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はの字4代目の「焼津でさつま揚げ作ってます。」

大阪の一般家庭で生まれ育った僕が、
何の因果か今は静岡の焼津でさつま揚げを売ってます。
創業大正10年。「はの字」の4代目に2020年に就任しました。
2021年5月にアメブロ再開。仕事に関する事よりも、趣味の事等について書いていきます。今後ともどうぞよろしく。

【著者近影(2018年頃 ライブバーのドラムセット用小部屋にスッポリ収まってビールを飲む著者】

 

「今年のM-1の予想はどうなりそうですか?」

というお声をいただくようになりました。

毎年の勝手な私の予想を支持して下さる方が意外なところにいらっしゃって、

そうなってくると妙なプレッシャーも勝手に感じてしまいますが、

自分の感覚を信じて、今年も予想していきたいと思います。

ですが、まだM-1は予選1回戦が始まったところ。

正直、本番は2回戦以降です。(前年に準決勝までいった組は1回戦が免除されるので。)

2回戦が始まった頃に、私の予想もボチボチ投下されると思います。

その前にこの連載も完結させなければならないし、先に「キング・オブ・コント」も控えてます。

(「キング・オブ・コント」は準決勝まで進んでます。)

しかもぼやぼやしていたら、仕事も繁忙期に入ってしまいそうなので、

少しペースを上げて更新していきたいと思います。

 

あと、仕事は仕事でちゃんとやってますのでご心配なく。(笑)

それでは第5回です。

 

 

 

 

 

 

 

私は大学入学後、大阪の実家から大学まで片道約1時間30分程度かけて通っていました。

結果的に5月頃には通学生活に早くも限界を感じたため、(笑)

高校の頃からの親友(同じ大学に進学)が一人暮らしをする家に、

なかば強引に居候のような感じで毎週月~金は居座るようになりました。

 

彼も含め、大学のバンド仲間と毎日つるむようになり、

私の学生生活は、ある意味「大学生らしい」楽しい日々になっていきました。

今になって思いますが、私は彼らと過ごす日々に「没頭」する事で、

無意識的に、地元のバンドを解散した事を忘れようとしていたのかもしれません。

 

大学のバンド仲間とも、この頃はそれなりにバンド活動をしていて、

京都の木屋町あたりのライブハウスやライブバーにちょくちょく出させていただいてました。

彼らとの演奏はいつも楽しかったので、無理なくバンド活動をやれていたのだと思います。

 

こうして、私は生活の基盤が大阪から京都に移っていきました。

週5で大学。

土日だけ大阪で終日アルバイト。

バイトで稼いだお金は全てバンドと大学生活に使う。

そんな生活を送っていました。

 

一方、T君は新たにバンドを立ち上げるため新しくギタリストとベーシストを募り、

私達が大学2年生になった頃、そのバンドが始動する事になりました。

顔見せ程度のコピーもほどほどに、すぐにT君のオリジナル曲の制作にとりかかり、

結成から2カ月程度で大阪のライブホールで初のライブが決まりました。

私の実家から近くて、私もツアーバンドのライブを観にちょくちょく行っていたところです。

大学の友人やバンド仲間も誘うと、観に来てくれました。

 

結成間もないバンドですし、実績もゼロ。

当日はオープニングアクトのようなポジションで、当然トップバッターでした。

 

T君は新しいバンドの始動に意気揚々、という感じだったのですが、

私は正直、このバンドで上手くやっていけるとは全く思えませんでした。

実力がないから、とか、メンバーの性格が合わないから、とか、そういう事ではなく、

「T君とバンドをやっていく事」に対して、私は将来を感じる事が出来なかったのです。

H君たちとも一緒にやっていた頃がやっぱり一番楽しかった。

その頃の事ばかりが頭に残ってしまい、

そういう気持ちを抱えたままバンド活動をする事、それを拭わなければ先にいけない事に、

前向きな気持ちを持つことが出来ないでいたのです。

私はこの日のライブの内容如何に関わらず、T君に脱退の意志を伝えようと思っていました。

 

こんな選択をする事になるなら、4人で最後に集まった時に、

T君にもH君にも「このバンドじゃなくなるなら、もう一緒にバンドはやらない」と伝えれば良かった。

後悔の気持ちで一杯でした。

それでもライブにはチケット代を払って観に来てくれているお客さんもいる。

ライブは全力で演奏して自分なりに区切りをつけよう、という気持ちで臨みました。

 

ライブ自体はバンドとして初めてにも関わらず良いライブが出来ました。

自分勝手な話ですが、私自身はケジメをつけたかのようにスッキリした気持ちになって、

「T君にちゃんと話をしたら、大学での生活をベースにこれからの事を考えよう」ぐらいに思っていました。

そして、あとは他の出演バンドのライブを楽しもうと、

観に来てくれた友人達と談笑していた時の事です。

 

 

 

「京都の某大学(私の通っていた大学)から来ました○○です。今日はよろしくお願いしまーす。」

 

 

 

そう言って演奏し出したバンドの曲に、

いつの間にか私は心を奪われてしまっていました。

 

こんなバンド、サークルにいたっけ?

私達が早く辞めちゃったから知らなかっただけか?

それにしても歌上手いし、曲良過ぎやろ。。。

 

私は「Goofy(グーフィー)」と名乗る彼らのライブの後、

熱が冷めやらぬままに楽屋へ直行し、

彼らにライブの感想を熱量たっぷりに伝えながら自己紹介をしました。

 

私が知らなかったのも当然。

ギターボーカルのS君以外は、

リードギターはS君の実の兄(以下、K君)、

サイドギターは他の大学の学生でS君とK君の共通の友人SK君、

ベースとドラムの方はサポートメンバーだったため、学内で活動をしているわけではなかったのです。

 

今度はどこでライブやるのか?

今度一緒に飯食べながら色々話聞かせてよ。

その場でまくしたてるように彼らに言った記憶があります。

彼らは個性的でありながら、純粋にバンドを、音楽を楽しんでいるような、

そんな雰囲気を醸し出しており、私が今まで出会った事のないタイプの人達でした。

そういった雰囲気にも強く惹きつけられた覚えがあります。

なんならS君には学内で会う可能性も十分にありましたが、

彼らにまた京都で会う約束をし、その日は解散しました。

そして、この日のS君・K君の兄弟との出会いは、

私の今後のバンド人生に大きな影響を及ぼす事になります。

 

 

 

 

 

 

後日、T君にバンド脱退の意志を伝えようと思っていたところ、

先にT君の方から私に連絡が来ました。

 

「ギターとベースの2人、バンド辞めたいって言ってきたわ。」

 

意外でした。

私が言うのもおかしな話ですが、ライブ後にそんな素振りは全く見せていなかったですし、

それなりに気が合いそうな人達だったのですが、

T君もハッキリした理由は聞き出せないまま、脱退の話を渋々承諾したようでした。

 

私は便乗するような形になってイヤでしたが、自分の気持ちも伝えた上で、

一旦バンドは解散して、お互いに時間を空けて考えよう、と提案しました。

T君もバンドが上手くいかない事に疲れてしまっていたようで、

バンドから離れて、他に好きな事に集中する事を決めたようでした。

 

数年前に熱意をもって始めた事が、どうしてこんな結末になるのか。

別に誰も悪意があったわけじゃない。

みんな好きなものを「好き」と言い、若さと情熱のままにバンドをやってきただけなのに、

ほんの些細なボタンの掛け違いがきっかけになって、このようになってしまった。

よく言う「音楽性の違いで解散」というのは、こういう事でもあるのか、と。

私はバンド活動を続ける事の難しさを、この時初めて、身をもって味わいました。

 

そしてこの時を最後に、私とT君がバンドを組む日は二度と来ることはありませんでした。

 

 

 

 

 

大学の友人達との親睦はより深まり、

私は大学のバンド仲間との活動もほどほどに楽しみながら学生生活を満喫していましたが、

やっぱりどこか「物足りなさ」のようなものを感じていました。

大学のバンド仲間との活動はあくまで趣味の範囲で、

「目指せデビュー!」とか、そういうテンションではなく、

オリジナル曲を作りもしましたが、コピー曲も同時にやっていましたし、

純粋に楽しいからやっている、という感じでした。

それがダメなわけでは決してなかったのですが、

もう一つ、真剣に音楽や「バンド活動」というものに向き合える環境が欲しかったのです。

 

今でも常々思っている事ですが、

バンドは「誰とやるか?」が一番大事だと思うのです。

もちろん演奏が上手いに越したことはありませんが、

技術的な事はバンドをやる上では後回しでかまわない、と私は思っています。

「誰が旗振り役なのか?」

「誰がバランサーなのか?」

「誰が縁の下の力持ちなのか?」

ステージの上でも下でも、そういう役割分担みたいなものが自然と出来上がる関係。

それが強制されたものではなく、収まるべくして収まっている関係であり、

仲が良いだけじゃない、お互いの事を認め合える関係。

理想を並べ立てただけのようにも読めますが、

「いいバンド」というのは、得てしてこういう風に出来上がっているものです。

 

おそらく私は、人生初のバンドが解散になってからずっと、

そういう仲間に出会いたい、そういう環境でバンド活動をしてみたい、

というのを無意識的に求めていたのだと思います。

しかし、そんな気持ちをどこかに抱えている事も、

当時は自覚すらしていませんでした。

 

ある日、早速S君とK君と一緒にご飯でも食べに行こうと思い連絡したところ、

「ちょうど近くでSK君とご飯食べてるから、よかったら来ないか?」と逆に誘われたのです。

私は着の身着のままで彼らのいる店を訪ねました。

S君とSK君は快く受け入れてくれ、挨拶も早々に私も食事をし始めました。

バンド結成に至る話や、今の状況を聞くと、

どうやらドラマーがなかなか定着せずに困っているようでした。

S君はもともとドラムも叩けたのですが、歌も上手くギターもそれなりに弾けた事から、

ギターボーカルをやる事になったようです。

優秀過ぎますね。
 

彼らのオリジナル曲は全て兄のK君が作曲し、弟であるS君が作詞をしていました。

私には彼らがあたかも「Oasis」のノエル・ギャラガーとリアム・ギャラガーのように感じられました。

あんな魅力的な曲を自分も演奏してみたい。

なんだったら、自分の方がサポートドラムの人よりもっといいドラムを叩ける自信がある。

そう思った私は彼らに打診しました。

「よかったら俺に、まずはサポートでかまわないからドラム叩かせてくれへんかな?」

S君は「K君もイイって言うと思う」と言い、SK君も快諾してくれました。

 

そして後日受け取ったオリジナル曲のデモテープを聴きながら、

私は新しいバンドが始まる予感を感じずにはいられなかったのです。

 

 

 

【大学楽園編・急に続く】

【著者近影(2017年春頃 写真を撮られると分かってメロイック・サインで急にイキりだす著者)】

 

「会社の社長という立場の人が、こんな事を発信していてもいいんでしょうか?」

という問い合わせは、現時点ではいただいてはいないのですが、

「もし来たらどうしよう。。。」という言い知れぬ不安を、

そんな沢山の人が読んで下さっている訳でもないのに

意味もなく感じてナーバスになっている今日この頃、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 

コロナウィルスの感染者数が爆発的に増加している中、

私も感染リスクが極力少なくなるような生活スタイルを日々心掛けております。

近所への外出ですら心配になるような状況ですし、

いつ、どこで、どうやって感染するか分からない不安な日々が続きますが、

「とにかく生きてさえいれば、なんとでもなる。」という気持ちで、

忍耐強く、引き続き過ごしていきたいと思っております。

みなさん、頑張りましょう。

私の「重厚と見せかけて実際は薄め」の歴史を笑い飛ばしてもらって、

笑いで少しでも皆さんの抵抗力が上がる事を祈りつつ、今日は第4回です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中学~高校と続けてきたバンドは3年目を迎え、

1999年の春、私は大学生になりました。

バンドメンバーもそれぞれ大学や専門学校に進学し、

もともと学校が違う中で活動していたので、活動スタイルは変わらないままでしたが、

ただ、オリジナル曲のジャンルだけはどんどん変わっていきました。

 

一方、私は大学で新しい友人も増え、学内の音楽サークルに入ろうと考えていました。

何しろ某有名バンドを輩出した音楽サークルだったので、

同学年の加入希望者がかなり多く、陰キャな私もこの時ばかりはワクワクしていました。

私は仲良くなった友人達とバンドを組み、一度はサークルのイベントに出演させていただいたものの、

サークルにもやはり縦社会は存在しており、

「あー、やっぱめんどくさいな、こういうの。。。」

と思ってサークルを1カ月も経たないうちに辞める事にしたのです。

なぜこのように先輩・後輩という関係の中で過ごすのがイヤだったのかと言いますと、

当時の私は完全に「井の中の蛙」だったのです。

自分のドラムの実力になまじ自信を持っていたが故に、

近くに自分より上手い人がいる事を認めるのが、

自分のアイデンティティを無くすようで怖かったのでしょう。

実際、サークル内に上手い先輩や同級生はたくさんいました。

恥ずかしい話ですが、「上手いもんは上手い」「美味いもんは美味い」という、

そういう事を素直に認めて受け入れる器量が当時の私には無かったのです。

 

そんなイキり倒しで恥ずかしい私だったのですが、「類は友を呼ぶ」とはよく言ったもので、

友人達も一様に「縦社会苦手派」だったので、バンドごとみんなで辞めて、

高校生の頃と同じように、学外で活動するようになりました。

つまり、当時の私は大学仲間と組んだバンドと、

中学生からのバンドの「二足の草鞋」を履いていたわけです。

 

大学の仲間との活動はとても新鮮で楽しいものでした。

出会って間もないはずなのに、何年も付き合いがあるかのように仲良くしてくれる友人達。

高校生の頃まではあまり交友関係に積極的でなかった私にとって、

「なんでみんなこんなイイ奴ばっかりなん?」

「みんな、今まで何をされてた方なの?」

という、和田アキ子のモノマネをしそうになるほど疑心暗鬼になりそうなぐらい、

大学のバンド仲間だけでなく、同期の仲間もみんなとてもいい人ばかりでした。

私は大学生活が楽しくて仕方がなくなり、大学の授業だけでなく、

プライベートもそのほとんどを大学の友人達と過ごすようになりました。

まさに「楽園」と言っても差し支えない、

当時の私にとってはそれぐらいキラキラした毎日だったのです。

ですが、今回の話はそこはメイン所ではございませんので、

彼らとの日々や活動についてはまた次回に触れる事にしましょう。

 

そういうわけで、私は楽しい学生生活を理由にバンド活動を疎かにする事もなく、

「大学」「バイト」「バンド」、この3つを

どれも私なりに一生懸命に向き合って生活をしていました。

 

バンドのライブも月に1回ぐらいのペースで続けていたのですが、

ある日のライブ後、ボーカルのT君が切り出しました。

「観に来てくれたツレが『どんな曲がやりたいバンドか分からん』って言ってた。」と。

しばらくの沈黙の後、T君は「やっぱり方向性決めた方がええんちゃうか。」と提案したのですが、

その日は「言いたい奴には言わせとったらええねん。」という感じで話が終わりました。

ですが、この事はT君だけではなく、メンバー全員の心にしこりを残しました。

 

後日、T君から私に連絡がありました。

「俺と一緒に新しくバンド作らへんか?」と。

突然の話に私は頭が追いつきませんでした。

「ちょっと待ってくれ。それって、今のバンドは辞めるってこと?」

「俺はもっと自分が好きな音楽がやりたい。そのためにはお前のドラムが必要や。」

こんなようなやり取りをしたのを覚えています。

私はT君が自分の腕を買ってくれている事は嬉しかったですが、

同級生で始めた人生初のバンドをこのような形で閉じなければいけなくなるかもしれない事に

なかなかまともな返事が出来ずにいました。

「とりあえず皆で話そうや。じゃないとH君もT君(ベース)も納得できへんやろし。」

 

それから数日後、ボーカルのT君の家に集まって話し合いの場がもたれました。

ギターのH君はT君と自分の書く曲の方向性の違いを分かってはいたものの、

気持ちは私に近く、このメンバーで始めたバンドを辞めたくはない、という気持ちが勝っていました。

僕にオリジナルのミックステープを作ってくれるような優しさのあるH君の事です。

「バンドで身を立てる」とか、そういう絵空事の前に、

「仲間」である事を外してはどうしても考えられなかったのでしょう。

ベースのT君は割とドライで、「バンド続けるなら続けるし、お前らに任せる」という感じ。

私も当初は「バンドを終わらせたくない」という気持ちはあったものの、

「これ以上、仲間同士でモメるのはイヤだ。。。」という気持ちが次第に強くなっていました。

最終的に、あとはT君とH君の気持ち次第、という雰囲気でした。

 

T君は新しいバンドをやる事を譲る事はなく、私をそのバンドに誘う事も譲る気はないようでした。

話が進む中、とうとうH君は今のバンドを解散する事を承諾しました。

「承諾」と言っても、決して納得していたわけではなく、渋々、むしろ、嫌々。

どうしようもなくて、仕方なく受け入れた、という感じだったと思います。

そしてH君も「それならば新たにバンドを始めよう」と決めたようで、

ドラムはやっぱり私にやってほしい、と声をかけてくれたのですが、

私はT君への返事も出来ていないし、H君にもすぐには返事ができないまま、

その日はなんとなく解散しました。

 

私としても、やはりこの日の事はショックでした。

生活の一部になっていたものが、その日を境に急に無くなってしまったような、

そんな喪失感を抱えたまま、T君宅の最寄り駅である阪急千里線・千里山駅まで歩きました。

 

その後、バンドメンバー全員が揃って集まる日は来ませんでした。

結局私は悩んだ末、どうする事が筋を通す事になるのか分からないまま、

H君にはとても悪いと思ったものの、

最初に話をくれた、T君が新たに始めるバンドに参加する事にしました。

H君と一緒に音を出す事は二度と来る事はありませんでしたが、

これはまた後々の話になりますが、H君とは違う形で数年後に再び関わり合う事になります。

 

そして季節は移ろい、大学2年になった頃、

私はT君が集めてきた新しいメンバーとともに新バンドを始め、

2カ月程度で最初のライブを行う事になるのですが、

このライブの日、私は意外な形でバンド人生の大きな転機を迎える事になるのです。

 

 

【大学楽園編・破に続く】

【著者近影(2018年秋頃 結婚式の余興リハーサルにて、虚ろな目で音のチェックをする著者】

 

話の流れ的に、私が高校生の頃の写真を載せられれば一番良いのですが、

なにしろ写真が一切手元にないので、ここ数年で撮っていただいた写真を載せざるを得ません。

どなたか私の映り込んだ写真を持っているよ、という方が奇跡的にいらっしゃいましたら、

是非とも当出版社(架空)にお寄せ下さい。

 

 

 

 

高校3年生になると大学受験で周りも騒がしくなる時ですが、

私は幸運にも「某大学の提携コース」という特殊なコースで高校生活を送っていたため、

学業の成績と内申点が良好であれば、内部受験をする事もなく某大学に進学できる状況にありました。

前編で書いたとおり、私は学内では目立たず、学業も比較的真面目に取り組んでいましたし、

進学については余程の事が無い限り、問題なく希望の学部に入れる成績は一応修めていたので、

親にも特に何も言われず、学外でのバンド活動も両立して行っていました。

もしかしたら、この時期の私が今までの人生の中で最も優秀であったのかもしれません。

いや、何より希望に満ちたエネルギーが体に溢れていたからなのでしょう。

上の写真の虚ろな目をした人が同一人物とは到底思えません。

 

そんなエネルギーに満ち溢れていた高校3年生の頃、

バンドメンバーのT君とH君がそれぞれ、初めてのオリジナル曲をスタジオにもってきました。

初めて自分の作った曲を皆に見せる、聞かせるというのは、

仲の良い間柄とはいえ、結構勇気のいる事だったかもしれません。

もし私が彼らの立場だったら、気恥ずかしさを覚えたはずだと思うからです。

 

T君のもってきた曲はストレートなロックナンバー。

H君のもってきた曲は「thee michelle gun elephant(以下「ミッシェル」)」の影響を色濃く残した

エッジの効いたロックナンバー。

今思えば、ですが、どちらも10代の私達らしいシンプルなロックナンバーでした。

私もこの2曲はお気に入りでした。

 

同時期、彼らがオリジナル曲をもってくる少し前に、

私達はライブハウスでの演奏デビューをしました。

H君は既にこの頃からライブハウスに入り浸っていたので、

その伝手でコピーバンドのライブイベントに出させてもらえる事になった、

というような経緯だったと思います。

私はライブをするとなっても、学校では秘密にしていて呼べる友達もいないし、

家族を呼ぶなんて以ての外でしたから、結局誰も誘えなかったのですが、

T君とH君は今でいうところの「陽キャ」タイプで友達もめちゃくちゃ多く、彼女もいたので、

彼らとベースのT君の呼んでくれた友達で結構埋まった記憶があります。

初めてのライブだったから、というのもあったかもしれませんね。

 

ちなみに言わなくても分かると思いますが、

私は「陰キャ」でした。今も然程変わってはいません。(笑)

 

 

 

話が前後しましたが、なんやかんやありまして、

私達は2年間のコピーバンド生活を脱して、オリジナルのロックバンドに羽化し始めました。

 

とはいえ、私達は音楽の専門的な知識を学んでいたわけではなかったので、

全てが独学、見様見真似。

楽譜を読む事も、私もヤマハの音楽教室に通っていたおかげで多少は出来ましたが、

それまでも基本的には耳コピしていましたし、楽譜におとす事もせず、

「メモんな。身体で覚えろ。」

という信条のまま楽曲制作に勤しんでいました。

この頃は楽曲の完成度を追求する事よりも、

とにかく曲を沢山作って早くオリジナル曲でライブがしたい、という気持ちで一杯でした。

粗削りな曲ばかりでしたが、こういう勢いがバンドにとって大事だったのだと思います。

 

オリジナル曲が7曲ほど出来上がった頃、文化祭前の夏の終わり頃だったでしょうか。

私は学内の友人にも、ついに外でバンド活動をやっている事を明かしました。

高校の文化祭でバンドコンテストをやる、という話が出た時の事です。

ありがちですが、「出たいけどドラムがいない」という友人がいたので、

私が手を挙げたのがきっかけでした。

手前味噌ですが、私は高校生の割には叩ける方だったので、友人も歓迎してくれましたが、

結果的にオーディションの段階で私達は落選したので、結局文化祭には出れませんでした。(笑)

ただ、これがあって他の学内の友人からバンドに誘われたり、

「今度ライブやる時観に行くわ!」と言ってくれたり、と、

学生生活に彩りが出てくるのがいささか遅すぎたように思いますが、

友人達との距離が縮まったように思います。

この文章を書きながら、おぼろげですが高校生の頃の記憶に色が付いてきました。

少なくともちゃんと学校には行って、友達もいたようです。(笑)

 

そして、いよいよオリジナル曲でライブハウスで演奏させてもらえる機会がきたのです。

忘れもしない、梅田のライブハウスでのイベントでした。

僕もこの時ばかりは学内の友人に声をかけて、6~7人が来てくれた記憶があります。

夜にライブハウス行くなんて、高校生にとってはドキドキでしかありません。青春です。

 

実はこのライブの演奏中の記憶がほとんどなくて、

ただ、みんな初めて聞くオリジナル曲にも関わらず異常に盛り上がっていた事だけ覚えています。

私も途轍もなくハイになっていたせいで、記憶があまりないのだと思います。

 

ライブが終わった後の達成感は代え難いものがありました。

「こんなに楽しいものなのか。」

「観る楽しさと演る楽しさは全然違う。」

「願わくば、俺は演る側で居続けたい。」

こうして皆、バンドにハマっていってしまうんだな、と。

この時に私の人生の方向が一つ決まったように思います。

 

このライブの後、メンバー皆が「ライブハウスにもっと出たい!」となり、

それに併せて曲作りも益々進んでいきました。

「バンドマンたるもの、かくあるべき」なんて事も全く分かっていないまま、

この世界に片足を突っ込み、この世界のキラキラした部分だけに囚われていた。

今思えば、そんな時期だったように思います。

 

高校生活も終わりが近づいた頃、

私達バンドメンバーは各々が、「バンドは順調に成長している」と思っていました。

しかし何事にも波があります。

山があれば谷があります。

 

曲はT君とH君が書いてくる、というスタイルは一貫していました。

しかし、多感な時期であった私達は、

「ミッシェル」への憧れが重なっていた時期を過ぎると、

それぞれがまた異なる音楽的嗜好を持つようになり、

それは次第にT君とH君の書く曲にも如実に表れるようになるのです。

T君はブラックミュージックやヒップホップに傾倒し、

H君はよりディープなロックやパンクに。

一方私は、変わらずミッシェルを愛聴しつつ「Blanky Jet City」等にハマっていました。

 

最初は曲の系統が違っていても全く問題ないと思っていました。

どんな曲であっても、カッコ良ければいい。

聞いてくれる人が盛り上がってくれればいい。

そう思っていました。

だからT君の曲もH君の曲も受け入れたし、何の疑問も抱かずに曲作りをしていたのです。

 

しかし少しずつ、でも確実に、彼らの音楽的嗜好の違いは、

私達の今後にヒビを入れ始めていたのでした。

そして私達がそれに気付いた頃には、

もはやこのメンバーでバンド活動を続ける事が出来なくなっていたのです。

 

 

 

(【高校地獄編】は今回で終了となります。次回より【大学楽園編】がスタートします。)