福祉の歴史とは、戦後の収容型の施設入所が中心だった時代から、今は地域で生活しながらの在宅型が中心となっている。
では記事のように精神病患者を地域でどうみるのか、という問題である。
「第三者から見たらぐちゃぐちゃの生活でも、そこでその人が暮らしていることが大事。『人を殺したり自分で死んだりしなければ』というぐらい腹をくくって、すれすれまで地域で粘る」(文中より)
精神病、というのはなりたくてなるものではない。
しかし、その人が異常ともいえる行動を日常的に繰り返し、周りの人に迷惑をかけ続けている状態であれば何とかして欲しいと思うのは当然だ。
特に子供がいる親御さんにとっては、何をするか分からない人が近くにいるという事は怖い以外何物でもない。もし子供がケガをさせられても、その責任を問えない場合もあるかもしれない。
こういうリスクを理解した上での在宅支援なのか、という事。
世界の精神医療の潮流は「患者を病院から地域へ」だが、入院治療に偏った日本の精神医療界では、長野さんは異色の存在だ。障害がある人もない人も共に暮らす「共生社会」を体現した町の取り組みは、国内外で評価されている。(文中より)
そこまで住民は寛容ですか?
①東京のおしゃれな街で児童相談所の一時保護施設建設を巡っても、店に万引きに入るかもしれないから反対。
②某市で障碍者施設の建設を巡って反対運動。
③公園で子供がうるさいから、公園を廃止しろと市にクレームを入れる大学教授。
ちょっとニュースになったものをあげてもこれだけあるし、おそらくあちらこちらでそんな話はあるのだろうと思う。
それもこれも人間関係が希薄になっているのが原因なのかな。
なので
理想は理想としていいけれど、まずは受け入れる側の気持ちの準備や知識、安心感が必要でもあると思う。
一つの発想として
人間はだれ一人同じ人はいないという事を教えるという事。
手足が不自由だってなりたくてそうなっているんじゃない。
しかし、そうであってもその人の人生にはその人の人生がある。人を好きにもなるし、健常者と同じような悩みもあるだろう。
だから、同じ人間として、という教育が必要なんだろうと思う。
それは差別とかではなく、お互いを認め合うという事。
でも、トラブルに巻き込まれないようにという危機意識も必要。
福祉社会の実現は、こうした共生社会の実現でもある。それは道半ば。