「強さ」と「上手さ」の両立 | 師範日記 行く川の流れは絶えずして、淀みに浮かぶうたかたは、久しくとどまりたるためしなし

師範日記 行く川の流れは絶えずして、淀みに浮かぶうたかたは、久しくとどまりたるためしなし

日本でも有数の狭い道場・仙台合気会の師範が心に浮ぶうたかたを、つれづれなるままに、そこはかとなく書いています。

 さてさて、先回書いたのはいつだろうかと思い出せないほど、久しぶりに投稿しています。

 

 少し前のこと,あるお弟子さんから,「『強さ』と『上手さ』の両立は難しくないですか?」との質問を受けました。故齋藤守弘師範は「角度が上手くとれる人は,合気道が強い人。合わせが上手い人は合気道が上手な人」と講習会で言われていましたので,“角度が上手く取れ,合わせも上手くできるようになる”稽古をすれば両立はできているといえます。しかし,この質問者の問いの意味は違うと思いますので,少し考えてみましょう。

 

 一般的に「強さ」や「上手さ」はどのような意味をもっているのでしょうか。辞書で引いてみますと,「強さ:物理的に,あるいは心理的に,抵抗力があり外圧に動じにくいさま。あるいは,勝負に勝つすぐれた技量。」と,「上手さ:物事のやり方が巧みで、手際のよいさま。」と書かれています。

 

 一般的な武道では,多くの人が強さを求めて門を叩き,まずは試合や稽古において勝ち負けを繰り返し,“勝負に勝つ優れた技量”を手に入れることを目標に日々の稽古に励んでいます。多少崩れた技や姿勢でも,ルール上で一本取れれば勝ちになります。そのため日本一を決める全日本選手権でさえ,試合に勝つために体勢の崩れた姿勢から繰り出される技も多々見受けられます。この段階は人間と戦う時に必要な技術(あくまでも試合という前提ですが),つまり「強さの追求」の段階と言っていいでしょう。やがて高段者になるにつけ,単なる試合における強さから一つ一つの技を崩れのない正しい形で技を繰り出すように,上手さに,そして美しさに昇華していきます。この段階になると人と戦うための技術というよりも,その武道固有の技の本質部分の追求,つまり「理想の追求」の段階になります。高段者が稽古において,当たるべからざる勢いの若手を翻弄できるのは,若い頃からの稽古で身につけた“勝負に勝つ技量”を基にして,正しい形=理想の形(そこには長年の修行により身につけた呼吸を読む力も含まれます)を巧みに使っているからです。このように試合のある武道では,まず“強さ(の追求)”から入り,段階的に“上手さ(理想の追求)”へと変わっていくのが一般的です。

 

 「合気道は勝つことを教えるのではなく,勝っていることを教えているもの。」,「合気道は王道の道,人を倒すだけならどんなことをしても倒せるが,正々堂々でなければならない。」と恩師である故半澤義巳師範が稽古の中で都度々々云われておりました。それは合気道が,勝った負けたの「強さの追求」を超越した段階から稽古が始まっているからです。合気道には試合がありませんので,理想の追求(技の本質部分の追求)が入門したその瞬間からひたすら続きます。つまり永遠に上手さを求め続けるわけです。数多の稽古生がいると,力で無理矢理に投げ,あるいは極めて稽古相手を痛めつけることで,自分は強くなったと悦に入る者,技が掛らないように必要以上に頑張る者もいますが,それは「強さの追求」の結果ではなく,本道を忘れた乱暴狼藉以外の何ものでもないといえるでしょう。

 

 では合気道の強さとはなんでしょうか。合気道には試合がありません。入門したその日から,何十,何百,何千回となく繰り返し,開祖から先師,そして稽古者へと伝えられた技の稽古を続けているだけす。そしてそのことにより身につけた合気道の本質的な動き,相手から攻撃されない位置取りや技を掛ける過程,または残心において隙をつくらず,いかなる時にも崩れない姿勢。そして相手を嵌めてでも勝とうとする覇道の心ではなく,常に正々堂々とした王道を歩む心で相手を圧倒すること。つまり無駄や隙がない美しい姿勢と心こそが,合気道の強さの表れといえるでしょう。

 

 冒頭のあるお弟子さんからの質問に対する回答に戻りますが,王道か覇道か。菩薩行か修羅の道か。強さの定義を何処におくかによって変わってきますが,無駄や隙がなく美しい姿勢で,理合いに適した技を稽古していくことにより,合気道においては「強さ」と「上手さ」が両立できているといえるでしょう。