大声を出す方、部屋に閉じこもる方、

怒り出す方、演技する方、本当にいろいろです。

そういう方々の姿を見ながらやれやれと思っていたとして、

しかし私達との違いは、そういう内面にある色々な問題を

表面化させない知恵や力を持っているかどうか、ただそれだけである。 

子ども達よりも、お年寄りよりも巧みに生きる知恵を持っている、

ただそれだけのこと。


 イエス様はそう言う意味での「小さい人」を抱き寄せて、

このような人を受け入れるなら、あなたは私を受け入れたのです

とおっしゃっている。 

イエス様は、最も社会的に弱い立場の人を、疎んじられている人を、

ご自身の腕に抱き寄せられている。これは強烈なメッセージです。

「私はこの人と共にある。私はここにいる」という宣言です。

5:31ですでに私たちはイエス様のお言葉を学びました。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、

悔い改めさせるために来たのです。」


イエス様はご自身を医者だと言われた。

そして医者を必要とするのは病人だ。

私は病人の所に行く、当たり前のことではないか、

そうおっしゃられたのです。自分を病気と認めない。

医者などいらない、病気ではない。

自分で何とかできる。いつも食べているこれで元気になれる。

そう言っている人のところにイエス様はおられない。

イエス様を必要としていないからです。 

小さいもの、弱いもの、自分を隠すすべを知らない者。

そこにこそイエス様は「あなたのために」とおっしゃって、

その人の弱さを罪を小ささを覆ってくださる。

それは十字架の業によってであります。

どうして「偉くなりたいなら、一番低い場所に下りてきなさい」

とおっしゃったか? 

イエス様が、一番低い所におられるからです。

そう言う人とはイエス様が共にいて下さるから、

だから偉大なのです。


 先程お話しした、悪さばかりするお子さんとは今も繋がっています。

立派に社会人になられました。

「教会で先生に怒られていた頃の自分のことを

思うと本当に恥ずかしいですよ、先生ごめんなさい」、

と話してくれるのです。

そして、何か困ったことがあると

「神様に昨日お祈りしました」と、そう話してくれる。

そういう彼女の姿・成長に接しながら、

イエス様はこの子の中に確かに居てくださるな、

そのことを実感しているのです。

イエス様は確かにこの子のために十

字架にかかってくださったのだなぁと思うのです。

そして、自分はこの子ほどに、イエス様の十字架の力を

頂いているのだろうか。

イエス様無しに自分を偉くしたい、大きくしたい、

そういう思いにとらわれてはいないのだろうか、

そのことを考えるのです。

3.イエス様がおられる場所


まだ私が牧師になりたてのころ、

加藤常昭という牧師のセミナーで

我々若い牧師達が問われたのです。

「あなたたちには、自分が仕える教会の中で、

その底辺がどこにあるか見えていますか。

教会の底辺がどこにあるか、そのことを見極められるようになることが

あなたたちの最初の勉強だ」そう言われた。

そして「それが分かったら、あなたたちがどこに立つべきか。

教会の中での牧師の立ち位置は自ずと見えてくる。

牧師は教会の底辺と思えるその場所に寄り添うものでありなさい」、

これは忘れがたい教えでありました。 


底辺と思えるその場所にイエス様がおられる。

そして、実はそこにこそ私たち自身がいる。

普段は会うことのできない、普段は誤魔化すゆえに失っている自分自身。

それは見たくない、認めたくない、否定したい

自分であるかもしれないけれども、でも紛れも無い自分自身。 

わがままを言う老人、悪さばっかりする子どもをみて

感情を抑えられなくなる。

でもそこに居て許せない相手の姿の中に自分自身が居る。

だから、私たちは怒るのです。

しかし、そうやって本当の自分、見たくない認めたくない

自分と出会うその場所には、イエス様がいてくださる。

イエス様と出会える場所にこそ自分自身がいる。 

私達は、私達の周囲にいてくれる「小さい人」を通して、

本当の自分に出会い、そして本当の自分を愛してくださる

イエス様に出会い、そこでようやく神に愛される自分の大きさ、

その不思議を知ることができるのです。 

罪の増し加わるところにこそ、恵みが満ち溢れるからです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。