(1)社交的になるには修業が必要
今の自分が社交的かそうでないかと言えば明らかに違う。
両親ともにそうだったから遺伝的なものもあるだろうが、「社交的になる努力」を学びきれなかったとも思っている。
社交的になるにはやはりある程度の修行が必要だと思っている。それは物事を丸く収める事であったり、本当にダメだら喧嘩する勇気。それとその人間関係が壊れてしまった時にそこにしがみつかずに別の場所がある、何とかなるというような気楽さ。いじめられないようにする周りを見る力、逆にいじめられている人をかばう気持ち。
社交的になるには様々な能力が求められると思う。
(2)無かった「居場所」
私の親は教育熱心だった。
自分の子供には良い学校を出て、良い会社に就職して欲しいと思うのは当然であろうとは思う。その為には受験戦争に勝ち、希望の学校に行くことが幸せだと思わされた。
そんなことだから小学校の4年生位から塾に行き始めた。
とにかく私立の中学に入る事しか選択肢が無かった。そんなことだから塾通いだけでなく、学校から帰っても勉強しなくてはならず、友達と遊ぶこともままならない。自然と話題にもついていけなくなる。当然、友達とは離れていった。
今となっては親を恨んでいるわけではない。ただ「辛かった」だけである。
(3)誰にでも「居場所」はある
今でこそ仕事は自営だし、趣味は好き勝手に行っているしで他の人に比べても自由に生きている。それこそ全く人に気を使っていない。
仕方なく気を使うグループにいたこともあったが最近そこから離れた。グループから抜けることは罪悪感もあったが、意外に何の影響もない。逆にそのことに驚いている。
そう思えば社交的・非社交的関わらず人には居場所がある。でもそれに気付くには、相当の時間がかかった。
なので、若い人たちに気休めを言うつもりはない。
今は辛いだろうが、どうか耐えて欲しい。