(1)この苦しみはいつまで続くのだろう
介護というのは子育てと違って終わりのない戦いである。
しかも介護というのは成功しなければならない。それは親への感謝とか、大事にしろとか、子供が犠牲になってもしょうがない、という他人の介護に口を出すという人があまりにも多い。
今でも少なくなったと思いたいが、親を施設に入れるとなると親不孝者と言われたり、どうして自分で面倒をみれないんだという誹謗中傷にもつながる。そしてそれは「アイツは介護放棄した」という無責任というレッテルを貼られる事にもなる。
介護をする人が出てきた時、「この苦しみはいつまで続くのだろう」というのが本音なのだ。
(2)家族の負担は二の次というケアプラン
ましてや兄弟がいる人は、なんだかんだ理由をつけて誰かに押し付けようとする。そして押し付けられた方は、介護を頑張ったからといって相続で有利になるとは限らない。死ぬ間際になって、急に介護に参加してくるやつもいる。ちょっとでも関わって、相続に有利になるようにしたいからだ。
ましてや介護する側になった時は、いくらでも負担が増える。
それこそ24時間、気持ちが休まる時が無い。そしてそれを誰かに話すと「皆、同じ経験をするから」という身もふたもない返事しか返ってこない。
それに最近のケアプラン作成もACP(アドバンス・ケア・プラン)といい、その人らしくというのが推奨されている。
だから自宅で、家族の世話になりながら生きていきたいというのは希望としてはそうだろうが、家族が負担になっていることまでは気を回さない。
(3)所詮、介護というのは無理がある
個人的に心掛けている事は、「多分ダメだろうな」とネガティブに考える事から始めている。逆に「こうすれば出来る!」と息巻いても、出来なかった時のショックは大きい。
だから私は無理なプランは作らないのと、一人暮らしや、家族の介護力が低い人にはある程度のレベルまで来たら施設入所を勧めている。
家族と言えども、負担になる事は所詮無理なのだ。その入り口に立たないから、理想にならない時にアタフタする。
こう書くと、在宅介護に否定的なのかと思う人がいるかもしれないが、家族の介護力があれば可能である。しかしそれは全員ではない。
そして介護サービスを十分に活用する事である。
いずれにしても介護する人と同居している家は負担はある。しかしいなくなった時に感じる喪失感があるのも事実である。生きていく事は難しいと思う場面でもある。