(1)介護という凄惨な戦場
介護という難題を突き付けられた時、それは予想よりもハードルが高く、更にはいつ終わるとも分からない。その間、あれこれと文句を言われ、場合によっては暴言・暴力も起こる。
自分、もしくは連れ合いの親だからこそ優しく、感謝をもって接したいところだが、一挙手一投足において目を離せないとなるとこれはストレスがたまるもの。ましてや部屋に鍵をかけたりするならば拘束扱いとなる。
だから介護を悪いようにとらえれば、やられるだけやられて、貰うものは少ないとか下手をすればないとかという事になる。さらに言えば、今まで何もしてこなかったきょうだいが、ここぞとばかりに口を出してきたり、相続の時に少しでも多くぶんどろうとする光景も日常だろう。
まず、介護というのはこういう事がありき、という前提で物を話さなくてはならない。決して美しい、温もりのある話ばかりではないのだ。
(2)ゴールドプランから介護保険、社会の変化
そのような介護だが、昔の複合世帯では主に「長男の嫁」が介護を担ってきた。それが時代を追うごとに少子化、核家族化、都市への人口排出が進み、高齢世帯の増加が進んでいった。そこで介護が必要な高齢者は病院に長期入院という、治療とは別の社会的入院の問題も顕在化していく。その様々な問題を解決すべく、ゴールドプラン(高齢者保健福祉推進10か年戦略)があり、在宅介護にかじを切ることになる。そして事業を民間にも許可する事で市場を活性化させ、その具体的な制度として介護保険が始まる。
つまり介護保険は、このような今まで家で面倒をみていた介護を社会で面倒をみるという方向に切り替えるものだった。それは日本の家庭という、伝統でもあり、そもそもこうあるべき、という既成概念を社会の制度を使って帰るという事にもなった。
しかし介護保険というのも思うようにいかなかったのだろう。
次代を追うごとに「家族で出来ることは家族で」という、介護事業所に丸投げできないように、給付制限も加わった。
介護保険サービスを使う家族は、自分が出来ることはやり、出来ない所を介護サービスを活用するという切り替えのできる人は有効活用しているが、何でも任せたいという人には物足りないものであろうと思う。
(3)大きな社会を進む?
記事のように家族の負担なく、ということは出来ないわけではない。それは税金をもっともっと高くして、在宅介護も施設介護もぶ厚くすることだ。
今、日本で税金や保険料の国民負担率は50%に迫ろうとしている。給料の半分を税金でもっていかれる時代だ。しかし介護をぶ厚くするのはもっとお金がかかるとするならば、その負担率は60%でも70%でもなるだろう。自分の給料の60%、70%を持っていかれる社会が今の日本に合っているか?という事である。
政治家の中には消費税を25%まで上げて、社会保障をぶ厚くすることで安心感が生まれると言った事を主張する人もいる。
断言できるが、消費税が25%になっても介護は変わらない。それは介護保険の歴史が物語っている。
隣の芝生は青いというが、税金が高く手取りがほとんどないが介護が充実している国と、手取りはそこそこあるが、介護については頑張らなければいけない国とどちらが良いか、という事だ。
要するに高齢者は厄介者ということだ。
特にメディアでは、高齢者よりも若い人にお金を使うべきという発言が目立つ。
それは一理あるが、高齢者は今までこの国のために、子供であるあなたの為に頑張ってきたのだ。やりたい事も出来ずに我慢してきた。それを体が動かなくなった今、社会からは厄介者扱いされて、死ぬまで我慢を強いられるような人生にさせてしまっても、若い人の為にしょうがないと思えるだろうか。
何か、色々な所で間違いが起こっている。
若い人の「自由」を大上段に振りかざせば、介護というのは間違いなく自由を奪う。
