ゆっくりと、当時のことをまぶたに浮かべると
しーんとした、幼稚園の教室が現れます。
窓の外には、子ども達の喧騒。
まばゆい陽の光。
園庭に舞い上がる土埃。
ときどき、外に目をやりながら
薄暗い教室の隅の
本棚の横で、本を読んでいる子ども。
それが、5歳の私です。
本当は外で遊びたい。
でも、恐い。
友達が誘ってくれても、ついて行くことは出来ない。
本の内容など、頭に入って来ない。
でもそれぐらいしか、やることがない。
そんな小さな背中に、私は声をかけました。
「もう、大丈夫だよ。話していいよ」と。
その子は振り向き、私を涙目で見上げます。
何があったのか、
もうお互いにわかっていますから、
全部話す必要はありません。
小さな私は、胸に飛び込んで泣き出しました。
「 恐かったね。辛かったね。
誰にも言えなかったんだよね。
1人で、抱えてたんだよね。
話してくれて、ありがとうね。
気づいてあげられなくて、ごめんね。
もう、大丈夫だからね」
今の私も、涙を流していました。
こんな小さな私が精一杯我慢して
頑張っていたことを、心から愛しいと思いました。
5歳の私と向き合って、気付いたことがあります。
それは、
辛い経験そのものより、
それを誰にも言えないことの方が辛い、ということ。
誰にもわかってもらえず、
背負い込んでしまうことが、辛い。
それは密かに、心の澱(おり)となって積もります。
今回、思わぬアクシデントがきっかけで、
気づくことが出来ました。
正直、「相手のあるトラブル」であったことが
非常に残念でならなかったのですが、
おそらく
そのような状況で、
そのような感情の振り幅でないと、
気づかなかったのだと思います。
ちなみに、夫に責められたかどうか、について。
事情を話すと、一瞬顔色は変わりましたが
私が落ち込んでいる様子を見て
「そりゃ、凹むわなぁ」と同情してくれました・・・。
現実は、常に新しく進んでいます。
過去は過去。今は、今。
責められるのは、やっぱり、恐い。
でも、大人になった今の私には
ここまで生き抜いてきた力と、智恵がある。
新しい道を拓くのは、
今のままの私で出来ることなのだ、
と気づいた、今回の出来事でした。