介護のプロ | ケアマネ時々卓球、時々その他

ケアマネ時々卓球、時々その他

仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

(1)介護のプロ、という言葉の裏には

事例紹介。90代女性。相談者はこの女性の孫の嫁(仕事はケアマネ)。要介護認定を受けていない。日常的には近所に住む娘(相談者にすれば義母)が面倒を見ている。先日、転倒にて圧迫骨折し入院。病院食は食べないわ、リハビリはしないわで、「なんでこんなところにいなくちゃいけないのか」と常に文句を言っている状態。それでもそばにいて欲しいらしく、義母が毎日お見舞いに行っているとの事。それで孫である旦那から「ケアマネなんだから介護のプロだろ」と嫌みを言われているとの事。

 

私も「介護のプロ」と言われることはたまにある。

良い意味でとらえるなら、この人がついていてくれるから安心だという事。悪い意味では、介護のプロなんだから何とかしろだったり、プロの目から見てどう思うか、という何とも返事に困るような問いかけがあったりする。

 

一般人にとって「介護のプロ」であるケアマネはどのように映るのだろうか。

 

こういう事を言って来る人は「介護という面倒なことを押し付けても大丈夫な人」と思われているという感覚で入る。私個人の話であるが。

 

(2)何がしたいか分からない人の対応

この事例はコメントにもある通り、この女性がどうしたいのか?という事が入り口になる。しかし私の親がそうだったように、子供に面倒を見てもらいたいという希望があったとする。子供は仕事をしていて、四六時中面倒を見ることが出来ない。プライベートの時間もある。人によっては仕事を辞めて介護をする人もいる。

 

確かに人生の流れで言えば、親は面倒を見なければならない存在である。だから子供は自分の意思に反しても、親の面倒を見なくてはならない、というのが子供の価値観から来るものなら悪いとは思わない。

 

しかし親が子に仕事を辞めて自分の面倒を見ろ、というのもある。それが子供の意に沿わない時は、つまりは親の意に沿うことも出来ないという事だ。

 

そうすると、いくら提案されても妥協できるものがあれば良いが、そうはならないだろうと思う。つまりは介護状態になる人はかわいそうな弱い人なんだけど、それを盾に「すべてを捨てて私の面倒を見ろ!」というのは弱い人のすることではないし、悪く言えば弱者ビジネスみたいなものだ。

 

(3)介護のプロというのは

このケースに限らず「介護のプロ」というのを焚きつけてくる人は、ケアマネは高齢者について何でも知っているという期待があるものと思う。

 

確かにケアマネは一般人よりは多くの高齢者を見て来たし、それに対する対応をしてきた。そういう意味では経験値は一般の人よりは高いという事は言える。

 

そこでよく聞かれるのが症状から来る対応である。

おそらく物忘れが多くなったり、判断がおぼつかなくなっていることを目にして、薬で治せるのではないかという期待もあるのだろうと思う。

 

しかし忘れっぽくなったとか、怒りっぽくなったからと言ってもそれがイコール認知症と言うことにはならない。たくさんの高齢者を見てきたから経験で分かるだろうと言われても、性格の範囲を出ないんじゃないかというのもたくさんある。

 

それに「どうしたいのか?」と聞いても、答えを持ち合わせていない人には答えようがない。だから介護が必要になったとはいえ、介護サービスにつなげるためには相当時間をかけて説得した人も少なくない。

 

要はプロだからと言って即刻うまく行くわけでは無いし、ケアマネの資格でもって水戸黄門の印籠のように解決するアイテムにはならないのだ。

 

まあ、それだけ介護というのは面倒なものだという事の表れではないかと思う。