(1)人の生き死にをたくさん見てきたが
大学を卒業してから高齢者福祉の仕事をメインに行ってきた。どれだけの人と接してきたか分からない。通算で30年近く接していれば相当な数に上るだろう。
20代の時に勤めた施設では、生活指導員という職種であったが、収容された高齢者の管理人という性格が強かったと思う。養護老人ホームという性格上、介護に疲れてというよりは行く先が無い人が多かった。だから入所してからその人の人となりを考慮した援助計画などは形だけのものだったし、何よりも施設で問題を起こさせないという事の方が優先された。
在宅介護は20年くらいになる。それは制度が介護保険になって、施設から在宅へという方向転換の元、民間企業として仕事が出来るようになったからだ。施設に勤めていた頃は、在宅の高齢者というのはどんなものだろうと思っていたが、制度が出来、介護保険によるサービスが出来たことによって選択肢が増えた。
個人的には一時期民間企業に勤めた事、そして自ら起業したことにより高齢者は「収容された人」から「利用者」であり「お客様」という意識も強くなった。
だから今はケアマネージャーという仕事を、更に言えば併設事業所を持たない独立した私が考える理想な形で行えている。そういう理想な形で余裕をもって利用者に接することが出来る環境であるが、自分がどれだけ寄与で来たかは改めて考える必要はあると思っている。
(2)自分が正しかったいう気は無いが
在宅の仕事をして20年以上だが、その間も多くの利用者を見送った。家族が「お世話になりました」という挨拶をくれるが、自分のプランや対応が正しかったのかと都度考える。
しかしおそらく答えが出るわけでは無い。
それは利用者の希望、思いがそのまま実現できるとは限らないからだ。
在宅介護というのは一人暮らしでも看取りまで行う事は可能である。実際にそういう人を多く見てきた。
しかしその過程において、十分な支援が出来るかと言えばそれは難しい。24時間誰かがいるという状況を作るには介護保険の支給限度額では足りず、費用も相当額に上ると思われる。
仮に自費でヘルパーや付き添いさんを雇っても、その人が本当に信用できるか、など疑い出したらキリがない。
だから「家族の介護力」がある程度無いと、在宅での看取りまでは難しい。それでも出来たのは亡くなる直前まで動けた人。結果として在宅で看取ることが出来たという事だ。
それでも住み慣れた家で往生を遂げたのなら心残りは無いというならいいのだけれど。
(3)恐れず現実と向き合えるか
私の利用者で、町内会長を務めるような立派な人がいた。その人はガンになり、結果亡くなるのだが、その過程で希望はありますか、どうしたいですかと聞いたことがある。しかし回答は「考えないようにしている」との事。そういう人でも死と向かい合い、現実に残す人が苦労しないようにするよう配慮するのは難しいという事だ。
だからと言って傾聴しなかったとか、利用者の意を汲み取れなかったという事にはならないだろうと思う。
というのも自分の意思を伝えるのも自己責任だと思うのだ。
それを聞き出せればそれに越したことは無いが、そんなに明確に答えられるような人は、最初からトレーニングされている。
それはエンディングノートを書くとか遺書を残すという事では無い。それは宗教的なものかもしれないし、「死」への向き合い方について学んだだけというのもあるだろう。いずれにしても考える余裕がある時に考えた、その機会があったに過ぎないかもしれない。
勿論、介護職の誘導で考えることが出来たというのもあるだろうが、それが介護職のスキルかと言えばそうではないと思う。
その人の生きざま、死にざまはその人自身が考える。その「死」というものを恐れずに向かい合えるか、どういう介護を受けたいか。そういう具体的なものをいかに現実化できるかはスキルだと思うが、家族の事情などでその希望がかなえられない時もあるから、それがスキルが無いと責任を押し付けられるのは違うだろう。