(1)私こそが負け犬人生を歩んでいた
私は中学・高校・大学と第一志望の学校には入れなかった。そのたびに両親から情けないと叱責され、自分こそが負け犬だという思いは誰よりも強かった。
自分の子供もいない若年の頃の話である。
私は他の子供よりも早く塾に行かされ、それが他の子供よりも進んでいるというか、差になっていたと思っていた。ところがその努力は泡と消えた。記事のように「よく頑張った」と誰からも、一言も言ってもらえなかったと思う。
何度も「もう終わった」と思った。
それでもよく死ななかったと思うし、この年齢(53歳)まで生きながらえてきた。
(2)勝負する場所はそこではない
社会人になり、起業し、やはり勝ちを求めていたと思う。大した資本金のない自分は、それなりに売り上げを上げている他社が羨ましかった。いつかは自分も複数の支店をもち、業界でも注目される存在になりたいとは思っていた。同じ時期に起業したところが各々事業を拡大しているのを見て忸怩たる思いをした。それが出来ない自分が不甲斐なかった。
結局それは叶わず、今は一人で細々と事業を行っている。
しかし、それが負けたとは今は考えていない。
例え一人でも生き生きとすることが出来ているので、今は満足である。
そう考えると、周りよりも会社を大きくしたとか売り上げを伸ばしたいという虚栄心というのは自分には向かなかった事であり、勝負どころではなかったという事だと思っている。
(3)「我、いまだ木鶏たりえず」
今は勝ちも負けも関係なく生きている。
もっと言えば、ただ生きているだけである。
自分で自分を褒めるという事もない。
「我、いまだ木鶏たりえず」という言葉を知っているだろうか。
中国の故事の話で闘鶏が流行っていたころ、名人が「まるで木鶏のように泰然自若としています。」と鶏を育て上げた話である。昭和の名横綱である双葉山が69連勝で連勝記録が止まった時にこの言葉を電報で打ったとされる。
この言葉が当てはまる生き方をしているかは分からないが、少なくとも今は落ち着いている。負け犬であった自分もこうした生き方が出来ていると思えば、人生捨てたもんじゃないと思う。