(1)大きな政府VS小さな政府?
昔、社会科で習った「大きな政府」「小さな政府」という言葉。今でも分かるような分からないようなの実感である。それは実際に体験してみないと肌感覚として分からないものかもしれない。
そしてそれはどちらが良いというものでも無いだろう。人によって考え方は違うし、その恩恵に受ける人、お金だけ取られて損していると思う人とそれぞれだろう。それは究極を言えば、人が得をしていると思えば面白くなしい、そこで自分が損をしていると思えばなおのこと面白くない。
おそらく戦争で今日死ぬか、明日死ぬかという状況の人に福祉の話をしても全く意味をなさないだろう。
つまり福祉というものはある程度余裕ができたうえでの「こうあれば良いよね」という予想に基づく概念なのかもしれない。
(2)人の生き方に
日本の福祉は大昔はさておいて、戦後は児童福祉が喫緊の課題になっていた。
戦争で焼け出され、親もしに、行き場のない子供たちをどのように保護していくのか。そういう救済措置である。そして生活保護、高齢者福祉、障碍者福祉と福祉の幅を広げ、徐々に制度運用を変えながら今に至る。
それでも共通しているのは「人間としての幸福追求」であると思う。
それは人それぞれ違うと言ったら話にならないが、保護をされることで幸せになるのか、自立支援をしてもらうことで幸せになるのか、場面は違うものの、目指す場所は一つという事だ。
それは人として生まれてきて、人として死んでいく過程の中で自分の人生が幸せだったかどうかという事は国は違えど大なり小なり考えることだろう。それで不幸だと思えば来世は自分の思う幸せな人生を送りたいと思うだろうし、幸せだと思えば人生に感謝して眠りにつくことになる。
それは国や個人の貧富は関係ないかもしれない。
(3)生まれるだけで不幸?
記事の内容で「国が国民の面倒を見る代わりに、社会の負担になる生命を生み出さないでくれ、と言われるのと、国は特に援助はしないが、いろんな生命が自由に生まれ生きてくれ、と言われるのと、あなたはどちらに共感するだろうか?」(文中より)とあるが、福祉というのはそこかなあ?という疑問がある。
例えば障害を持って生まれてくる人もいれば、健常者として生まれても、将来犯罪者になってしまうこともある。
私の疑問というのは、そういう生まれただけで選別されるのかという事である。
なので曲解すれば、犯罪者でもテロリストでも、社会の負担にならないのであれば良いのか?というようにも捉えられる。
それに人に迷惑をかけても自分さえよければよいという人は一定数いる。
勿論、個人の話だから国家レベルで考えれば小さなことだ。
そう考えると、何をもって社会の負担になるのかという概念的なものもなる。
前述したが、福祉とはある程度余裕の持った社会でないと成り立たない。
そのうえで考えれば、余裕があればあるほど考え方が細かくなって、そこでジャッジしてしまう。
そうなると余計な余裕となってしまう。
福祉が充実しているという事は、本来考えなくてもよいことまで考えてしまう弊害があるのかもしれない。
