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はの字4代目の「焼津でさつま揚げ作ってます。」

大阪の一般家庭で生まれ育った僕が、
何の因果か今は静岡の焼津でさつま揚げを売ってます。
創業大正10年。「はの字」の4代目に2020年に就任しました。
2021年5月にアメブロ再開。仕事に関する事よりも、趣味の事等について書いていきます。今後ともどうぞよろしく。

 

開催日当日が緊急事態宣言下である事から、

9月18日(土)に出演する予定だった「音天メガフェス2021」への出演を断念しました。

 

イベント自体は感染症対策に万全を期して行われるのですが、

メンバーで相談した結果、念には念を、という気持ちで泣く泣く断念した次第です。

 

特に外出したりする事のない日々を続けてきて、

特に出かける用事もないので、実際には焼津で、というか家か会社でずーっと過ごしてるんですが、

もともとインドア派だからなのか、外出できないならできないで、

外出しなくても全然平気になってきているし、

一時期は晩酌の機会も増えたものの、今は晩酌も全くしなくなってお酒もいらないし、

このこじんまりとした日々にフィットしてきています。

あー、でもオンラインで買い物する機会が増えたので、

酒代は減りましたが、ゲームとか音楽とか服とか、

そういうのに使うお金は増えたので支出はそんなに変わってないかもしれない。。。orz

 

ただ、仲間とご飯食べに行ったり、バンド活動が安心してせいせい出来ないのはやっぱり辛いです。

ドラム叩くのも、人に会うのも、私にとっては大きなストレス発散の機会なので、

「出かけられない」という事よりも、こういう機会が失われる状況がいつまで続くのか分からない、

というのが精神的にしんどいなー、と思っています。

きっと同じように思われている方も多いのではないかと。

 

とにかく、非常に残念ですが今年はライブも一回も出ずに

一年が終わってしまうのがほぼ確定してしまいました。

せっかくのチャンスだったのになー。。。

【著者近影(2016年頃 鶏頭で素顔を隠すシャイ・ガイな著者)】

 

【大学楽園編】も佳境に入ってきました。

本当は3部構成で収める予定でしたが、全然尺が足りませんでした。

1つの記事を長くすれば何とかなったかもしれませんが、長過ぎるのもどうかと思いましたので、

このような形になってしまった事を、関係各所の皆様には深くお詫び申し上げます。

誰にも怒られていませんが、先に謝っておきます。<(_ _)>(笑)

あと、仕事が増えてきて更新が遅くなった事も併せてお詫び申し上げます。

それでは、【大学楽園編・旅立ち】です。

ご賞味下さい。

 

 

 

 

 

 

 

「新しくバンド始めたんやけど、ライブ観にけーへん?」

H君はJさん(男性)という新しい相棒とともに、ドラムレスのデジタルパンクユニットを始めていました。

俄然興味が湧いた私は即答してライブを観に行く事にしました。

 

話を聞くと、H君はその後クラブミュージックにハマり、DJもやるようになったとの事。

もともと新しい音楽をどんどん発見して私にも教えてくれていたので「H君らしいな」とも思いましたし、

何より彼が再びギターを持ってライブしている事を素直に嬉しく思いました。

そのユニットではH君はギターボーカル、Jさんがベースとシンセサイザーという体制で、

H君はそのユニットで活動するようになって日はまだ浅いようでしたが、

気の合う音楽仲間も増え、活き活きと活動している様が電話越しでも伝わってくるようでした。

 

彼らのライブはステージに2人しかいないとは思えない程の音圧で、

グランジやハードコアのような激しさもありつつ、テクノのような縦揺れ感もあり、

クラブミュージックとバンドミュージックが良い具合に融合していました。

 

ライブ後、私が今どういう活動をしているかをH君に伝えると、

彼らが仲間同士で主催しているライブイベントにも是非出て欲しい、と声をかけてくれました。

ジャンル的な違いこそあれ、「バンドで表現する」という事に対して共通項が多いと感じ、

私はメンバーにも相談して、その後、彼らのイベントに何度か出させてもらうようになりました。


H君達のイベントの色に合わせた曲をK君が書いてきてくれて、

K君の引き出しの多さに驚く事もあったり、その曲がH君達からの評判も上々だったり、

端から見れば「若者達が楽しんでいるだけ」のように見えたかもしれませんが、

この時間違いなく、私達は仲間同士で影響を受けながら、切磋琢磨し合っていました。

仲間がいる事の尊さ。

互いのスタイルを否定する事など決してなく、互いに尊重し合える。

ジャンルは違えど、精神的な強い繋がりを感じずにはいられませんでした。

 

 

 

私は大学4年になり、卒業が近づくとともに、いよいよ進路を決めるリミットも近づいていました。

この頃の私は「プロを目指す事」と「就職する事」を自分の中で両立させる事ができず、

「どちらか一つを選ぶしかない」と思い込んでおり、悩んでいました。

しかし悩んでいたのは、本当は「どちらを選ぶか」という事ではなく、

「本当にプロを目指す道を選んでいいのか。」という葛藤であり、

正直、「就職する」という事に対しては然程不安は抱いていなかったのです。

 

結果的に親の了承を得るために就職をせざるを得ない事になったのですが、

幸いにも就職先が見つかり、私は卒業後に東京に行く事になりました。

バンドメンバーの皆もそれぞれの事情で東京へ行く事を決め、

私達は卒業後も東京で「Quya」として活動する事を決めたのです。

 

そのまま関西に居て活動する事もできたのかもしれませんが、

東京でバンド活動する事への憧れや漠然とした期待感。

東京で初めてライブをしたあの日以来、そういったものが胸から離れる事はありませんでした。

当時は全て、その瞬間の情熱や勢いのままに生きていたのだと、つくづく感じます。

 

 

 

私達はライブ活動と自作のCD制作をしながらコツコツと活動を続け、

活動の基盤であった京都で、お世話になった人達への恩返しという「身勝手な気持ち」も込めつつ、

上京前に大々的にライブイベントを行う事にしました。

忘れもしない、2003年3月25日。

海外アーティストも使う事のある京都の「CLUB METRO」というクラブ(バンドライブもできる)で

H君達にも出演してもらって、それまでの活動の集大成にするとともに、

これからの活動に勢いをつけようと考えていたのです。

 

H君とJさんはイベントへの出演を快諾してくれるとともに、

東京へ行く私達のために、ライブSE(ライブが始まる時に流れる曲・効果音のこと。)を提供したい、

と言ってくれました。

私が「バンドは誰とやるかが大事だ」という信念を持っている事は過去にも書きましたが、

この時に「バンドの外に誰が居てくれるか」という事がいかに大切な事なのかを痛感しました。

バンドは人前に立つ時に、自分達だけで全てを成し得る事はできない。

演者として一緒にステージに立ってくれる音楽仲間、スタッフとして協力してくれる人、

ライブハウスの方々、応援してくれる人、活動を理解してくれる家族や恋人、友人。

たくさんの人の協力と理解がなければ、自分達は本当に無力なんだと気づかされたのです。

「お世話になった人達への恩返し」という「身勝手な気持ち」に、

独り善がりじゃない、本当の意味を持たせなければならない。

H君とJさんの心意気は、私にそう思わせてくれました。

 

普段からライブを観に来てくれていたお客さん達や友人達だけでなく、

イベント当日には今まで私達が行ってきたライブのどの会場よりも多くの方が足を運んでくれました。

私達が持ち得たレパートリーの全てをやり切り、アンコールまでいただいて、

その日のイベントは大成功に終わりました。

私は、バンドを続けていく決定的な機会に巡り会わせてくれたS君とK君だけでなく、

自分のバンド人生の始まりをともに迎えたH君とこの日を迎え、万感の思いで一杯でした。

 

「この日を境に、また新しい人生が始まるんだ。」

地元でコツコツと続けていたバンド活動へ別れを告げる寂しさとともに、

未知の場所で自分達の音楽がどれくらい通用するのか、という期待も胸にあり、

その複雑な気持ちにどうにかなってしまいそうでした。

しかし、ここまで自分で決めてきてしまったのだから、もう旅立つしかない。

今思えば、もしかしたら少し不完全な覚悟だったのかもしれませんが、

自分をこういった状況に追い込む事でしか前に進めないような気がしていた私は、

「俺はこれでいいんだ。」と自分に言い聞かせながら故郷を離れました。

 

そして舞台は東京へ。

 

私はそこで再び、様々な哀しい出来事と素晴らしい経験を味わう事になり、

「バンドマンとしての人生」のピリオドに向かって駆け抜けていく事になるのです。

 

 

 

【終章・守へ続く】

【著者近影(2017年頃 写真となるとすぐにメロイック・サインを構え、さらに変顔をキメる著者】

 

前回の「バンドは誰とやるかが大事」という所に共感をして下さる方が多く、

そういうスタンスの方達とバンドやっていたらどうなったかな、

などという妄想を楽しんでいる今日この頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。

 

雨ばかりの日々がようやく空けて、河川の氾濫や土砂崩れの心配が少し収まったと思いきや、

今度は真夏の暑さが再びやってきて、より熱中症に注意しなければいけなくなり、

コロナにも気を付けて生活しなければいけないし、

焼津の片田舎にいると空気は穏やかではありますが、

すぐ近くに命の危険が潜んでいるんだと思うと、逆にこの穏やかさが怖くも感じます。

この窮屈な日々を、私はこの連載で発散している部分もありますし、

読んで下さった方々が「次を楽しみにしてます」と言って下さるのは大変励みになります。

ほんの少しだけ、連載作家さんの気持ちが分かったような気になっています。

それでは第6回です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「Goofy(グーフィー)」というバンド名の由来は私も忘れてしまいましたが、

K君の書く彼らのオリジナル曲は、当時私がハマり始めていたUKの空気感を纏いながらも、

S君の書く独特の感性で紡がれた日本語詞がよくハマっており、

令和のこの時代に聞いても色褪せない曲で一杯でした。

当時の私は「Oasis」や「Rediohead」、「Kula shaker」や「Ride」などを聴くようになり、

自分のプレイスタイルも大きく変わった時期でした。

「Goofy」の楽曲は当時まさに私が求めていたものであり、

「彼らの曲をより表現豊かにするのが私の役目なんだ。」

くらいの気持ちを、早くも持ち始めていました。

 

この頃の記憶は少し曖昧な部分もあるのですが、

初めて彼らとスタジオで合わせた時の感触で何かを感じ取ってくれたのか、

私はライブサポートをする前にすぐに正式に加入させてもらう事になったと記憶しています。

ベースはK君の同級生であったO君が当初サポートをしていましたが、

その後も私の友人を含めた何人かのベーシストにサポートをお願いし、

一時期は私が居候していた友人(大学生になってからベースを始めた。)にも加入してもらいました。

 

私が加入した後も、主に京都や大阪で何度となくライブを行い、

着実に経験を積んでいきました。

私は「このバンドはもっと多くの人に知ってもらうべきだ」と思っていたし、

それに見合う魅力があると確信していたのですが、

S君やK君、SK君はとてもストイックで、常に次の事を考えているような感じがしていて、

「売れる」とか「売れない」とか、そういう事に意識がいきがちだった私とは違う、

別の視点・感覚でバンドの事を考えているようでした。

 

彼らと活動をする中で私は、

今までは密かに思うだけで現実的ではないと思っていた「プロを目指す」という夢に対して、

この頃になってようやく「真剣に向き合ってみよう」という気持ちになり、

彼らも少なからず「プロを目指す」という情熱を持っていたため、

当時は定番のやり方だった「デモテープをレコード会社に送りまくる」という方法をとりながら、

楽曲の洗練とライブ活動に勤しんでいました。

 

そんなある日、当時某レコード会社が開催していた「スーパーリーチ」という、

今聞くと「パチンコの激アツ演出かな?」という名称のバンドオーディションの一次審査に受かり、

二次審査のライブ審査まで進む事が決まったのです。

ライブ審査はレコード会社の方が実際にライブを観に来て審査する、という形式だったのですが、

学生のバンドのみを対象にしたオーディションで全国の中から選ばれた、という事もあり、

私は非常に興奮していました。

 

ちなみにその頃のS君はサラサラだった髪の毛を丸坊主に刈り上げて、

まるでトレインスポッティングのユアン・マクレガーのような外見になっていました。

彼は頭の形が非常に綺麗だったのです。

 

それはさておき、

「レコード会社の人が自分達のライブを観に来る」という事に

どのような心持でいればいいのかも分からないままに、

大阪で出演するライブで審査してもらう事が決まりました。

奇しくも、私が「Goofy」と初めて出会った、あのライブホールでのライブでした。

 

当日、本番前にレコード会社の方と挨拶をし、

「無理に意気込むんじゃなくて、本番はいつも通りにやろう。」

「たぶん、後先考えてもそれが一番いいはず。」

そういう気持ちでライブに臨みました。

ライブ後、レコード会社の方は、

「また審査結果については後日連絡するので。今日はお疲れ様でした。」

と、淡々とした感じで帰っていきました。

手応えが無かったわけじゃないけれど、果たしてこれで良かったのかも分からないまま、

ライブから数日が経った頃、S君のもとにレコード会社の方からの連絡が入りました。

 

 

 

「最終審査まで残る事になりました。」

「最終審査は渋谷のライブハウス『eggman』でライブイベントの形式でやります。」

「詳しくはまた後日。」

「あと、交通費や宿泊費、宿泊先は全部こちらで持つんでご心配なく。」

 

 

 

おいおいマジか、と。

こんな風に事が進むことあるのか、と。

これにはさすがに全員のテンションが上がりました。

「東京でライブする」という事自体に憧れもありましたし、

それがこういう形で実現するとは。。。

「プロになる」という事を明確に理解していたわけでもなく、

ただぼんやりと「上京する」ということが「プロに近づく事」となんとなく思っていた節があったので、

「渋谷でライブできる」という事だけで、私はあるはずのない階段を一段上った気持ちでいました。

 

実はこのオーディションには同じ大学の先輩方のバンドも最終審査まで進んでおり、

全5組のバンドのうち、同じ大学から2組が出る事になっていました。

このライブの結果如何でどうなるのかも分からなかったのですが、

(デビューとかが約束されたオーディションではなく、新人発掘の意味合いが強かったようです。)

純粋に東京に行ってライブが出来る、という事へのワクワク感と、

「自費じゃなくて新幹線に乗って東京まで行ける上に、ホテル代もかからない。」

という、学生ではあまり持ち得る機会のない感覚に少し酔ってもいたと思います。

 

そして、いよいよライブ当日。

緊張のせいなのかワクワクのせいなのか、

前日にほとんど眠る事もできないまま新幹線に乗って東京についた私達は、

誰が見たって「お上りさん」という空気感を全身に纏ったままライブハウスへ向かいました。

 

ジャンルの統一されたイベントではないので、他の出演バンドのリハーサルは刺激的であり、

なにより何組ものバンドの中から選ばれたバンドだけあって、

楽曲の良さ、テクニックに気圧されそうになりましたが、

自分達だって同じ土俵に立てるレベルにいるのだ、と思うと、

それは自然と自信に変わっていきました。

 

ライブは、自分達が持ちうるパフォーマンスの全てを出し切る事が出来ました。

前日の睡眠時間がゼロだったからこそ出せる世界観も相まって、(笑)

手前味噌ですが私個人としても良いパフォーマンスができた事を鮮明に覚えています。

私達は今まで、少なくとも自分達の縄張りであった京都や大阪でしかライブをしてこなかったので、

知り合いもほぼいない、オーディエンスも対バンも全く知らない人ばかり、

という状況でのライブ経験が無いに等しく、この日の経験は非常に大きなものになりました。

結果的にそのライブイベントをきっかけに何があったわけでもないのですが、

私の中は「卒業したら、東京で勝負してみよう。」という気持ちが芽生えていました。

そしてメンバーも皆、私に近い感情を持ったのではないかと思います。

 

地元に戻り、元の生活に戻った私達は今後について話し合いました。

その話し合いの中で、SK君がバンドを抜ける事になったのです。

私達は前向きに送り出す事にしましたが、SK君が脱退する事により、

今まで5人編成だったバンドが4人編成になる事、

ベーシストもやはり正式なメンバーを探すべきなんじゃないか、という事もあり、

これからの事を慎重に考える時間を作りました。

 

バンドの解散がいかに辛いものかを経験していた事もあり、

私はこのバンドが止まってしまう事だけは絶対に避けなければと思っていましたし、

S君とK君の作る素晴らしい楽曲を封印するのは忍びないと思っていました。

そして話し合いの末、S君、K君と私の3人は心機一転、

「Goofy」の楽曲を引き継いだ上で、正規メンバーのベーシストも迎える事にし、

さらにバンド名も新たにして再始動する事にしたのです。

 

ベーシストには、当時の私のアルバイト先で同僚だった同い年のA君を誘いました。

A君はベースの腕前が飛び抜けて上手い、というわけではなかったのですが、

バイト先の誰からも愛される優しく穏やかな人間性を持ちながらも、

「下ネタを言うとすぐに笑う」という最高のポテンシャルを秘めていたので、(笑)

彼とならバンド活動を上手くやれるんじゃないかと思って誘う事にしました。

A君は自信が無さそうでしたが、私達の誘いを受けてくれ、

晴れてバンドとしての基盤を固める事ができました。
 

4人編成のバンドに生まれ変わった私達は、

5人ではなく、4人だからこそ出来る表現を追求し、

バンド名を「Quya(クウヤ)」と改め、活動を開始しました。
 

そして、京都や大阪で再びライブ活動を始めた頃、

私のもとに約2年ぶりに、あのH君から突然連絡が来たのです。

 

 

 

【大学楽園編・旅立ちに続く】