【連載第6回】なぜ私はドラムを選んだのか?【大学楽園編・急】 | はの字4代目の「焼津でさつま揚げ作ってます。」

はの字4代目の「焼津でさつま揚げ作ってます。」

大阪の一般家庭で生まれ育った僕が、
何の因果か今は静岡の焼津でさつま揚げを売ってます。
創業大正10年。「はの字」の4代目に2020年に就任しました。
2021年5月にアメブロ再開。仕事に関する事よりも、趣味の事等について書いていきます。今後ともどうぞよろしく。

【著者近影(2017年頃 写真となるとすぐにメロイック・サインを構え、さらに変顔をキメる著者】

 

前回の「バンドは誰とやるかが大事」という所に共感をして下さる方が多く、

そういうスタンスの方達とバンドやっていたらどうなったかな、

などという妄想を楽しんでいる今日この頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。

 

雨ばかりの日々がようやく空けて、河川の氾濫や土砂崩れの心配が少し収まったと思いきや、

今度は真夏の暑さが再びやってきて、より熱中症に注意しなければいけなくなり、

コロナにも気を付けて生活しなければいけないし、

焼津の片田舎にいると空気は穏やかではありますが、

すぐ近くに命の危険が潜んでいるんだと思うと、逆にこの穏やかさが怖くも感じます。

この窮屈な日々を、私はこの連載で発散している部分もありますし、

読んで下さった方々が「次を楽しみにしてます」と言って下さるのは大変励みになります。

ほんの少しだけ、連載作家さんの気持ちが分かったような気になっています。

それでは第6回です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「Goofy(グーフィー)」というバンド名の由来は私も忘れてしまいましたが、

K君の書く彼らのオリジナル曲は、当時私がハマり始めていたUKの空気感を纏いながらも、

S君の書く独特の感性で紡がれた日本語詞がよくハマっており、

令和のこの時代に聞いても色褪せない曲で一杯でした。

当時の私は「Oasis」や「Rediohead」、「Kula shaker」や「Ride」などを聴くようになり、

自分のプレイスタイルも大きく変わった時期でした。

「Goofy」の楽曲は当時まさに私が求めていたものであり、

「彼らの曲をより表現豊かにするのが私の役目なんだ。」

くらいの気持ちを、早くも持ち始めていました。

 

この頃の記憶は少し曖昧な部分もあるのですが、

初めて彼らとスタジオで合わせた時の感触で何かを感じ取ってくれたのか、

私はライブサポートをする前にすぐに正式に加入させてもらう事になったと記憶しています。

ベースはK君の同級生であったO君が当初サポートをしていましたが、

その後も私の友人を含めた何人かのベーシストにサポートをお願いし、

一時期は私が居候していた友人(大学生になってからベースを始めた。)にも加入してもらいました。

 

私が加入した後も、主に京都や大阪で何度となくライブを行い、

着実に経験を積んでいきました。

私は「このバンドはもっと多くの人に知ってもらうべきだ」と思っていたし、

それに見合う魅力があると確信していたのですが、

S君やK君、SK君はとてもストイックで、常に次の事を考えているような感じがしていて、

「売れる」とか「売れない」とか、そういう事に意識がいきがちだった私とは違う、

別の視点・感覚でバンドの事を考えているようでした。

 

彼らと活動をする中で私は、

今までは密かに思うだけで現実的ではないと思っていた「プロを目指す」という夢に対して、

この頃になってようやく「真剣に向き合ってみよう」という気持ちになり、

彼らも少なからず「プロを目指す」という情熱を持っていたため、

当時は定番のやり方だった「デモテープをレコード会社に送りまくる」という方法をとりながら、

楽曲の洗練とライブ活動に勤しんでいました。

 

そんなある日、当時某レコード会社が開催していた「スーパーリーチ」という、

今聞くと「パチンコの激アツ演出かな?」という名称のバンドオーディションの一次審査に受かり、

二次審査のライブ審査まで進む事が決まったのです。

ライブ審査はレコード会社の方が実際にライブを観に来て審査する、という形式だったのですが、

学生のバンドのみを対象にしたオーディションで全国の中から選ばれた、という事もあり、

私は非常に興奮していました。

 

ちなみにその頃のS君はサラサラだった髪の毛を丸坊主に刈り上げて、

まるでトレインスポッティングのユアン・マクレガーのような外見になっていました。

彼は頭の形が非常に綺麗だったのです。

 

それはさておき、

「レコード会社の人が自分達のライブを観に来る」という事に

どのような心持でいればいいのかも分からないままに、

大阪で出演するライブで審査してもらう事が決まりました。

奇しくも、私が「Goofy」と初めて出会った、あのライブホールでのライブでした。

 

当日、本番前にレコード会社の方と挨拶をし、

「無理に意気込むんじゃなくて、本番はいつも通りにやろう。」

「たぶん、後先考えてもそれが一番いいはず。」

そういう気持ちでライブに臨みました。

ライブ後、レコード会社の方は、

「また審査結果については後日連絡するので。今日はお疲れ様でした。」

と、淡々とした感じで帰っていきました。

手応えが無かったわけじゃないけれど、果たしてこれで良かったのかも分からないまま、

ライブから数日が経った頃、S君のもとにレコード会社の方からの連絡が入りました。

 

 

 

「最終審査まで残る事になりました。」

「最終審査は渋谷のライブハウス『eggman』でライブイベントの形式でやります。」

「詳しくはまた後日。」

「あと、交通費や宿泊費、宿泊先は全部こちらで持つんでご心配なく。」

 

 

 

おいおいマジか、と。

こんな風に事が進むことあるのか、と。

これにはさすがに全員のテンションが上がりました。

「東京でライブする」という事自体に憧れもありましたし、

それがこういう形で実現するとは。。。

「プロになる」という事を明確に理解していたわけでもなく、

ただぼんやりと「上京する」ということが「プロに近づく事」となんとなく思っていた節があったので、

「渋谷でライブできる」という事だけで、私はあるはずのない階段を一段上った気持ちでいました。

 

実はこのオーディションには同じ大学の先輩方のバンドも最終審査まで進んでおり、

全5組のバンドのうち、同じ大学から2組が出る事になっていました。

このライブの結果如何でどうなるのかも分からなかったのですが、

(デビューとかが約束されたオーディションではなく、新人発掘の意味合いが強かったようです。)

純粋に東京に行ってライブが出来る、という事へのワクワク感と、

「自費じゃなくて新幹線に乗って東京まで行ける上に、ホテル代もかからない。」

という、学生ではあまり持ち得る機会のない感覚に少し酔ってもいたと思います。

 

そして、いよいよライブ当日。

緊張のせいなのかワクワクのせいなのか、

前日にほとんど眠る事もできないまま新幹線に乗って東京についた私達は、

誰が見たって「お上りさん」という空気感を全身に纏ったままライブハウスへ向かいました。

 

ジャンルの統一されたイベントではないので、他の出演バンドのリハーサルは刺激的であり、

なにより何組ものバンドの中から選ばれたバンドだけあって、

楽曲の良さ、テクニックに気圧されそうになりましたが、

自分達だって同じ土俵に立てるレベルにいるのだ、と思うと、

それは自然と自信に変わっていきました。

 

ライブは、自分達が持ちうるパフォーマンスの全てを出し切る事が出来ました。

前日の睡眠時間がゼロだったからこそ出せる世界観も相まって、(笑)

手前味噌ですが私個人としても良いパフォーマンスができた事を鮮明に覚えています。

私達は今まで、少なくとも自分達の縄張りであった京都や大阪でしかライブをしてこなかったので、

知り合いもほぼいない、オーディエンスも対バンも全く知らない人ばかり、

という状況でのライブ経験が無いに等しく、この日の経験は非常に大きなものになりました。

結果的にそのライブイベントをきっかけに何があったわけでもないのですが、

私の中は「卒業したら、東京で勝負してみよう。」という気持ちが芽生えていました。

そしてメンバーも皆、私に近い感情を持ったのではないかと思います。

 

地元に戻り、元の生活に戻った私達は今後について話し合いました。

その話し合いの中で、SK君がバンドを抜ける事になったのです。

私達は前向きに送り出す事にしましたが、SK君が脱退する事により、

今まで5人編成だったバンドが4人編成になる事、

ベーシストもやはり正式なメンバーを探すべきなんじゃないか、という事もあり、

これからの事を慎重に考える時間を作りました。

 

バンドの解散がいかに辛いものかを経験していた事もあり、

私はこのバンドが止まってしまう事だけは絶対に避けなければと思っていましたし、

S君とK君の作る素晴らしい楽曲を封印するのは忍びないと思っていました。

そして話し合いの末、S君、K君と私の3人は心機一転、

「Goofy」の楽曲を引き継いだ上で、正規メンバーのベーシストも迎える事にし、

さらにバンド名も新たにして再始動する事にしたのです。

 

ベーシストには、当時の私のアルバイト先で同僚だった同い年のA君を誘いました。

A君はベースの腕前が飛び抜けて上手い、というわけではなかったのですが、

バイト先の誰からも愛される優しく穏やかな人間性を持ちながらも、

「下ネタを言うとすぐに笑う」という最高のポテンシャルを秘めていたので、(笑)

彼とならバンド活動を上手くやれるんじゃないかと思って誘う事にしました。

A君は自信が無さそうでしたが、私達の誘いを受けてくれ、

晴れてバンドとしての基盤を固める事ができました。
 

4人編成のバンドに生まれ変わった私達は、

5人ではなく、4人だからこそ出来る表現を追求し、

バンド名を「Quya(クウヤ)」と改め、活動を開始しました。
 

そして、京都や大阪で再びライブ活動を始めた頃、

私のもとに約2年ぶりに、あのH君から突然連絡が来たのです。

 

 

 

【大学楽園編・旅立ちに続く】