孤独な老後だっていいじゃない | ケアマネ時々卓球、時々その他

ケアマネ時々卓球、時々その他

仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

 

(1)悪いところが目立つのも良い時代

おそらく昔から頑固爺、性悪婆というのはいたと思う。それが単純に性格の悪さから来ているのか、人と接する事が苦手という点から来ているのかは分からないが、いずれにしても不器用な人がいたことは今も昔も変わらない。

 

さて、介護保険が無かったころ、というより福祉が全く話題に上らなかった頃というのは高齢者は家で面倒をみていたわけで、正直どういう介護が行われていたかは分からない。元気な頃は頑固爺、性悪婆で通っていても、体が弱くなって寝たきりになって、場合によっては意識も混濁という場面では、やられた方はチャンスとばかり暴力や暴言もあったかもしれない。そしてそれを見ていた子供は、人をいじめると立場が変わった時に仕返しされるという事をまじかで見たという人はいるだろう。

 

では現代のように核家族だったり、人と疎遠になった場合はどうなるか。というより個人の意思が尊重され、生きていくうえで我慢しなくて良いという事が良いんだという時代である。若者だって言いたい事を言っているのだから、高齢者でも言いたいことは言えるというのは当然で、良い時代なんだろうと思う。

 

(2)ありがとうと言う言葉

随分前だがバスに乗っている時に、片麻痺の人が杖を突きながら乗ってきた。若い人が席を譲ろうとしたら、何が癪に障ったのか分からないがいきなり怒り出した。

よく高齢者側からリハビリのために立っているほうが良いとか、いったん座ると立ち上がるのが大変だから立っているほうが良いなどと言われる。それはそうかもしれないが、若い人が席を譲るというのは単純に親切である。そのような事情は良いが、その時こそ「ありがとう。でも立っている方が楽だからいいよ」という言葉が欲しい所だろう。

もしそういう事で立っている高齢者が下りる間際に「さっきはありがとう。嬉しかったよ。」なんて言ったらカッコいい高齢者だろう。

 

(3)「多因他責」と「自因自責」

人間怒った時、上手くいかなかったときに人のせいにするのは簡単である。いわゆる「多因他責」であるが、特にスポーツの場面で良く見られるが、こうした姿勢で取り組んでも中々成長はしない。「相手が強かった」とか「相手が運が良かった」ではそこで答えが出てしまう。やはり「自分の非を知る」という自因自責の姿勢が必要だが、それに気づく人は少ない。

やはり気付くきっかけというものがあろうが、若者であれ高齢者であれ、そこに気付かない人は多いだろう。そういう人は結局自分に怒り、ふてくされながら生きていくのだろうと思う。

 

でも、それは否定すべきではない。後悔しながら生きていく、死ぬ間際になって気付くという事もあるだろう。孤独のまま生きて死んでいくというのも生き方と言えば生き方。