前回に、「キリストは、私たちの連帯保証人なのだ。

を書いた後で、ふと思い出した。

 

シスター渡辺和子さんが、神様と人の関係を、

請求書と領収書にたとえて

お話をされていた箇所があったなあと……

 

どこに書かれてあったけと探して、見つけました。

 

 

渡辺和子さんの遺作『どんな時でも人は笑顔になれる』より。

 

神様へのお願いが、叶ったり叶わなかったりする件。

それについて語られた一節に……

 

 

 ”請求書の宗教”でなく”領収書の宗教”を持って生きてゆきたいと思います。「ください、ください」と欲しいものをやみくもに願うことが真の祈りなのではありません。

 「たしかにいただきました。ありがとうございました」と、神様のくださるもの一つ一つを、しっかりいただいて感謝する”心”こそを、私たちは真に祈り求めるべきなのでしょう。

 

 

「請求書の宗教」でなく「領収書の宗教」を持つ。

 

なるほどなあと、あらためて思いました。

 

神様に、クレクレちょーだいとおねだりばかりするのは、「請求書の宗教」。

年がら年中、神様に請求書をつきつけてるだけなんですね。

 

しかし神様との関係において、

本当に請求書をつきつけられるべきは、

私たち人間の方ですよね。

 

まず、私たちは、神様から命を与えられている。

 

その命の対価を神様に請求されたとして、

私たちはお支払いできるか?

ぜったい無理ですね。

 

命以外にも、神様がお造りになったものを、

私たちは当然のごとく気ままに使って浪費して奪い合って、

しかも際限なく「おかわり」を要求する。

 

そして「それを造ったのは神ではない、私だ」と主張したり。

自分が造ったとは言わないまでも、

人間の権力者や、神の代理人を自称する宗教者を神としたり。

「宇宙」や「ナントカ意識」など、

まことの神ではないものの手柄にする。

 

スピリチュアルでは、

「私の波動がすべてを引き寄せている。

 宇宙のすべてのものは私の潜在意識が創造している。

 神とは外部の何かではなく、私たち自身が神なのです」

などという。

だから願いが叶うも叶わないも、自己責任だという。

 

こういう、まことの神に背く

恩知らずな生き方に対して発行される請求書を、

「罪」というのでしょう。

 

ヤマト言葉では、「罪」は「積み」と同じだという説があります。

神様に対する背きが積み重なっているのが「罪」だと。

 

一人ひとりの郵便受けに、

神様からの請求書がツミ重なっている。

 

人間の力で、神様からの請求に応えるのは根本的に不可能です。

私たちは、自分が霊的に破産してることを受けいれるしかない。

 

霊的破産者である私たちの「ツミ/罪」を

すべて引き受けてくださったのが、

救い主イエス・キリストなわけですね。

 

前回記事に書いたとおり、

神の子イエスが、私たちの連帯保証人として、

イエスの命をもって、私たちの「罪」の支払いをすべて済ませてくれた。

 

 神に対して、人は兄弟をも贖いえない。

 神に身代金を払うことはできない。

 

 魂を贖う値は高く

 とこしえに、払い終えることはない。

 

 ……しかし、神はわたしの魂を贖い、

 陰府(よみ)の手から取り上げてくださる。

 

 ――旧約聖書 『詩編』 49編8、9、16節

 

 

 

渡辺和子さんは、「領収書の宗教」を持ちたいと語ってます。

 

 「たしかにいただきました。ありがとうございました」と、

 神様のくださるもの一つ一つを、

 しっかりいただいて感謝する”心”こそを、

 私たちは真に祈り求めるべきなのでしょう。

 

神様に請求書をつきつけるのではなく、

 

ことあるごとに感謝の領収書(感謝の祈り)をお渡しする。


たしかに、それが人間にできる最善なのだと思いました。

 

神様への領収書(祈り)のフォーマットは気にしなくていい。

 

規定のフォームでなければ無効だなんて、

神様はそんなケチなことはおっしゃらないはずです。

 

神様にお渡しする領収書は、

収入印紙も押印も不要でしょうから。

どんなささいなことでも気軽に領収書をお渡しできますね。


渡辺和子さんは、「感謝する心を祈り求める」ともおっしゃってる。

 

悲しいことに、もともと人間の内には、

神様に感謝する心がないんですね。

 

自分が持っているものは、自力で獲得したものだと思ってるから。

自力で獲得したのだから、自分で好き勝手に使っていいのだとも。

 

自力で獲得したように思えるものが、

実際は神様が与えてくださったのだと気がつくためには、

それに気がつくための感性を、神様に与えてもらうしかない。

人間の努力、修行、メソッドからは出てきません。

 

だからイエス・キリストも、

私たちが神様に祈り求めるべきは、

「神の国と神の義」であり、「神の聖霊」なのだと、

語っているわけですねえ。

 

私は神様に、ずっと生活費の収入源を求めています。

占い業を辞めて以降、ひたすら貯金を崩して倹約生活してます。

 

教会への献金は神への捧げものであり、経済的祝福の基というから、

洗礼を受けてから半年間、生活予算の十分の一以上を献金しました。

しかし経済的祝福とやらは得られず、

貯金と体重と生気が減っただけでした(食費を削って献金していたため)。

 

私の経済状態がいつまでこうなのか。

貯金が尽きたらホームレスになる……

という不安が今もずっとあります。

 

しかしまあ、落ち着け。

 

世間は世間、私は私。

神様は、一人ひとりに最善の御計画をもっていらっしゃる。

 

「神様への領収書」というアイデアをとりいれるならば。

 

今の私に与えられているのは、「長期休暇」だとわかる。

今は生活費を稼ぐ時期ではないらしい。

 

どうして私の願うもの(収入源)は与えられないで、

願っていないもの(長期休暇)が与えられているのかは、わかりません。

 

しかしここらで、神様に「請求書の祈り」をするのはやめて、

「領収書の祈り」をできるようになりたいと思いました。

 

渡辺和子さんに見習おう。

 

 求めてもいないものが与えられた時には、

 謙虚にいただこう。

 なぜそれが与えられたのかは、

 いつかわかる。

 

 『どんな時でも人は笑顔になれる』

 

 

本当に困窮していて、いますぐ緊急に何かが必要な人には、

それが今すぐ届けられるようにお願いします。

 

しかし、私のように、「無い、無い」と言いつつ、

なんだかんだで今日も生きてるような者には……

 

いま神様が与えてくれているものを、

神様のものだと意識して受け取れますように。

そしてその意味を理解できますように。

贈り主である神様に感謝をお捧げできますように。

 

 

そういや、この本も、私が買ったのではなく、

教会のご婦人が譲ってくださった本です。

 

いただきものの御本を、久々に開いて、

あらためて神様の御心を聞かせていただいたことに感謝。

 

 

今朝の朝食。

半額免除してくれた神様に感謝(* ´艸`)

 

私は有形無形のいただきものに囲まれて、

今日も生かされております。

ありがとうございます。

 

 

 

 

 

※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』
 
※ イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 

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