ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。
この火曜礼拝ブログは
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川奈聖書教会・火曜礼拝における
山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり
オリジナルの説教とは多少、
異なることをご理解下さい。
■「死を避ける者と死に囚われた者」ルカ8:26-39
1.縛り付けている鎖と暴力性
嵐に襲われたガリラヤ湖上での物語を先週は学びました。
ようやくのことで向こう岸についた一行、弟子たちは
恐らく一睡もしていなかったと思われます。
けれども、ボンヤリと眠気眼ではありません。
彼らが着いた場所はガリラヤ湖の南東の方向、
イスラエルから見るとヨルダン川を挟んで東側に当たる
デカポリスと呼ばれる地方です。
この地域は異邦人、異教徒の住んでいる場所でありましたから、
ユダヤ人が日常的に足を踏み入れる場所ではない。
当時のユダヤ人の異邦の地に対する警戒心は
並々ならぬものがありましたので、緊張感を持って
弟子たちは足を踏み入れていったことでしょう。
そのような弟子たちの緊張をいよいよ刺激する
出来事が早速待ち受けておりました。
26節
「こうして彼らは、舟で、ガリラヤの反対側にあるゲラサ人の地に着いた。
イエスが陸に上がられると、その町の者で、
悪霊につかれている男がイエスを迎えた。
彼は長い間、服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいた。」、
悪霊につかれた男が出てきた。
この男は衣服を身につけず、墓場に住み着いていたというのです。
聖書はこの男が悪霊の働きとだけ書いております。
29節を見るとこの男は鎖や足かせで繋がれていたとあります。
でもそれを断ち切ってしまう。
つまりこの男の狂暴性、暴力性が暗示されているのです。
そもそもなぜこの男は墓場に住み着いていたのか。
墓場とは言うまでも無く死者の葬りの場所です。
命尽きた者が葬られる場所。
その場所を住処にするという事は、
自分自身の生を否定していることの現れ。
自分が死者に加えられることを願っている。
町で人々と共に命を喜ぶことを拒否している。
他の福音書を見ると、この男は夜昼と無く墓場や山で叫び続けていた。
悲鳴です。自分に命があることの悲鳴、生きることへの絶望、
そんな思いに取りつかれた男が主イエスの前にあらわれるのです。
色々な問題が地域・社会・家庭にも起こりますが、
暴力の問題というのも決して珍しいものではありません。
しばらく前にお母様に連れられて一人の女性が
相談にいらしたことがありましたが、
やはり混乱すると暴力を振るわれて、
ご家族に危害を加えられたりお家の中の物を
めちゃくちゃにしたり為さるということで、
最初お母様が相談に来られ、次にはお嬢様と一緒にお出でになりました。
お母さんが「あの子は小さい時から剣道を習っていたのでとても強い」
とおっしゃるので緊張します…。
ただ一概には言えませんが、多くの場合暴力の問題を
お持ちの方というのは、そもそも自分が抑圧され、
自己の主張を許されなかった方が多いと言われます。
そこで抑圧されてきた本当の自分を現わすために、
押さえつける人の手を暴力を振るってでも振り解こうとする。
この悪霊につかれた男は自分の命を呪いながら
墓場に住み着いておりました。
そういう男を町の人々は鎖で縛りつけようとしたようです。
墓場に住み着くことを止めさせようとしたのです。
しかしそういう町の人々の押さえつける力を、
縛り付ける鎖をほどいてしまう。
墓場に住みついて奇声をあげる、このような男が居たら
私たちも恐ろしいと思うでしょう。
この物語はルカ福音書以外にもマタイ・マルコ福音書に記されています。
そのどこを読んでも、この男自身が人々に危害を加えるような
暴力性を現している箇所はありません。
むしろ丁寧に読んでいった時に分かることは、
この男の暴力性というのは彼を押さえつけ・縛り付けようとする
人々の力に対する抵抗・反発としてだけ出てくる。
これは聖書の非常に丁寧な観察だと思われます。
家庭内で見られる暴力というのもほとんどこのようなものであります。
積極的に親に殴りかかるのではない。
本人(子どもと言って良いでしょう)にしてみたら、自分を押さえつけ、
本当の自分を閉じ込めている親の手を何とか振り解いて
自分を解放してあげたい、それだけなのです。
相手を傷つけたい訳でも殺したい訳でもない。
ただただ、自分のことを押さえつけるその手をどけて欲しい。
自分ががんじがらめにされてきた見えない鎖、
人の狂暴さに対する抵抗としての力であります。
けれども抑えつけている方は、自分が縛り付けてきた
鎖があることが見えないので、
「この狂暴な人間をどうしたらよいか」となってしまう。
親も先生も子どもが少しでも暴力的になると、
直ぐに「警察だ・子どもにも罰を」と騒ぐのですが、
そう言いながら現代の社会が・親が・大人が
暴力的に子どもを縛り付けている鎖には目が向かないのです。
この男も同じであります。別に町の人々に危害を加えるつもりは毛頭ない。
ただ自分は墓場に居たかったのです。
みなと同じように命を喜ぶのではない、死を恋い慕い、
死者と共にあることを望んでいただけ。
ですから、この男の好きにさせておけばよかったとも言える。
どうして町の人々はこの男を捕まえて鎖で繋いだり押さえつけたり、
ということをしたのでしょうか?

2.「死」という圧倒的現実の前に
「悲観論」の思想家ショーペンハウエルが言いました。
「この世界は考えうる世界で一番悪い世であるゆえ、
人間にとって一番いいことは生まれてこなかったこと。
その次にいいことは早く死ぬこと。一番悪いのは長生きすることである」、
こんな言葉誰も聴きたくありません。
今私たちは現に生きているのだから、「生きていることが一番不幸だ」
そんな思想聞きたくない。
ニヒリズム・虚無主義が言うこともやはり絶望です。
「どんなに頑張って生きても、どんなに正しく生きても、
豊かな財を得ても、私たちはやがて死んでいく。
虚無、結局この世の一切には意味も無く価値も無い。」
やはり聞きたくないような言葉。
せっかく生きているのだから、生きていることが
有意義であってほしいと願う。
自分の命は、人生には、これまで経験した苦労には
みんなが意味があると信じたい。そんな否定的な言葉は聞きたくない。
この町の人々の思いも似ていたかもしれません。
命を呪い続けるこの男。
生きていることを最大の不幸と思い墓に住み着いているこの男。
生きていることが不幸だ。死こそが幸いだ、
と死を慕って墓場に住む男の姿を見ながら、
町の人々はこの男が住み着く墓場が自分たちと
無関係ではないことを思い知らされるのです。
いつか自分たちも死ぬ。その時には自分も、
この男が住み着いているあの場所に居ることになる。
その現実が嫌だから、そんなことを考えたくないから、
だからこの男を鎖で縛りつけてでも墓場から連れ出そうとしたのです。
ある人が言いました。
「人間の希望とは繰り返しの中にある。
今自分が体験していることを“もう一度体験できるに違いない”
と信じる思いの中に生きる希望が生まれてくる」、
例えば美しい桜の花を見ている時に、
来年もまた桜の花を見ることができると信じることが希望になる。
逆にどんなに美しい花を見ても、もう二度と見ることが出来ない、
これが最後だということではその花から希望を得ることはできない。
私たちの人生には、必ず行き止まりがある。
もう繰り返すことができなくなる最後がある。
そしてこの男が住みついていた墓場に自分の体が納められる時が来る。
この事実はどんな人間にも突き付けられていて確率は100%です。
そういう現実の前で私たちはどのように生きるか?
人間には二つの方法しかない。
一つは、この悪霊につかれた者のように絶望する。ペシミズム・ニヒリズム、
「どうせ何をしたって最後には皆消えて無くなる。
それなら一生懸命生きることなんて愚かしい。
生きていること事態が空しい。命があることが最大の不幸。死こそが幸い」、
そういう生き方。
もう一つは、この町の人々がそうしたように、
人生の墓場を示すその場所を避けて、
いつか繰り返せなくなる命の終わりがあることを誤魔化して、
終わりなんか考えずに生きる生き方。
人間にできるのはこの2つのどちらかである。
イエス様が救い主としてお出でになり、
そして異邦の地デカポリスにまで足をお運びになれたのは、
このような人間の二つの生き方とはまったく異なる
救済の道を用意して下さったということなのです。
28節「彼はイエスを見ると叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。
「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。
お願いです。私を苦しめないでください。」
イエス様の登場にこの男にとりついていた悪霊たちが騒ぎだした。
この男から自分たちを追いだそうとするイエス様に対して、
どこかに自分たちの行き場所を作って欲しいと頼むのです。
そこでイエス様は悪霊たちの願いを聞き入れ、
32節「ちょうど、そのあたりの山に、たくさんの豚の群れが
飼われていたので、悪霊どもは、その豚に入ることを
許してくださいと懇願した。イエスはそれを許された。
8:33 悪霊どもはその人から出て、豚に入った。
すると豚の群れは崖を下って湖へなだれ込み、おぼれて死んだ。」、
イエス様は悪霊を豚の群れの中に入らせた。
すると、死の悪霊にとりつかれた豚は湖に突っ込んでみんな死んでしまった。
実に不思議な出来事です。
これまで私たちが学んできたように、
主イエスが人々を癒したり解放することは、
手軽なことではありませんでした。
イエス様が人々の様々な痛みをお癒しになられる時に、イ
エス様は人々の痛みをご自身の身に担われる。
消えて無くなってしまうのではなくて、
イエス様が受け取ってくださる。
そうやって私たちの痛みを担われたイエス様の行きつかれた場所が十字架であった。
しかしこの時主イエスは、ご自身の身にこの男の痛みを
負われるのではなくて豚の群れに悪霊を負わせられた。
この土地には豚飼いが多くおりました。その人々にとって豚は貴重な財産。
全財産。つまり、イエス様は豚の飼い主達に、
この男の悪霊を追い出すその代償を払わせたのです。
唯一の収入源であった豚が、この男が悪霊から解放され、
正気にかえる為に犠牲とされたのです。
主イエスはここで、あえて豚飼いたちに犠牲を払わせたと思えてなりません。
彼らは同じ町の人々です。この男と共に生きていくべき人々。
彼らは全財産を失いました。
この男が正気に返るために、自分たちの唯一の収入源を失ったのです。
しかしそのことによってこの男が、生きることへの絶望から解き放たれた。
自分の命を喜び、人々共に町で生きる人生を回復したのです。
もし自分たちの全財産を犠牲にすることによって、
一人の人が生きるのならばそれは幸いなことではないか。
しかし町の人々は、この幸いに目が向かなかった。
向かなかったばかりか、自分たちの財産が失われたことに心を奪われ、
37節「ゲラサ周辺の人々はみな、イエスに、
自分たちのところから出て行ってほしいと願った。
非常な恐れに取りつかれていたからであった。
それで、イエスが舟に乗って帰ろうとされると、」
一人の男の人生の回復のために、街の人々が財産を失った。
これは不条理なことなのか、それとも幸いなことなのか。
私たちならどう考えるのか。
けれども、この男が悪霊から解放されたのは
この男一人だけの恵みではありませんでした。
この男のために、街の人々が犠牲を払った、それだけのことではない。
すでに学びましたように、死への絶望に取りつかれていたのは、
墓に住み着いた男だけでは無かったからです。
何気ない日常の生活を送っていた人々もまた、
彼の目の前に立ちはだかる墓場への恐怖に取りつかれていた。
ただ彼らはそこから目を逸らすこと、考えずに
済ませる生き方を身に着けていただけ。
先程ペシミズム・悲観論について触れました。
命があることこそが最大の不幸。
実はこのような発想は、私たちが心の病を負い
鬱的に鳴った時に考えることと酷似していると言われます。
私自身が心病む方々との関わりの中でふと感じることは、
今様々な事情で心病んでらっしゃるこの方と、
今たまたま健康な心で生きられている私と何の違いがあるのだろうか、
そういう風に考えることがあります。本質的には何の違いも無い。
ただ私の方が要領よく世の中を生きられるだけではないか。
この人の方がよっぽど真剣に、真面目に、現実を直視して生きている。
だからこそ、疲れ果ててしまっているのではないか。
そういう思いをさせられることがしばしばあるのです。
実際その通りでありましょう。
3.主イエスの招き
イエス様は言われました。マタイ福音書25章で言われました。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、
これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、
わたしにしたのです。」、
この御言葉はマザー・テレサの献身の御言葉であり、
また彼女が生涯を通して支えとした御言葉でもありました。
“貧しい物、小さい者の中に主イエスがおられる。
私はこの人たちに触れることで主イエスに触れているのだ”という信仰。
そうして彼女が認めた小さい者とは、
インドのスラム街、路上に捨てられ死んでいく人々でありました。
どんなに手当てしても、大切にしても、生き返る訳ではない。
100パーセント数日後には死んでしまう路上生活者たち。
そういう方々を死の直前に愛すること、尊ぶこと。
それは墓場で終わらない、そこに永遠の命の道を備えて下さった
主イエスへの信仰なくして為すことの出来ない業であると思います。
そのようにして、墓場にうずくまる者の友になることで、
その人に恵みを施せるというだけの話しではありません。
そうやって、墓場にもたらされた救いを現すことによって、
私たち自身が墓場から甦られた主イエスの恵みに
生かされていることに気がつき、喜べるようになるのです。
この世界には確かに死の力に絶望している方々と、
死の力から逃避することを力にして生きる人々と、二種類の人間がおります。
そこで私たちがどのようにしたら健やかな魂を得られるのか?
それは主イエスの福音によって始まる。
その福音の力が具現化される為には、
墓場に生きる者と、墓場を避ける者が共に生きることを学ばなければいけない。
慰める者と慰められる者という関係ではありません。
教える者と学ぶ者。助ける者と助けられる者。
憐れみを受ける者、犠牲を払う者。そういう関係性では無い。
慰めを与えることの中で逆に慰められる。
慰められることの中で逆に慰めを与える、
そのような共に生きる関係の中にこそ救いがある。
それゆえに、イエス様はこの男の癒しのために、
街の人々が犠牲を払うようにと導かれたのです。
豚飼いたちはこのことによって多くの財産を失ったでしょう。
その日から彼らの食卓は貧しくなったかもしれない。
けれどもその貧しい中にある一切れのパンを食することに喜びが溢れる、
これまで当たり前と思えていた生活の様々な事柄が光り輝いてくる、
そのような人生を真に生かす霊の糧。
もはや墓場を恐れる必要が無い人生に招かれていたのです。
しかし、彼らはその主イエスの招きを拒否し、
墓場を避ける生き方の中に留まることを選択したのです。
私たちはどうでしょうか。
「着る物が無い。食べる物が無い」、
そうやって私たちは直ぐ不満を言うけれども、
実際には洋服ダンスには洋服が一杯。
冷蔵庫には食べ物が一杯。
ただ、着たい服が無い、食べたい物が無い、それだけです。
もしあなたが日々を生きる望みを得るだけの豊かさを持っているならば、
その豊かさを望み無き人々の為に捧げるよう召されていると思って下さい。
そうやって望み無き人々と共にあることの中で、
私たち自身が主イエスの与えたもう望みの喜びに生かされるのです。
大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。
Peace, Love and Understanding
今、ここにある幸いに感謝しよう。

