(1)早く死にたいと毎日言われれば
高齢者の支援というのはもはや家族に頼ることが出来ない。そこで生まれたのが「地域で面倒を見る」計画であり、それを具現化したのが介護保険制度である。その制度は今年で25年を迎える。
私も今まで老々介護のご家庭は何件も担当してきた。幸いにも殺人に至るケースは経験したことは無いが、人によってはそれだけ介護というのが人を追い詰めるものである事は間違いないことだと思う。
「早く死にたい」「死んだほうが楽」というのは高齢者の常套句だが、裏を返せば「生きていることが辛い」という事だ。このケースでは違うかもしれないが、そういう人は多い。それを毎日聞かされていれば、その気になってしまうというのも理解できる。
(2)十分に生きたという人は
今まで担当してきた人を眺めてみると、心穏やかに天寿を全うしたという人は何人もいる。家族に看取られた人もいれば、一人で亡くなっていたという人もいる。
そういう人はどういう人だったかといえば、おおむね穏やかな人だったという印象が強い。
おそらく身体の痛みや痒みというのはあっただろう。しかしそういう事に対しても文句も言わず、家族からあれこれ言われても言い返さずという、全てを受け止めていた人だったと思う。
もしかしたらそういう場面になる前には文句ばかり言う人だったのかもしれない。しかしそういう場面になれば死を受け入れている、場合によっては観念しているという事かもしれない。
それを言葉にすれば十分に生きたという事なのだろうと思う。
そう考えると、「早く死にたい」「死んだほうが楽」という人の言葉は聞き流すべきことなのだろうとも思う。先にも述べたとおり、「生きていることが辛い」という事なのだろうが、それを解消するすべはない。あの世に召される瞬間を待つしかないのである。
それは自分自身への挑戦の時間かもしれないし、人生を振り返る時間かもしれない。
私自身で言えば、まさに今がそうである。
寿命で死ぬ場面では無いが、十分に生きたという気持ちはある。だから気持ち的には穏やかである。
(3)怒りの炎は自分を焼き尽くす
しかしそういう人ばかりではない。そういう気持ちに達観するには人生の納得というか、そういう心境にたどり着くゴールがある。「早く死にたい」というのはこの苦しみから逃れたいという、まだ気持ちがあるのかもしれない。
それを思うのは個人ではいいだろうが、聞かされる方は辛いし頭に来る。
つまりはそういう「頭に来る」ことをどのようにフォローしていくかという事なのだろうと思う。
怒りというのは炎を例えられる。
私は怒りという炎は自分を焼き尽くすものだと思っている。かくいう私も怒りっぽい性格だが、そういう怒りの炎を消す消火栓はどこかに欲しいと思っている。
介護者はそういう怒りの炎を消す消火栓の役割も担うべきだ。