介護は「出来ない事」を理解する事 | ケアマネ時々卓球、時々その他

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仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

 

(1)介護の事件は無くならないのか

やはりこういう事件は後を絶たないのだろうか。

 

ご主人の奥様に対する思い、責任感。

奥様のご主人に対する頼りたい気持ち、不安。

 

お互い何とかしなくてはいけないと、最終的に誰も頼れなかった(信用できなかった)のだろう。こういう結末しか残されていなかった。

 

(2)自分の経験をもとにした心境

私は元嫁が精神の病を発症し、一時期記事と同じような状況にあった。仕事中にも電話がかかってくるし、薬も飲もうとしない。人のやることに何かと文句をつけて来る。

 

いい加減にしろと言いたくなる。

声だって荒げてしまう。

 

この苦しみがいつまで続くのかと思う。

自分の人生はこんな苦しみの為にあったのかと思う。

 

そんな結婚ならやめたほうが良い。

それがダメなら、こんな人生無駄だと思った。

 

(3)他人の助言

①弁護士の意見

離婚を決意し、弁護士に相談。

 

100%自分の立場で言えば、早くやり直したほうが良い。

まだまだこれからの人生は長いのだから、それは自分中心に考えるべき。

 

勿論、元嫁に対する配慮も必要。

だから調停という話し合いの場がある。

 

結果的に離婚できたが、その時の法的解釈は「破綻主義」。つまりもう壊れてしまってどうしようもない状態だよねという事。逆に離婚を認められなかったら、今頃どうなっていたのかと思うと憂鬱になる。

 

私としては離婚できて良かった。

 

②知り合いの意見

しかし他人はそうではないらしい。

どんな状況であれ、苦難であれ、それを耐えるのが美徳というか結婚した人間の責任とでも言いたいのかな。

 

離婚した時も同じ。結局こちらが悪者になる。

 

しかし人の人生だから、知った事では無いのであろう。

 

(4)終わりのない苦しみの中で

介護というのはいつ終わるか分からない。自分が限界と思っても、すぐに誰かが助けてくれて、お眼鏡にかなうような支援が受けられるわけではない。

 

やはりどこかで諦めることが必要なのだろうと思う。

 

介護は「出来る事」、残存機能を生かしてとか、生き甲斐をもってとか言われるが、私は逆に思う。

 

どこかで諦め、割り切り、次に行く事。

 

何とかならないかという粘りは無意味。

 

それを早く気付かせられる人が良い介護者であったり、相談者だと思うのだけれど。