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私の産土神社は、砥鹿神社(里宮)の末社「荒羽々気神社」です。

本宮山に砥鹿神社の奥宮があるのですが、奥宮にも末社に「荒羽々気神社」があります。


どちらも御祭神は大己貴命の荒魂ですが、アラハバキ神社なのでアラハバキ神との関係を探ってみました。

謎が多いアラハバキ神。色んな記事から抜粋しました。


http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-1743.html?sp

熊野は一般的には「くまの」と読んでいますが、しかし、和歌山県の御坊市の熊野神社の熊野は「くまの」ではなく「いや」と読ませています。

「いや」といえば揖夜神社という出雲の最古社があります。

主祭神はイザナミで、他にオオナムチ、スクナヒコナ、コトシロヌシといいます。

つまり、「いや」=イザナミと考えられます、ここに奉納されるワラで出来た蛇は「アラハバキ」と呼ばれているのが面白いですね。

出雲族の本当の最高神は大国主命ではなく熊野大神(クナト大神)であり、大国魂神社の鴉団扇と熊野三山の鴉のいずれも熊野大神に源を発するといいます。

鴉は徐福末裔を示す暗喩だと語り部はいいますので、クナト大神と深いつながりがある?


http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-1682.html

安芸の宮島にも弁才天が祀られていますが、この弁才天はアラハバキ神(女性原理)信仰を禁止された先住民族が替わりに祀っている神なのです。

豊川という非常に水と縁の深い地にアラハバキ神が祀られていると考えるのは納得がいきます。


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大和朝廷に竜蛇信仰を禁じられた出雲族はそれまでの「アラハバキ姫神」と「クナト大神」を信仰する代わりに「弁才天」と「不動明王」を裏信仰としたが、これは弁才天は出雲系の宗像三神のイチキシマ姫と習合されていたからだといます。

註 イチキシマ姫は宗像大社の中津宮という島に祀られる。

厳島神社の祭神ともなっており、「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとされている。

後に仏教の弁才天と習合された。


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出雲系に属する邇波氏ですが、出雲ではクナト大神が本当の最高神、真の祖神だといいます。

これは熊野大神、道祖神、塞(幸)の神、辻の神とも呼ばれる存在だといいます。

倶知安のアイヌ酋長・菊池俊一夫妻が語るところでは、アイヌの古語でクナトは「男根」、アラハバキは「女陰」の意味であり、本来一対のものだったといいます。

このことから大縣神社・田縣神社で男根・女陰を祀るのは、実は出雲系の神である「クナト大神」や「アラハバキ姫神」を祀っていたのではないかと推測されますね。


http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/952505f81f00be0d805ea43aec0e41b8

アラハバキの信仰は弥生時代のごく初期、あるいは縄文時代のごく終わりの頃に渡来したものである。

そしてその原点が南アラビヤのヤマン地方にあり、アラハバキの語源は最高の神の意味である。

古代アラビア語の「アラハバキ」からきている。


かつて、中山太郎氏は「アラハバキ神は天孫族が、我が国に渡来する以前に、先住民族によって祭られた神、すなわち地主神である」という鋭い指摘をしたが(日本民族学②大和書房)

それ以上の追求は出なかった。


もっと遡って考えましょう。


南アラビヤからインドへ

南アラビヤからインドに入って住み着いた一団は、その後アーリア系の侵入で森林広野に住んでいたので「アーラヴィ」(林住族)と呼ばれたことが、紀元三世紀のインド・マウリア王朝の宰相カウテリアの著書「実利論」に出てくる。


インドから中国へ

アラハキ神はシルクロード経由で雑密僧によって中国西北部の?奴に入った。

中国本土では三世紀の三国時代(220~280)西域の雑密僧によってアラハバキを含むプレ雑密僧文化が「呉」に入り江南を中心として中国全土に広がった。

8世紀の唐代(618~907)

密教教典の訳出が行われた。

この時代には、音写ではなく義訳による漢訳教典が続々と現れて、「元帥」「大元帥」の形になって行きました。


この漢訳教典は宮廷に設けられた内道場で、?命により秘訳されたということは、皇帝以外には行うことが許されない秘法であったことを物語る。

この時点でアラハバキ神の性格は護法神から国家鎮護の「大元帥明王法」として皇帝独占の秘法へと変わった。

(通常大元帥明王は「帥」の字を読まず「だいげんみょうおう」とよんでいる)


中国から日本へ

9世紀になると中国で漢訳された密教経典や道教と習合した大元帥明王法は遣唐使により日本へもたらされることになった。


空海は真言密教の開祖であるが、梵語・ペルシャ語・アラビア語にも通じ、はるかインド、さらにはアラハバキの原点に指向していたのです。

古代信仰のアラハバキがインドから中国に入り大元明王に変身して皇帝独占の秘密法となったのを見逃すはずはなかった。


当時、仏教は国家仏教で庶民とは縁遠い宗教であったが、渡会氏が外宮を大元尊神とする教理を打ち立てたのと同様に、仏教に組み込まれて外道に落とされたアラハバキ神の本流への復活が狙いだったのでは無いだろうか。


政府間レベルの中国との遣唐使による国友の他に物部氏系や古代アラハバキ信仰を持って弥生初期に渡来した古氏族は、独自のルートをもって中国と交流があり道教と習合した「大元」を知っていたとしなければなるまい。


アラハバキと神社

弥生の初期に渡来した部族の最高神アラハバキの信仰も「記紀」の影響や仏教による変容で、すっかり影をひそめ江戸時代には、何神であるかは不明になってしまった。

わずかに古代氏族が王権の抹殺をのがれるために密かに今日までその伝統を守り続けた。

かろうじて文献のみその名をとどめるか、あるいは、末社で密かに生きつづけるのにすぎない。


神社や寺院にはアラハバキの名こそ消えてしまったが弥生文化といえば稲作と同時に製鉄の始まりであるからアラハバキ神は製鉄とも密接な関係があることを無視できない、草鞋、鉄製下駄を供えたり、目の神様になっていたり、習俗から見て元の神が変容していることを示す、例が数多く発見できる。

それから、多くの本殿や本堂ではなく、末社・摂社に追いやられているので注意したい。


【島根県】 出雲大社の境内末社に門神社二社があり、出雲大社資料館の彰古館には寛政8年(1668)作成の古社図が展示してあり、門客人社と記載されている。


八束郡千酌の爾佐神社の境外社・荒神社は、通称「お客さん」とか「まろとさん」と言われ、「アラハバキさん」と呼ばれていました。


https://www.ubusunajinjya.com

アラハバキノ大神さまとは?


4万5千年前に巨門星から飛来した神であり、伊勢や出雲の地主神です。

ニギハヤヒノ大神さまとともに”ムー”の主神で、日本神話以前の太古の神(地球のトップ3)です。

「荒(アラ)」や「坪(ツボ)」「平(〇〇だいら)」のつく神社や地名、また草履が奉納されているお社などは要チェックです。

古来、この神さまをお祭りするお社は3000社ほどありましたが、現存するお社は少なくなりました。 

お近くの方は、参拝され「ご開運」を祈られると、たいへん喜ばれるでしょう。 


近年の研究では、日本人の遺伝的系統がわかってきました。

アイヌ(北海道)と琉球(沖縄県)が《縄文タイプ》で、本州・四国・九州が、弥生系渡来人と縄文人の《混血》ということです。

この縄文タイプ(日本の土着民族)がお祭りしていたのが「アラハバキノ大神威さま」です。

 

実は、この神さまは伊勢神宮だけでなく、出雲大社の摂社や美保神社、武蔵国一の宮・氷川神社、武蔵国総社・大国魂神社など、日本な重要な神社に【隠れ神】としていらっしゃいます。

特に、東京都や埼玉県にはたくさんお祭りされていた伝承があります。(江戸城内にもあったようです!)

 

そろそろ私たち人類は、一番働いてくださっている裏方さんを正当に評価する時が来ているようです。

それが【産土の大神さま】であり、【アラハバキノ大神威さま】なのです。