取り残される日本の高齢者
日本の若者はどうしても介護の仕事をやりたくないらしい。
それでも日本の高齢者の面倒を見させる人材を何とか確保しなくてはならない。高齢者と言う「厄介者」の押し付け合いは、このように醜い記事になっている。
介護保険という制度で
高齢者という存在、そもそも家族の介護力の限界を見越して日本では保険制度として介護保険という形を取っている。
この形自体は正しいと思う。と言うのもそれ以前は公費で賄られるいわゆる「措置制度」と言うもの。これは行政措置であり、利用者はその命令に従わなければならないというものである。例えば老人ホームに入りたいという場合、役所が探してきた施設一択である。断ることは出来るが、そうすると次にいつ回ってくるか分からない。
結果的に選択の自由が無いというものになってしまうのだ。
なので、その高齢者の選択というてんでも保険制度で始めたことは理解できる。
そもそも面倒を見たいか
それにこの介護保険の前には「ゴールドプラン」という高齢者保健福祉推進10か年計画なるものがあった。これは福祉サービスが必要になった高齢者は施設入所メインだったのを在宅でケアするという方向転換だった。これでホームヘルプサービス、デイサービス、ショートステイは在宅サービス三本柱として推進されていった。
というのも、もう何十年になるだろうが「DINKS」(ダブルインカム・ノーキッズ)という共稼ぎで子供がいないという状況が増え、その前には「核家族」(夫婦と未婚の子供)世帯の増加、というかつての複合世帯からの変化が見られt。それ以前からも主たる介護者は「長男の嫁」というのが多く見られていたわけで、面倒をみるというのは家を継ぐ人とかが行うものであった。
私の父親もそうで、死ぬまで財産は渡さないと、先に渡してしまうと面倒をみてくれる人がいなくなるといつも言っていた。
そうした財産と引き換えに、介護という面倒は何とか出来ていたという事だ。
介護がサービスになったが故
そうした社会状況の変化、介護保険制度の浸透は、家族が介護という労働をしなくて良いという形になった。介護サービスを使えば財産は手に入る。いやなことはしなくて良い。ましてや連れ合いの親の面倒なんて見たくない。そうした「やらなくてはならない」から「やらなくて良い」になっていった。
しかし介護従事者は最初こそ人気はあったが、今はどうにもならないくらい人手が無い。いくつかの大手は保険会社に買収され、その保険の営業マンのリストラ先になっている。逆に言えばがそうでもしないと人材の確保は出来ない。
それでも人手不足は解消される気配が無い。
なら外国人となるが、これだけ魅力が無いのに外国人に押し付けようというのも失礼な話だと思う。
それにアメリカやヨーロッパにも人材確保の活動そしているというならわかるが、東南アジアやインドなど、明らかに見下した態度を取っているように見える。
これも日本人が卑屈になった証拠のように見えてしまう。