*Happy Memory* -16ページ目

いったいどっち? 

どっちかな

庭にある1.5mぐらいの木に赤い実が生りつつあります。

8月は虫がひどくつき、この木は青い実をつけたまま、ダメになってしまうのではと思うほどでした。

実によく日が当たるように、上の方をかなり切ってしまいました。


さて、この木の名は庭梅と聞いていたのですが。

夫はうめもどきだと言うのです。


調べてみると、庭梅はバラ科の落葉低木。


高さ1.5~2m 白か薄紅色の小さな五弁花。実は1cmほど。咲いたと思う。

うめもどきはもちのき科の落葉低木。

山地に自生する。葉は梅の葉に似る。冬、葉が落ちた後も小さな赤い実をつける。

雌雄異株。


しかし、うめもどきとしてもこのまま冬まで赤い実をつけたままなんて、考えられない!

冬になる前に、ムクドリみたいな鳥がきて、ついばんでしまうもの。


冬まで持つわけがない!ふん。 

憎まれ口をきいて、別々の部屋で同じ番組を観るのでした。


つづきはまた


        

どうすることもできない!

無力な私

左 窓側から                     庭に出て

今朝の5時、窓を開けたら、なんと蝶が。慌てて、携帯で写した。

逃げないなと思っていると、羽根を広げたので、庭に出で、見ると、なんと

羽根が右半分、欠けている。

 

う~ん、これは修理できないな~。

飛べるのかな。どうしたらいいの。捕獲してもね~。


TV体操をし、食事が終わって庭に出たら、いない!飛べたんじゃないの。

よっかた、よかった。 止まっていたバラの蕾にはぽっかり穴が。ありゃぁ~


つづきはまた



仏教の葬式

                 

母の葬式  この一角に我が家の墓地があります。


命は儚いものだと思う。昨日で実母が他界し、ちょうど半年すぎた。宗派は浄土真宗西本願寺派。

檀家の寺は昔、貧乏寺であったようだ。僧侶の家族は本堂に住まいし、居宅を建てるときも、世話人

をしていた祖父は尽力した。その功績で祖父母は法名に院を贈られた。

「お宅は先祖が院だから」と僧侶の言葉で、母も院になった。ただし贈られたのではない。


故人の意思は反映されないと言っていい。母は神経を使う人だった。身の回りは綺麗にしておきたいし、

人の喜ぶ顔が好きだったので何でも与え、自分は何も残さない。高級ではないがおしゃれが好きだった。


急死だったので警察官から事情を聞かれ、自宅に戻って来たのは翌日の朝。先方で検死の後着せられた

浴衣1枚で、北枕に安置された。なんと思うだろう。このざまを。自分の処遇を。

思うと悲しみより腹立たしかった。


死んでしまうと霊として畏れられてのことだろうと思うが、故人に対して、哀悼の意が薄いように思う。

いや、気持ちがあるのだろうが、露にされないのかも知れない。

執り行う僧侶や葬儀屋にしても、参列する縁者にしてもだ。

しかし、葬式はこれでいいのか、本来の在り方と違うのではと疑問が湧く。


そこで開祖であるお釈迦さまのことを知りたいと思った。文献もわからないのでPCで検索した。

難解だったが下記文章は葬儀屋さんのHPから引用させていただいた。比較的わかると思う。


知りたかったのは死後の世界があってそには霊となった個性があるのかどうかということだ。

でなければ戒名や法名を付けて、しかも金額で決められた身分はなんの意味合いがあるのだろうか。


ぼったくりなどというのは不謹慎なのだろうが、寺院への布施は高額過ぎないだろうか。

しょっちゅう人は死なない。品物のようには行かないから商売としたら、高額になるのだろうか。


祖父が寺の世話人の頃、私はまだ子どもだったが、お寺のために、何度かの寄付をした。

最近は斎場を建てるときにそんな話があったと思う。だから私は絶対檀家にはならないと思っていた。


流れ作業のような時間での葬儀、「参列者が多いから焼香は一回にしてください。」と式場では言われた。

宗派は一回きりのしきたりだからよいが、遺族まで一緒くたの扱いが情けない。事務的だ。


少なくとも、お寺は檀家にたいして、今、どのような事をしてるか、しようとしてるか、時々は

知らせてもいいのではないか。

駐車場を広げて、「これがうちの売りなんで」という坊主、だんだん腹が立ってきた。


以前に、死んだ時に着るドレスをオーダーされた方の話をTVで観た。葬式に対する考え方も変わって

きたようだ。なにせ、葬式は仏教で、暮れはクリスマス、正月は神社へ。いったいこれでいいのだろうか。

そうそう、葬式から帰ってきたら玄関でお清めの塩をまくのは、神式なんですってね。


下記の文章よかったらお目を通して下さい。矛盾もあるようですが、もともと霊はないらしいし、おどろおどろしたものは

ご免こうむりたい。今月、20日が彼岸の入りですね。  つづきはまた

 
  死後の世界<生き返ることのない極楽浄土へ>
 
 
 
輪廻のない世界へ
 
●仏教も「輪廻転生」を受けついでいます。死後、人は死後の旅「中有(ちゅうゆう)・中陰(ちゅういん)」(死んでからつぎに生まれ変わるまでの中間存在:49日間)をへて、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人(じん)・天(てん)の六つの世界、六道(りくどう)にわけられ、生まれ変わります。

●どの世界に生まれ変わるかは、生前のおこないが善行か悪行かによってきまります。これを「因果応報(いんがおうほう)」といいます。この「因果応報」の鎖(くさり)をたちきるには、「輪廻のない世界=浄土(じょうど)」にいくしかありません。この方法をおしえるのが仏教です。
 
●ただし、この教えは、仏教を説くまえの道徳的方便(ほうべん)または、仏教の大衆化をはかるもので、死にたいする浅い考えだといわれています。
 
 
死後を考えるのは、観念の遊び
 
●本来、仏教では霊魂の存在をみとめず、生も死もありません。釈迦は弟子のマールンクヤに死後の世界について質問され「今すべきことをせずに、わかりもしないことを考えるのはやめなさい」と教えています。
 死後の世界はあるか、ないか。有か無かとの問いに、是(ぜ)とも非(ひ)ともこたえないのです。こうした観念の遊びは苦悩の解決や人間の救いに役立たないという意味です。

●釈迦は、死をまじかにして、弟子たちにこう語りかけています。
「弟子たちよ、わたしのおわりはすでに近い。別離も遠いことではない。しかし、いたずらに悲しんではならない。世は無常であり、生まれて死なない者はいない。今わたしの身体が朽(く)ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示しているにすぎない。」

「弟子たちよ、今はわたしの最後のときである。しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、こわれることはやむを得ない。仏は肉体ではない。さとりそのものである。肉体はここに亡びても、さとりは永遠に法として生きている。だから、わたしの肉体をみる者が、わたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそ、わたしを見るのである。」
 
 
無常、無我を悟れば、苦しみを断つ
 
●これらの言葉は、釈迦が人間の肉体の死を、生・老・病といったほかの現象とおなじく、単なる自然現象、つまり諸行無常(現象するものは、すべて生成消滅し、永遠不変ではありえない)の世のなかに生ずる一つの変化として考えていたのことを明示しています。

●「わが身体を見ては、その汚れをおもって貪らず(欲しがらず)、苦しみも楽しみも共に苦しみの因(もと)であるとおもってふけらず(心をうばわれず)、わが心を観ては、その中に”自我”はないとおもい、それらに迷ってはならない。そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。」
 このように説いた釈迦にとって、生・老・病も苦にはならなくなり、悟りをひらいて仏陀となったのです。
 
 
仏教は霊魂をみとめない
 
 諸行無常であるからこそ、必然的に諸法無我(すべての事物は我(永遠不変の本質)をもたない)であり、いま人間として存在しているわたしたちは、無数の因縁によって仮に存在しているにすぎません。それがこわれたときに肉体の死がおとずれますから、死後の世界にまでも、永遠に存在しつづけるような我(個としての実体)や霊などはありません。
 
 
輪廻転生と無我の矛盾
 
 この霊が存在しないとの考えは、輪廻転生からの解脱の方法を「梵我一如」、アートマン(我)を形成する霊魂と絶対真理のブラフマン(梵)と一体化する知力にもとめたヒンドゥー教とは、するどく対立します。葬儀においても、火葬を神聖な儀式ととらえるヒンドゥー教にたいして、仏教は葬式や法事といった儀式とは、特別な関係はありませんでした。むしろ、釈迦は出家修行者は葬儀にかかわるなとたしなめています。ヒンドゥー教にとっては、仏教は来世を信じない異端の教えでした。
 
 
日本仏教は霊魂信仰
 
 しかし、日本仏教の葬儀や法事にかんする考えにも、故人の死後の世界での冥福(めいふく)をいのり、故人にたいする祖霊供養を表現する儀式としてとらえられています。
 これは一つに、出家信者には、実践をとおして無常・無我の真理をさとるように説いたのにたいして、在家信者には修行のかわりに施しをし、戒(かい)をまもれば天界にいけるという、解脱をもとめる「我」を示したために祖霊をまつる信仰がのこったものと考えられます。
 
 
仏教、儒教、神道などがミックス
 
 もう一つは釈迦入滅後、教団は修行にはげむ出家者が救われる小乗仏教(釈迦は人間で、自力でさとりをひらいた35才以上の釈迦しか崇拝しない)と慈愛の心を核とした庶民救済の大乗仏教(宇宙真理である仏陀が、人間である釈迦に姿をかえて真理を説く)に分裂し、中国に伝わった大乗仏教が儒教(霊肉二元論)をくみこみ、その中国仏教が日本に伝来し、日本の霊魂をおそれる民族信仰や神道と融合していった経過のなかで祖霊供養が儀式化されていきました。
 なお、仏教圏の国では、仏陀が入滅後に在家信者の手によって荼毘(だび)にふされた故事にもとづいて火葬にする場合が多いようです。
  
 (参考:死とはなにか/大法輪選書、仏教早わかり百科/主婦と生活社、仏事・仏教の基礎知識/講談社、上手な死に方/毎日新聞社、世界の諸宗教/晃洋書房)



重曹生活真っ只中 



久しぶりの重曹 写真は朝作ったクリームクレンザーです。


今日はキッチンで実践したことを中心に書きます。重曹と酢と石鹸が必要です。

ナチュナルクリーニングと呼んでいます。略してナチュクリ。


換気扇はファンは汚れがひどいようなら、クリームクレンザーを使います。パックのように塗って

おくと、クレンザーが黄色から茶色に変わってきます。


仕上げに2%の酸濃度にしたビネガー水(酢を水で薄めたもの)をふりかけます。重曹は乾燥すると

白い粉が残りますのでビネガー水で中和します。シュワシュワ泡が汚れを落としてくれます。あと、水洗。


換気扇まわりは重曹を溶かした水で(重曹水)拭くだけでとても綺麗になります。

最初落ちないな~って思ってもしばらくして2度拭きすると、びっくりするほど落ちます。


シンクはスポンジかアクリルタワシなどに重曹を振りかけて磨くだけで綺麗になります。汚れのひどい時は

クレンザーで。


グリルは重曹粉を振りかけて水を張っておけば、そのまま洗えて魚汁の嫌な匂いもなく花まるです。

お魚だけでなく、焼き茄子、トーストもできるし、今までお魚焼くのがイヤッだった方、試しにやってみて!


冷蔵庫の中の普段の掃除はビネガー水で拭き取り掃除をします。抗菌効果があります。特に汚れがあれば

重曹水で。このあとはビネガー水で中和(リンス)して水滴を拭き取って下さい。


ガスレンジはレンジ台がまだ暖かいうちにビネガー水をスプレーして、拭き取ります。フライパンなどで魚を

料理したら、少し水を張り、重曹の粉を振りかけて置けば、食事中働いてくれますので、後片付けが

らくになります。


電子レンジは フーフー。庫内が暖かいのがいいのね。重曹水でもビネガー水でも蒸らした状態で

拭き取り掃除をします。こびりつきは繰り返し掃除して取ります。長年の汚れいっぺんにはね。(^^;)

ビネガー水は魚などのにおいなど消臭にも効果的です。部屋にスプレーしてもよし。


ああ、まだまだある~。 いちど綺麗にしてしまえば、汚さなくなるってものよ。質問お受けします。


つづきはまた




病気しない食生活 

普段の食生活で心がけたいこと



個人情報が重視されていますが、まだまだDMや電話も来ますね。

しかも、どこでどのように調べるのか、顔のしわ、しみとりに始まり、関節に良いサプリメント。

そして公開するのも恥ずかしいのですが、尿漏もれしないショーツなどがやって来る。

下着もレースのヒラヒラなら許せるってものよ。ね~

食生活について心がけたいことで、いい記事がありましたので、まとめてみました。

①穀類はなるべく精製されていないものがよい。玄米や全粒粉パンなど。
  手作りのパンは美味しいですよね。「よくこんなまずいもの売るわね。」って手作り
  してた頃、市販のパンを軽蔑しました。今はそれに甘んじています。(;_;)

②砂糖類も精製されていないものがよい。黒糖が良い、よい、よい。
  ダイエットデザートに書きました。黒糖はアルカリ食品です。おいしい!

③旬の野菜、豆、豆製品、海藻類は毎日食べる。
  出来上がった味噌汁に寒天を入れるだけでもヨシ。これなら続けられますね。

④肉類、卵、魚、乳製品は脂肪分の少ないものを選ぶ。
 血液の酸性化や脂質の増加にならないよう控えめにした方が良いらしい。

⑤油は加熱しても酸化しにくいオレイン酸主体のオリーブ油や菜種油がよい。
  話題の脂肪がつきにくい油が出回っています。使用量にも気をつける。

⑥加工食品、食品添加物の入ったものは避ける。
  有害物質の体内への蓄積を避ける。

⑦よくかんで食べる。
  消化吸収を促し、食べ過ぎを防ぐ。
  前菜として寒天を食べましょう。お腹にもグッド。 写真は青海苔を入れた前菜寒天です。
 
  つづきはまた


改行しても反映されないのはなぜ?