今日は79回目の長崎原爆の日です。

 

 

ブログの管理画面に、

以前書いたブログが上がってきたので、

再投稿させていただきます。

 

 

自分で書いたものなんですが、

改めて読み直してみると、

亡くなった父や祖父母のことや

原爆の日のことを話してくれたときの

父の気持ちを想像したら、

涙が出そうになりました。

 

 

 

 

今日8月9日は、長崎原爆の日です。

私の父は長崎県長崎市で生まれ、育ちました。

 

 

 

 

 

 

毎年、8月9日になるとテレビで

長崎の原爆投下に関するニュースが

たくさん流れているのに、

 

子供の頃、

父から戦争や原爆の話をきいたことは

一度もありませんでした。

 

 

父がなくなる数年前に、

生まれて初めて、

「原爆が投下された日のことを話して!」

と言ってみたら、

 

 

それまで笑顔で談笑していたのに、

私のその一言で父は

急に表情を無くして黙ってしまいました。

 

 

怒るでも悲しむなく、

「無」の表情になってしまったのです。

 

 

しばらくして、

 

 

「考えとく・・・」

 

 

ただ一言、そういって席をたち、

どこかへ出かけてしまいました。

 

 

 

 

先ほどテレビを見ていたら、

長崎市長が、

 

「人は本当につらいことは話さない。

 なぜなら話すためには思い出さなければいけないから。」

 

と平和祈念式典でおっしゃられていたのを聞いて、

私は父にとても残酷な質問をしたのかもしれないと

過去の自分の言葉を噛みしめました。

 

 

でも、あの日、私は

父が生きてる間にどうしても

聞いておかなければいけないと思ったのです。

 

 

その質問をして2年経ってから

ようやく父が話してくれました。

 

 

 

 

昭和20年(1945年)8月9日11時2分、

あの日は快晴のとてもよいお天気だったそうです。

 

 

当時、父はまだ13歳の少年でした。

 

 

父の父親(私の祖父)は体が弱かったため、

父の母(私の祖母)が内職をして家庭を支えていました。

 

 

父は長男だったので、昭和20年の4月より

勤労奉仕として午前中は新配達し、

午後は学校に行き勉強していたそうです。

 

 

 

- 8月9日 -

 


B29戦闘機が原子爆弾を落とした時、
父は国民学校の正門に居ました。

 

 

B29の爆音がかすかに聞こえたので空を見上げると、

銀色に輝く2つの白い物体(B29戦闘機)が見えたそうです。

 

 

その数秒後に激しい閃光が走りました。

 


雷の数十倍、いや数百倍(もっとすごいものだったかもしれない)ものすごい光だったそうです。

 

 

何の光だろう?と思った瞬間、「ドカン!」と物凄い音がしました。
今まで聞いたことのないような、おそろしく大きな音だったそうです。

 

 

次の瞬間、北の方角を見ると、
キノコ雲が晴天の空にくっきりと見えたそうです。

 

 

(この画像は長崎原爆資料館に許可をいただいて掲載しています。)

 

 

 

そこからの記憶がありません。

13歳の父は意識を無くして倒れていたようです。

 

 

 

どのくらい時間が経ったかわかりませんが、

 

あっ、生きてる!

 

気がついた瞬間、そう思ったそうです。

 

 

 

そして恐る恐る頭を上げ、自分の体に注意を向け、
あぁ、生きてるんだ。

と感じたそうです。

 


さいわいにも身体は、どこも痛くなく、

怪我もしていないようでした。

 

 

少しホッとしてまわりを見渡すと、

自分がどこにいるかわからない景色が目の前に広がっていたそうです。

 


目の前に広がっているのは景色ではなく、
砂埃で何も見えなかったそうです。

 

 

そして父が居た正門のところには、

男の先生が耳から血を流して倒れていたのです。

 

 

このあと父は自分がどうしたのか、

未だに思い出せないと言っています。

 

 

原爆投下によって、大勢の人の命が一瞬にして亡くなりました。
なのに、どうして父が助かったのでしょうか?

 

 

そのとき、父は爆心地から3kmほど離れた場所にいたそうです。

 

 

 

長崎の街は、街を二分するように金比羅山から

長崎駅の近く、NHKの放送局のところまで山の斜面が続いていて、
その下に駅があり、近くに港があります。

 

 

原爆は山の北側に落下し、爆発しました。

 

 

山が駅の近くまで延びていて、

父はその南側に居たので助かったのだろうと言っていました。

 

 

 

親戚は二人が被爆して亡くなりました。

(親戚の話も一度も聞いたことがなく、このとき初めて聞きました。)

 

 

友達の話も聞いたことがありませんでしたが、
仲良くしていた友人は、

ほとんど被爆して亡くなってしまったようでした。

 

 

 

意識がもどって、

どのくらい時間が経ったかはわかりませんが家に帰ると、
当時住んでいた家の戸や障子は

めちゃくちゃで足の踏み場もない状態だったそうです。

 

 

ただ、幸いだったことは、

原爆が落ちた時、父の両親と幼い弟や妹たちは

小高い丘の近くの防空壕に避難していたので

家族がみんな無事だったことです。

 

 

父は原爆投下の翌日も新聞配達をしていたようです。

 

 

途中、爆心地の100メートルくらい近くを通ったとき、

路面電車の残骸がいたるところに残っていて、
線路は飴のように曲がっていたり、

見るも無残な光景が広がっていたようです。

 

 

 (この画像は長崎原爆資料館に許可をいただいて掲載しています。)

 

 

 

当時は食べるものにすごく困ったと聞いています。

 

 

近所の畑の人に頼んで、

わずかばかりの
カボチャ(南瓜)やサツマイモの茎を

もらって食べたと聞いています。

 

 

実でも葉でもなく、茎しか食べるものがなかったそうです。

 

 

とにかく食べ物が欲しい!!

お腹が空いてたまらなかった。。。

 

 

遠い目をして話していました。

 

 

 

私が子供の頃には一度も

父から戦争や原爆の話を聞いたことがなかったので、

原爆資料館へも行ったことがありませんでした。

 

 

 

父から原爆の体験談を聞いてから

子供をつれて長崎の原爆資料館へ出かけました。

 

 

 

当時の写真や焼け焦げた物や衣服など、

さまざまなものが解説とともに展示されています。

 

 

 

当時小学生だった長女は、

泣きながら資料館を見学し、

今でもそのときの記憶が

心に突き刺さるように残っているようです。

 

 

「見たくなかったのに、怖いのに、

 お母さんが無理やり連れて行った」

 

 

と未だに言われますが、

私のエゴかもしれないけど、

知っていてほしかったのです。

 

 

父と一緒に原爆資料館を見学した後、

爆心地(原爆が落ちた場所)に立ち、

浦上天主堂にも行きました。

 

 

 

現在の浦上天主堂は、下記のようにきれいな建物ですが、

 

 (長崎原爆資料館よりお借りした画像です。)

 

 

 

被爆当時は、レンガが吹き飛んで、このような状態だったようです。

 

 (長崎原爆資料館よりお借りした画像です。)

 

 

 

思わず目を覆いたくなる悲惨な写真や熱で曲がった線路や弁当箱などが

たくさん展示されています。しかし、

 

広島や長崎で被爆した人たち以外のみなさん、

特に戦後生まれの人たちには、
ぜひ原爆資料館に行って見学していただきたいと心から望みます。

 

 

 

まだ書きたいところですが、

心が苦しくなってきたので終わります。

 

 

 

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本日も、最後まで読んでいただき

ありがとうございました。

 

 

 

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