私が小学校3年の後半頃に、住んでいた家を売って、母親、私、2人の妹と6番町の店に移り住むこととなった。私達の家族4人と叔父さんの家族4人、計7人が一緒に住むことになった。父親は7番町の店に移り住んだ。この2店舗の距離は、大人の足で歩いて6~7分の所だった。

私は6番町に移ってから、近所の仲間と、同年代の子供が10人位いて、毎日毎日、良く遊んだものである。野球をいちばん沢山したし、野球は本当に楽しかった。

プロ野球線選手を夢見たものである。どんな遊びでも、遊ぶということがどんなに楽しかったことか。夏には、魚釣りに川へ海へ行った。子供どうし7~8人で海に行って遊んだ。山登りをしたり、静岡には、駿府城祉があって、外堀りと内堀りがあり、魚釣りや、城壁を登ったりして遊んだものである。冬でも野球をしたり、自転車で遠乗りをしたり、色々な遊びを見つけては、勉強は余りしないでよく遊んだものである。小学校6年を卒業するまで遊びに明け暮れた毎日であった。

小学校1年に入る前に新しい家に帰ってきた。同じ土地ではあったが、今度の家は2階建てではなく平屋であった。その隣に工場がついていた。実は小学校3年までこの家で過ごしたのだが、殆ど覚えていない。

火事の前に一度、泥棒に入られて、夜中にトイレに行くときに、廊下から裏庭が見えるが、その時に泥棒の顔がガラス越しに見え、目と目が合ったので“泥棒”と叫んだのを覚えているが、泥棒は裏庭から工場を通って逃げて行ったと思われる。新しい家が建った時には、父親は下駄工場を止めて、新しい仕事をやり出していた。家から歩いて10分位の所に(7番町という所)土地を買って、パチンコ店を始めていた。それから間もなく、2店目のパチンコ店を6番町という場所でオープンした。父は、6番町にあったパチンコ屋さんを、私の叔父さん(火事の時にタンスを運び出した叔父さん)に任せていた。

私達6人は、むかえの家に避難し、(朝日奈さんという方だった)、私は少し

寝たと思うが、大人の人たちは殆ど一睡もせず朝を迎えたと思う。私は、朝起きて家の焼け跡を見てビックリした。両隣りの家は壁に少し焼けた後があったが、

私達の家は全焼し何も残ってはいなかった。工場と家は跡形もなく焼き尽くされ

鉄の機械だけが焼きただれて残っていたのを覚えている。

襖を開けてみたときの火の海の戦慄な光景は、今もはっきりと脳裏に焼き付いているのである。父は火事のあった翌日のお昼頃出張から帰ってきた。父は焼け跡を見て、恐らく、どんなにビックリしたことだろう。まさか火事で自分の家が全焼して跡形も無くなってしまっている事など夢にも思わなかったことであろう。

私はその後、新しい家が出来上がるまで、私の好きな田舎で過ごす事が出来た。

火事は怖い経験だったが、田舎での生活は楽しかった。