「人の為」と書いて「偽」と読む | ケアマネ時々卓球、時々その他

ケアマネ時々卓球、時々その他

仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

 

(1)「人の為」と書いて「偽」と読む

とかく我々は「利用者の為」とか「家族の為」とか自分が手を尽くすことでその人たちの役に立っているのだという事を拠り所にしている人は多いと思う。しかし漢字を見れば、まさしく「人の為」と書いて「偽」となってしまう。では我々の拠り所は「偽物」なのかという事になる。そこを考えてみたい。

 

(2)「偽」の語源

漢字の語源を見てみる。「為」という感じは「手」と「象」を表している。つまり人が象を手なずける様子を表している。 そこに人偏がつくと、人間が作為的に手を加え、本来の性質や姿を矯め直すと いう意味になる。要するに人の作為で姿を変える、正体を隠して上辺を 取り繕うという意味から「いつわる」となったとされている。突き詰めていけば、自らの尺度・基準の中で都合の良し悪しを判断し、行動に移しているのであって、その者の本来のあるべき姿に私達が手を加えている「偽り」とも言えるのではないだろうか。おそらくその偽りが「模造品」になり「偽物(にせもの)」になっていったようである。

 

(3)介護の仕事は「偽り」か?

親鸞聖人は『「真」の言は偽に対し、仮に対するなり。』(教行信証)という言葉を残されている。

 

「真」・・・人生においてなくてはならないことです。これを失えば生きていることが空しく過ぎてしまいます。

「偽」・・・人生にあってはならないものです。これにとりこまれると人生が台無しになってしまいます。

「仮」・・・「真」に出会うために立てられたものです。その意味で人生において必要なものです。しかしその「仮」に固執すると「真」を見失ってしまうかもしれない。

 

つまり真実の心に出会うためには「仮」の過程があり、最終的には「偽り」を偽りと判断できるように修行していくという事だろうと思う。その時に「偽りのない真の心」を持つ事が出来るようになる。

 

(3)「偽善」を繰り返すことで「真善」になっていく

もう一つ「偽善」という言葉がある。これは「仮」の過程であるが、将来善にも悪にもなる。

「善」の心が理解できていない状態で形だけでも行動する。

①それで「真の善」に到達するのが善になる「偽善」

②「良いことをしている自分ってカッコいい」に到達するのが悪になる「偽善」。

だから「お前、『人の為』とか偉そうなことを言っておいて、結局『偽』物じゃないか」と言われてカチンとくるようなら、まだ修行が足りないという事だろう。

悪口、陰口をたたく人間は何処にでもいる。しかしそれも過程の話。自分が進むべき真実の強さが介護の世界では求められているのではないかと思う。