(1)実は児童関係の仕事を希望していた。
今は高齢者福祉のケアマネという仕事をしている私だが、実は児童福祉の仕事を希望していた。
このブログでも何度も触れているが、私の両親は教育熱心で、子供の頃から塾通い。友達を遊ぶことは少なかった。やりたい事はやらせてもらえず、塾通いしていた割には成績も悪く、受験も上手くいかず達成感もなく、という子供時代を過ごした。
生き生きとしている友達が羨ましかったし、いつも怒られている自分は生きる意味すらないと思っていた。
塾に行ったって、勉強が面白いわけではない。授業に集中も出来ないし、授業の邪魔をすることだってあったろう。そのクレームが親の所に来た時もあったようだ。
先生だって、こんな生徒は嫌だったろうと思う。こんな子供は先生としても受け入れられなかったはずだし、可愛げもなかったと思う。
それを自分目線で見れば、周りは誰も自分を受け入れてくれないと思ったものだ。そして自分は世の中に必要のない人間なんだという思いが膨らんでいった。本当に生きる意味を見いだせなかったい中学の頃、自殺を考えたこともあった。
そんな時に一人の大人に出会った。
その人が何をしたというわけではない。
しかしその人を見ていると、生きる意味があるように思えた。それは私の勝手な思い込みだったと思う。こういう人になりたいと純粋に思った。
それは、こんな私にでも生きる希望を与えてくれたという事だ。
(2)福祉の仕事は生きる希望
大学に入った私は児童養護施設でボランティアを4年間行った。たくさんの子供たちを接してきた。
児童養護施設というのは基本的に親がいない子供たちである。明らかに素行が悪い子もしれば、大人しい子もいる。子供なのに大人に気を使う子もいるし、無邪気に走り回る子もいる。
こう書くと「親が悪い」とか思われそうだが、個人的には誰も悪くない。そして誰もが起こり得る状況とも言える。
おそらく子供と別居する事を希望する親はいない。家庭崩壊しても、出来れば一緒にいたいというのが本音だろう。勿論、大変な子育てが出来ないという事情があるから預けるわけであって、決して嫌いだからではないと思いたい。
もしかしたら子供を出汁に金稼ぎする親は一定数いるかもしれない。望まない子供を育てなければならない、子供に向かって「あんたなんかいなければいいのにと吐き捨てる親もいるだろう。
それは誰が悪いというよりはそのような生き方しかできない運の悪さみたいなものもあるだろうから、その原因を探ることに意味は見いだせないかもしれない。いずれにしても子供たちが社会で生き抜けられるまっとうな生き方が出来るよう支援する事が望まれるのだ。
(3)福祉がビジネスになる違和感
児童施設のビジネス化は保育園をはじめ、児童館も民間が行うようになった。児童養護施設が事業廃止をするという事は放棄される子供たちが少なくなって、施設が必要なくなったというなら悪い事では無い。しかしこの少子化の中で行き場を失う子供たちが出るのは問題だろう。
最近は、夜遅くでも子供体がうろちょろしているのをよく見かける。親が注意しないのだろうか。
福祉の仕事をしていると、高齢者も児童も、やはり家庭の問題に行き着く。それをビジネスでやりくりするのは違和感を覚えるのだ。
行政側の経費削減とか、民間企業参入による競争力による業界の向上という美辞麗句はあるだろうが、やはり原点は非営利であると思っている。その業務内容の非営利差を営利法人が行うものだから違和感を感じるのである。