弱い自分と向き合う、そして助けを求める。 | ケアマネ時々卓球、時々その他

ケアマネ時々卓球、時々その他

仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

 

こういう記事が目に留まるからか、虐待というか、不祥事の話を取り上げることが多い。

 

老人ホームという人生の終の棲家で

人生の最終章を迎える高齢者が

なぜこのような仕打ちを受けなければならないのか、という事。それはその通り。

 

ではなぜこのような事が起こるのか?

 

①高齢者側の問題

介護という視点で、高齢者ってどのように見えるのだろうか。何をするのだろうか?

例えばよくテーマとなるのは寝たきりであったり、認知症であったり、怒りっぽくなったりというイメージ。

訳も分からず騒いでいる高齢者をなだめでいる自分の姿。

仕事の対象者として、やはり関わりたくないのでは?と思うかなとは思います。それは面倒とか怖いとか、とにかくネガティブなイメージ。

 

②介護の仕事のイメージ

3k・・・「きつい」、「汚い」、「危険」

5k・・・「給与が安い」、「臭い」

8k・・・「休暇がとれない」、「暗い」、「婚期が遅れる」
なんてことも言われていますね。

 

③そもそも何のために働く

仕事が無かったころはとにかく「生きるために働く」という事だったろうと思う。

仕事を選ぶなんてことは出来ない。目の前の日銭を稼ぐことで精一杯だったと思う。

それがこのように仕事が多岐にわたるようになると、「自分のやりがい」とか「自己実現」とか。

少なくとも自分のやりたい仕事を選べるようにはなった。

 

逆にきつい仕事は自分の夢に向けて貯蓄するための腰掛。

そんなこともあるだろうと思う。

 

④人と人との関わり

人が二人以上いれば人間関係が発生する。

どちらが上どちらがしたか、というマウント取り合戦もありつつ、誰がどのような特技があるか。

例えば、アイツは勉強が出来るけど、俺は足の速さは負けないとか。

いわゆる対等理論です。

お互いの存在を認め合うという。

 

それが、最近では学芸会で主役が何人もいたり。

訳の分からない平等理論があるように思う。

 

若い人は高齢者をどう見るだろうか?

身体が弱いから、自分が上?

人生経験で負けるから自分が下?

 

他にも理由はあるでしょう。

でも、単純に避けられている、嫌われているという入り口には立ったほうが良いような気がします。

 

それでも、「介護の仕事はやりがいがあるっ!」って力説している人が多いのもよく見ます。

こういうのを見て、どう思うでしょうね?

 

「お前は知らないだろうけど、こんな世界があるんだよ」っていう事。全く響きません。

 

以前、ケアプランの作成でとあるケアマネに相談した時、「そのうち分かるようになりますよ。そのうちね!」と上から言われて、こいつは頭が悪いんだなと思い、二度と相談しませんでした。だって何年もやっているくせに答えが出せないんだもん。

 

つまり、働くうえでも何でも、ある程度の道筋はつけてやらなければならないと思うわけです。

勿論、自分で考えることは当たり前。

 

対応困難な利用者は誰もが対応困難なのです。

 

ダメだ、と思うならダメなりの対応をするしかない。

一人で考えつかないなら、みんなで話し合えばいい。その為にケース会議だってあるんだろうから。

 

おそらく、「自分は出来ない」という事を隠してしまうのかな。

「やれば出来る!」というのは、その通りではあるんだけど、そのことによって、人を追い込んでしまわないかとも思うのです。

 

だから「大丈夫です」となってしまう。

そして嘘で自分を塗り固めるしか術がない。

結果、自分も他人も騙して、どうにもならなくなる。

そうなった時に、「なんで早く言わないんだ」ってことになる。

 

悪循環のメカニズムはこうして出来上がっていくのでしょう。

 

このケースの場合、どこに問題があるのかはよく分からないが、職員がこうした口を利くのは、その職員の限界を超えていたんだろうと思う。

 

だからといって職員をかばうつもりはない。それは暴言だから。

 

これは介護職員の質とか言う問題以前に、様々なことが変わった結果なんだと思う。考え方とか社会とか。

 

だからどこを直せばいいというものではない。

 

もしかしたら人としての根幹の問題かもしれないし。

仕事に思い入れをしすぎない事も大事だと思うし。

 

2024年改正に向けての話が出ているが、こういう事も気にして欲しいなあと思う今日この頃です。