(1)一人で死ぬという事
以前、本で読んだことがある話。オリンピックに出た事のある方が老人となり、最終的にベッドで寝ている時に無くなったという話を読んだことがある。無くなったというのは、近所の人に発見されたのだが、その姿は穏やかで靴を履いたまま横になっていた。
また、仕事としても一人で亡くなっていた利用者はそれなりに見てきた。
人はいつかは死ぬものだから、何処で、誰に看取られて死ぬかという事を考えることはあろうかと思う。それに対しての評価は人それぞれだし、理想とするものは中々見出せるものでも無い。
そこは周りとのバランスを考えながら、「立つ鳥跡を濁さず」という死に方をしないと、自分勝手では残された人が後々迷惑することになる。迷惑掛けても自分が良ければ良いという人は、どうぞご勝手にと思うが、家族がいる人はそうもならない。そこは難しいし、死ぬときはそんなものだ、と思いながら死ぬのだろうと思う。
(2)「孤独」と「孤立」、言葉の定義
さて、そもそも「孤独」と「孤立」という言葉の違いは何だろうか?様々調べてみると、「孤独」とは感情、「孤立」とは状態を指すという意見が多い。つまり状態として孤立していないにもかかわらず孤独を感じることもあれば、全く友達がいない孤立した状態でも孤独を感じないという人もいるという事だ。
年を取ると自分が出来てくるせいか、「人は人、自分は自分」というものが確立されてきて、孤独を感じることが少なくなると言われている。
しかし、我々は子供の頃から集団活動の機会が多い。それに周りの人に迷惑をかけるなと言われながら育ってきた。そういう環境においては集団の中にいたほうが安心だし、自分を押し殺すというか自我を主張しないで大人しくしていたほうが波風立たずに済むという事もある。しかしそういう生き方は人が周りにいても考え方の違いから孤独を感じることがあるだろう。そういう見方をすれば、孤立していないのに孤独を感じるという事にもつながる。
そう思えば今の私は孤独を感じることは無い。
それだけ年を取ったという事か、自我が確立されてきたのか分からないが。
(3)一人で死ぬ
私の理想の死に方、というより未来予想図という事になろうが、誰に看取られるでもない死に方をするのだろうと思う。それを孤独死という死に方で処理されるかもしれないが、独り身である以上それはしょうがない。
というより、死に際は自分の人生を振り返っているだろう。
それは周りに誰かれいるとか関係なく、今までかかわってきた人や自分のやってきたことが走馬灯のように流れて、三途の川を渡ることになるんだろうと思う。
その時に思う事は、良かったと思うか、何かを恨みに思うか、はたまたこんなものかと割り切っているか、ベッドの上で寝ているのか、地面に倒れているのかは分からないが、そんな事を考えるんだろうなと思う。
私は一人で死ぬことになるが、それは孤独死とは言わないだろう。
