型について | 師範日記 行く川の流れは絶えずして、淀みに浮かぶうたかたは、久しくとどまりたるためしなし

師範日記 行く川の流れは絶えずして、淀みに浮かぶうたかたは、久しくとどまりたるためしなし

日本でも有数の狭い道場・仙台合気会の師範が心に浮ぶうたかたを、つれづれなるままに、そこはかとなく書いています。

お久しぶりです、いつ以来の投稿か本人が忘れいているほどです。ということで調べてみると先回は8月9日以来とのこと、じつに4月ぶり・・・(-_-メ)

気を取り直して、今回は1週間前に受講した講義からです。

 

たまたま地元紙に載っていた記事から、面白い講座を見つけました。それは「失ってはならない日本の文化性~消滅危惧武道用語~」という山形大学の講座でした。講師は山形大学名誉教授で、現福島大学特任教授の竹田隆一です。竹田先生は、60年以上の剣道歴をお持ちで、スポーツ文化論としての「武道論」と現象学としての「スポーツ運動学」を専門にされています。武道を修行している人間にとっては、目から鱗の講義でした。

その中でも特に気になったのは、武道における型についての解釈でした。

私のように合気道という試合のない型武道を修行している者にとっては、「技は一寸一分狂えども、それは技にならない」とも聞かせられていました。しかしその一方「形は決して型(イガタ)になってはならない、形は形のまま自由でなければならない。」ともよく聞かせられました。しかしそれに答えられる方はいかほどいるのでしょうか。

今回の講義において「型は天才的な名人が、長い間の体験や苦心により考察した一定の修行様式であり、我々凡人が考えたものは型にはならない。型は無駄なく簡素化され、確実にかつ早く理解できるように考案されているものであり。修行者は、型の稽古により、師の技術・信念を汲み取っていくもの」(筑波大学・中林信二先生の論)と定義されていました。

そして、型(イガタ)化して動けない状態から、型のまま徐々に動けるようになり、最後は型のまま自由自在に動けるようになる、身体を「客体」から「主体」へと転じていくことこそが修行であると修業論を述べられ、型は束縛によっておおいなる自由を目指すもの、自由を目的とする束縛であるとまとめられました。

これこそが、私の求めていた回答であり、前項に対する答えではないでしょうか。

 

合気道に限らず現在の武道を稽古する方は、自分が動きやすければよいと、伝来の微妙に型を変え、弟子は更に変えてゆき、やがては原型の型(技)とは如何なるものであったか分からない状態になっていくと考えられます。時代には繰り返すという言葉がありますが、これは今に始まったことではありません。江戸初期の柳生三厳の著作「月の抄」には次のように既に表れていました。「此の世の外は他所ならじと侘びても、至れるつれずれ先祖の後を尋ね兵法の道を学ぶと云えども、習いの心持安からず。 殊更ここは自得一味をあけて、名をつけて習いとせし。かたはら多かりければ、根本の習いをも主々が得たる方に聞き請けて、門弟たりと云へ共、二人の覚えはニ理となりて、理定まらず。」(この世のほかはよそならじ。心詫びて極り、思いつくままに、先祖の跡を訪ね、兵法の道を学ぶ。といっても、教えを会得する心持は簡単ではない。ことさらこの頃は自得一味を挙げて、名を付け、教えだとする輩が多いもの。根本の教えを各人各人、得たる方に請い聞いたものの、門弟であるといっても、二人の理解は二理となって、理論が定まらない。)と記されています。

 

世には「守破離」という言葉があります。よく武道にも使われますが、元々は茶道から来ているそうです。

「守」とは 教えを守る段階  ⇒ とにかく師のままに行う段階

「破」とは 比較する段階   ⇒ 師を尊重し、他のものを見てもよい段階。まだ技を変えてはならない。

「離」とは 流派を立てる段階 ⇒ 新しい技、流派を作って独り立ちする段階

自分はいま一体どの段階にいるのか、五・六・七段位で「破」までいけているでしょうか。故奥村繁信師範(九段位)は亡くなるまで「守」の段階とおっしゃっていたと聞きます。

 

最後に修行とは「苦しさにたえ、その後に来る新しい自己に出会うこと」。せっかく合気道を稽古する機会があり、それを修行しているならば、前節の「型の定義」、「守破離」をよくよく考え、動けない苦しさから、やがて動けるようになり、更にはそれによって新しい自分に出会えることを夢見て稽古していこうでははありせんか。