(1)介護はやりたくないものという出発点に立つ
人が生きてい行くうえで一生懸命に学び、社会に出てからは必死に働き、結婚し子供も出来、なんだかんだと子育てに奔走し、老いて仕事を引退し、いざ介護を受けるという段階になった時にどうなっているか。
理想は、子供などが今まで育ててくれた恩を感じ、介護してくれるという事。
しかしそういう人は少ない。
ケアマネを10年やっていて一握りである。
多くはしょうがないからやっている。
ハッキリ言って「介護はやりたくない」。そこを出発点にしないと話は何処かに行ってしまう。
(2)介護は「しょうがない」?
それでは「しょうがない」介護とはどういうことか。
一つは財産狙い。
それから面倒をみる人がいないからしょうがなく。
財産狙いというのはおそらく多い。
相続の争いになった時に少しでも介護に関わったという事で少しでもお金を得たいというのは当然。
しかしそれには基本的には遺言であり、そこに有利に書いてもらえれば一番良い。
場合によっては全額自分にもらい、他の相続人にはいかせないという事だって考える。
この話で眉を顰める人もいるだろうが、それが現実だという事に気付かないと、これも話は何処かに行ってしまうし、こんなはずじゃなかったという事にもなる。
しかし財産が無い人、たかが知れているという人だったら、しょうがないという事になる。
とすると、出来るだけ自分の生活に支障が無いように、という事を考えるだろう。当然、介護サービスの出番でもあり、サービスを駆使して、介護者の負担軽減を図る。
それは「介護の社会化」という介護保険制度の狙いにも合う事なので正しい方向だろう。
(3)それでも家族は家族
しかしいくら介護サービスを駆使して、介護者の負担を軽減しようとしても、完全に負担がなくなるわけじゃない。
それに単純に嫌いになったら、やはり面倒を見たくないというのも当然。
そこで「お前の親なんだから」と言うのは、やはり酷な話なんだろうと思う。
ハッキリ言ってそれは分かっている。
でも自分の生活もあるし、うるさい事を言われたりするならば、やはり面倒を見れないという事にもなる。
確かに施設に入るというのは嫌だろうと思う。
わがままを言える場所のほうが良い。
でも、当たり前だけどわがままを言われる方は嫌だ。
本当に頭にくれば記事のように見放す子供も出て来るだろう。
この事例は高齢者は知っておいたほうが良い事例だと思う。