ロスタイムを生きている人へ | ケアマネ時々卓球、時々その他

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仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

 

私が両親を看取ったのは、もう8年も前の事になる。

まず親が死ぬなんて思わなかったし、父親は倒れてあっという間、母親はしばらく入院していたが、様態が悪化して亡くなった。

 

この時に一番最初に思ったのは、自分が親よりも先に死ななかった、最低限の親孝行は出来たと思っている。

 

親は私に「財産をもらえるんだから」という事で言う事を聞かせようとしてきた、いわば毒親である。だからその毒さえいなくなれば自分の人生は拓かれるものと思っていた。

 

しかし私が思うのは、自分はもう十分生きたという事、今はロスタイムのようなものだ。

 

もしかしたらこれから楽しい事があるかもしれない。

しかし自分にとってみればそれはレジャーの楽しみであって、生きる死ぬと言った事に関わる事の無い薄っぺらいものである。

 

毒親に接するという事は、極端に言えば生きる死ぬと隣り合わせに生きているという事である。こうした環境に置かれた人は現代の奴隷と言っても過言ではない。

 

だからこうした奴隷からの解放はこれからの楽しみを期待するより疲弊しきった自分へのねぎらいとして、もう何もしなくていい、ただ安らぎたいと私の場合はそう思うのである。

 

現在の介護は高齢者に性善説である。

勿論、今の日本のために尽力されたことは尊敬している。

しかし傷つけられた人がいることとは別の話である。

 

このロスタイムに何があるのだろう?