尊敬と感動 | ケアマネ時々卓球、時々その他

ケアマネ時々卓球、時々その他

仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

 

介護の仕事をしているとやはり可愛い年寄りとそうでない年寄りがいる。それはお互いにに親近感を持って接する事が出来るということが前提に来るのだろうが、こちらの提案することを受け入れてくれるとか、むしろこちらの方が気を使われたりというかもてなしてくれたりとか。

 

それで「尊敬」という概念であるが、最低でも親近感のある人ではにとわかないものだろうとは思う。例外があるとするならば、現役の時に尊敬に値する実績があって自分がそこに触れたい、自分もこの人に学びたいと思っている人とかになる。

 

逆に人間だから嫌いな人も当然いる。

 

自分の経験ではあるが、こちらを攻撃してくるような人。

 

苦労自慢、不幸自慢。

 

自分こそが全てであり、お前なんかこっちのいう事を聞いていればいいんだ!という奴なんかは尊敬しようにもできないと思う。

 

勿論、そういうことを言う背景には何か原因がある。それを探りうまく対応する事こそが介護職の専門性と言えなくもないが、介護職の立場から言ってもあまりそういう人に接したくはないというのが本音だろうと思う。

 

高尚な人ならそういう人こそ是非担当して、罵倒され、時に暴力を振るわれながらもその人の人となりを理解して、その人の人生に寄り添っていくんだ!と思うのかもしれないが。

 

それで、である。

 

「尊敬」というのは自分から云々ではなく、他人の評価であるという事なんだろうと思う。

 

私は保守の考えで、戦争で亡くなった英霊を敬う気持ちを持っている。同時にこの国を支えるために尽力された先輩方を敬う気持ちも同時にあり、それが介護の仕事の軸になっているともいえる。

 

私は毎年靖国神社に初詣に行っており、以前は年に数回は参拝していた。

いつだったか穏やかな日差しの中ベンチに座ってコーヒーを飲んでいる時、ふと思ったことがある。戦争に行った方はこういう暖かい日差しを感じたこともあっただろうし、吹く風の心地よさを感じた事もあっただろう。しかし明日死ぬかもしれない緊張感の中でその温もりはどう感じたか。その人と木のぬくもりをずっと安心して感じていたかったのではないか。そう思えば今私が感じている温もりは、先人たちが望んでいた未来だったのかもしれないと思ったのである。

 

この国を守り。そして守り続けた先人たちは尊敬に値するというのが私の考えである。

 

これは歴史を学んだからこその考えであるから、歴史に興味がない人には伝わらないと思う。

 

そう思えば歴史を学ぶという事だったり、先人たちの思いを言い伝えるという事は国民として知っておいて欲しい事だと思う。

 

多分、尊敬というものも言い伝え、受け継がれていくものかもしれない。そういう意味では学ばないという事は無知でもあり、心震える感動を学ばないという事にもなる。

 

学校の勉強はつまらないという人は多い。

感動を覚えるような勉強をしたいものだ。

 

わざと感動や尊敬を感じないような勉強をさせているように思うのは誤解だろうか。