(1)緊急事態の中で
コロナ禍というのは人と人の間に大きな溝を作った。
以前、新型インフルエンザの時に我々介護職員が媒介になってウィルスを家に持って帰ったとしてヘルパーの大量離脱があったように、コロナ禍でも外部の人が来ることを極端に嫌がった人はそれなりにいた。
その考え方だが、私個人の意見は「かかる時はかかる」というもので、緊急事態宣言が発せられて数年は何ともなかったが、ある時に利用者にうつされてしまった。それもマスクを外していたのは10分程度。
それに現金を使っていればお札にウィルスはついているだろうから、そこからうつる人はうつる。
本当にシャットするのであれば、家の玄関に次亜塩素酸のシャワーを浴びさせてからでないと安心できない。当たり前だがそんなことは出来るわけもない。
しかし「何かあったら」という理屈ではない感情で心配されるのであればどうしようもない。
(2)東京の人は嫌われた。
そういう事は介護の現場だけでなく日本国中に広がっていたと思う。
休みの帰省を辞めたりするのは、そうした地域の人の感情に配慮したということなのだろう。
東京の人間だからコロナウィルスを持っているわけではない。
おそらく確率的にも関係ない。
それでも「何かあったら」という答えの出しようのない感情論は人を遠ざけた。
今回の記事もそういう感情論から来ているのだろう。
今回の件は今、緊急事態宣言も解除され、マスクも外した今だからこその結論であるという点が考えどころなのだと思う。
おそらく当時は前述したように「東京の人間が・・・」という感情があったのではないかと予想する。
コロナウィルスを持った東京の人間が来る。そういううちに行けば自分もかかって、家族に移すかもしれない。
ただでさえ辞めたい介護の仕事である。こういうケースに行かなくてはいけないなら辞めてしまえ!と言った事もあったかもしれない。
(3)腹の括り方
私は前述したとおり、発生時から「かかる時はかかる」という立場であった。
マスクだってさほどしなかった。の薄いマスクでウィルスがブロックできるわけもない。
もしマスクをしている人が多い地域がウィルの罹患が少ないというデータがあるとするならば、それは会話しなかった、つまりマスクの機能的な効果ではなく、他の要素という事であると思うのである。
こういう認識は当時はされなかった。
むしろ、「怖い、危ない」の一点張りで、全国民にPCR検査を行えだの、ワクチンを打てんだのと、恐怖をあおる報道ばかりだったと思う。
勿論、「全然、平気」という報道で、重篤になったらそれこそ報道は何をやっているんだという事になるから、注意喚起は当然ではある。だからこその結果とも言えるのであるが、それを今の尺度で判決を出されても厳しいよな、と思うのである。
我が区では議会からエッセンシャルワーカーに対する支持の宣言が出されたほどだ。
我々はコロナにり患している利用者に、自分がうつされるかもしれないというリスクを負いながら出向くこともあった。
自分がうつされるのは怖いし、何より周りから言われる。
そういう自分の身を守るという大義名分があるから、逆に支援されなければならない人は隔離される。しかもそういう人を支援する人も差別されるというか、普通の人とは違う見方をされる。
うん、やはり腹の括り方だろうな。
自分が犠牲になっても人を助ける、そういう人を国は最高の礼をもって感謝の誠をささげ、残された家族も支援するというあり方が尊いとされないと、正直者が馬鹿を見るという世の中になってしまうんだろうと思う。
おそらく今の日本はそういう国。