【著者近影(2020年秋頃 FUZZ-Tシャツを身に纏いドラムを演奏する著者)】
今回は少し長尺です。
掘り下げて書くとさすがに収まらないので、
これでも結構詰めて書いたつもりですが、結構長くなってしまいました。
いよいよ佳境になります。
ご賞味ください。<(_ _)>
赤坂のライブハウスで開催されたリリースパーティーには私達の他に3組のバンドが出演しており、
その中の一つのバンド「YoungSS」は、
オルタナティブなギターサウンドと、ボーカルのTさんのメロウな歌声が心地よい、
私が出会った事のない雰囲気のバンドでした。
ドラムは固定メンバーの方はおらず、サポートを頼む場合もあれば、
この日のライブのように打ち込みで演奏する事もある、
それも含めて初めて出会うタイプのバンドでした。
少なからずお互いに音楽的なシンパシーを感じた事もあってか、
バンドの知り合いもほとんど居なかった私達にとっても良縁だと思い、
このイベントをきっかけに連絡を取り合うようになりました。
リリースイベントの後、CDの販売をしながらライブ活動を続ける中で、
私は「バンド一本で勝負しよう。」という決意から就職先を退職し、
アルバイトをしながらバンド活動をする生活を始めました。
今の立場の私が新入社員に同じ事されたら、
「せっかく内定出して入社してもらったのに、こんなに早く退職しちゃうなんて悲しいぴえん。😢」
という風に思うような、会社に対して恩を仇で返すような事をしてしまったのですが、
当時は「本気でバンドやるなら今しかない」という気持ちが強く、親にも申し訳ないと思いつつも、
「自分の気持ちに正直に」という体のいい理由を自分自身にも刷り込みながら、
バンドに割く時間を増やす事に希望を抱いていました。
無事にアルバイト先を見つけ、夜勤で生活リズムを崩しつつも、
出来るだけバンドに自由に時間が割けるようにしようと思いながら生活を続け、
いくつかのライブハウスに出演させてもらえるようになり、
月に2回程度はライブしながら数カ月、それなりに順調に活動を続けていたつもりだったのですが、
Xデーというのは得てして突然やってくるもの。
S君とK君から「バンドを解散しよう。」という話を持ち掛けられたのです。
私は頭が真っ白になり、彼らが何を言っているのか、はじめは理解が出来ないでいました。
あまりに突然だった事もあり、私はしっかり話し合おうと提案をしたのですが、
S君とK君の意志は固く、彼らの気持ちが変わる事はありませんでした。
解散話の後、私はS君とK君に対して哀しみとも憎しみとも違う、
「なんでやねん。。。」という言葉しか出てこない複雑な気持ちになり、
バイトも休み、途方に暮れていました。
バンドは生き物だから、何があってもおかしくない。
だから、バンドを解散したいと思ったS君やK君が悪いわけでは決してない。
今までもバンドの解散は経験してきた。
それが哀しい事もよく知っている。
それならまた新しい一歩を踏み出せばいい、と思えばいいはずなのに、
なぜ私は何が哀しいのか、何が残念なのか、
何に対して絶望し、途方に暮れているのか、
アパートの窓越しの空を日がな一日眺めながら、
就職活動時の自己分析よりも時間をかけて深く考え、
そして気付いたのです。
結局私は、S君とK君の才能に寄りかかっていただけなのだ、と。
彼らの才能をもってすれば、自分の道も切り開かれていくかもしれない。
自分の力よりも、彼らの力に期待をし、それを知らず知らずのうちに押し付けていたのだ、と。
彼らの望むバンドとはそういうものではない。
もっと根源的な、衝動や情熱が互いにぶつかり合って生まれてくるものを楽しむものであって、
本質的には自分達以外の誰かのためにやる事ではないのだ、と。
思い起こせば、私のバンド人生は友人に誘われた事から始まり、
その後も私自身が主体的にバンドを動かしていった事は一度もありませんでした。
素晴らしいと思える歌い手やギタリストが近くにいて、彼らを後ろから支える事。
ステージでライトを浴びる彼らの姿を、私だけが後ろから観れる事。
その事に喜びや矜持のようなものを持っているのが私。
私がなぜドラムを選ぶ事になり、こんなにも長くドラムと付き合える事になったのか。
それは私が本来持っている性格や嗜好がそうさせていたのか、あるいは、
ドラムに出会い、バンドを続けていく中で、今の私が構築されていったのかもしれないと、
この時に気付く事ができたのです。
S君やK君が求めているドラマーは、この時のような私ではなかった。
ただそれだけの事。
でも、それゆえに決定的な理由でもあったのです。
私は自分でも解散に納得し、当時狭いアパートで一緒に暮らしていたベースのA君とも話をして、
バンドの解散に応じる事にしました。
私がバンドに誘った手前、A君にも申し訳ない気持ちで一杯でした。
A君はバンド活動の傍ら、アルバイトをしながら資格の勉強をする実直な男でした。
A君は解散を機に東京を離れ、地元の神戸に戻って資格の勉強を続けると言い、
解散後にはアパートを離れていきました。
解散を決めたものの、その後にいくつかライブが決まっており、
「Quya」として最後のライブをする事になったのが、
奇しくも私達が最初に門戸を叩いた「渋谷屋根裏」でした。
その時には既に解散する事に後悔もなく、
メンバーの皆が吹っ切れた気持ちになっていた事もあってか、
観客側にどう映ったか定かではありませんが、
ラストライブの手応えは、演者である私達には確実に素晴らしかったと感じられるものでした。
京都で大勢の人達に観送ってもらった事に対する申し訳ない気持ちや、
バンド仲間のH君やJさんへの申し訳ない気持ちを持ちながらも、
バンドとは生き物であり、得てしてこういうものだという事を自分に言い聞かせながら、
全てを修めるかのように、その日は打ち上げで飲み明かしました。
ちなみに解散後もS君とK君とは仲良くしており、結婚式にも出席してくれました。
ここ数年は会う機会もめっきり無くなってしまいましたが、
彼らは今も東京で「VATO」というバンドで活動を続けています。
「Quya」でのバンド活動が終わり、
1カ月程、私はアルバイトをしながらのんびり過ごしていました。
それまで「Quya」に全てを懸けていた私にとっては「燃え尽き症候群」のような状態で、
これからどうしようか、そういう事もあまり考える気にはなれなかったのです。
バイト先で友人も出来、それなりに楽しくやっていましたし、
大学時代の友人にも休みの日を利用して会えるようになったり、
今の生活もこれはこれで悪くないかもしれないな、とさえ思うようになっていました。
自分が東京に来た事の意味を深く掘り返してしまうのが怖かった、というのが本音でしたが、
それと向き合う事は、当時の私にとっては自殺行為に等しかったのです。
それでもやっぱりドラムが好きで、バンドが好きな気持ちに偽りはない。
だからまたバンドが出来るのならやりたい。
願わくば長く活動を続けられるバンドがいい。
でも私にとって大切な事は、私が観たい後ろ姿が目の前にあるかどうか。
そういう人達に果たして出会えるのか・・・。
そんな風に、決して能動的にはならず、受動的で消極的な甘い考えのまま、
漠然と日々を過ごしていた私のもとに、
「YoungSS」のギターボーカル・Tさんからメールが来ました。
結果からいうと、Tさんは私をドラマーとして迎えたい、と言ってくれたのです。
永らく固定のドラマーが不在だった事、
また、私の腕を少なからず買ってくれていた事もあり、声をかけてくれたようでした。
「Quya」が解散になった直後にそういう話をするわけにもいかず、
気を遣って間を空けて連絡をくれた事も嬉しく、
バンド活動を何もしていない今よりも、自分を必要としてくれる人がいるのであれば、
自分が出来る限りの事をやってみよう、と思い、
私は「YoungSS」に当初はサポートとして加入させてもらう事になりました。
「YoungSS」の楽曲は全てTさんが作詞・作曲をされており、
さらにTさんはドラムに対して強いこだわりを持っていました。
「ドラムに」というよりも、曲を構成する一つ一つの要素全てに対して、
確固たるビジョンを持ったうえで創作をするタイプの方で、
私がそれまで一緒に演奏してきた人達の誰ともタイプが異なる人だったのです。
いくつかのデモ音源をもらい、自宅でもアルバイトの通勤中も聴き続けて曲を頭に叩き込みました。
ギターのMさんもベースのSさんもとても気さくな人達で、私の事を快く迎え入れてくれました。
「YoungSS」のメンバーは私より1つ2つ年上だった事もあり、
長男である私にとっては、初めて兄のような存在が出来たようで、とても居心地が良かったのです。
その後ライブでのサポートを経て、最終的にとある夜にTさんとMさんが住む家で始まった
「麻雀で一位になったら正式メンバーになれる」選手権にて見事一位を獲得し、
私は(麻雀の)実力で正規メンバーの椅子を勝ち取りました。(笑)
私が正式メンバーになった選手権の少し前に戻りますが、
Tさんから驚くべき事を伝えられました。
「実は、『Quya』と一緒に参加したCDを聴いた『須藤晃』という人から、
来年リリースされる『尾崎豊』のトリビュートアルバムに参加しないか、と言われている。」
私は驚き過ぎて逆に
「ほほう。。。」
ぐらいのリアクションしか出来ませんでした。
『尾崎豊』といえば誰もが知る伝説のシンガー。
道を通ってこなかった私ですら、「十五の夜」や「卒業」はある程度そらで歌えます。
そんな人のトリビュート盤に参加できるなど、またとない機会です。
私は「そのレコーディングに参加するの、僕でいいんですか?」と不安になりましたが、
「むしろお願いしたい。」と言ってくれたTさんの期待に応えたい想いもあり、
正式メンバーになる前でしたが、レコーディングへの参加をさせていただく事が決まったのです。
(ちなみにリリースされたトリビュート盤には、当然ですが私は旧姓でクレジットが載っています。)
まだ実力不足だったとはいえ、過去のレコーディングでの失敗を教訓に、
私なりに求められる最大限のプレーをしました。
全てのアレンジを行ったTさんのこだわりは強く、正直100%応えられたわけではなかったですが、
それでもなんとかレコーディングは無事に終える事ができました。
翌年、私がバンドに正式に加入した後に、
このトリビュート盤のリリースを記念したライブイベントが、
今は無き「渋谷AX」で開催される事になり、私達も出演させていただく事が決まりました。
当時リリースされたトリビュート盤は2種類あり、
私達のようなインディーズバンドが参加したものが1枚、
もう1枚は「Mr.Children」や「宇多田ヒカル」等、錚々たるメジャーアーティストが参加したものがあり、
ライブイベントには「斉藤和義」さんも参加されていました。
憧れのメジャーアーティストの演奏を間近で勉強できるまたとないチャンス。
それ以上に、同じ日に同じステージに立てる喜び。
ライブを観に来られる、おそらく尾崎豊を敬愛しているファンの方々がどう感じるかの不安よりも、
それらの高揚感が圧倒的に上回っていました。
大勢のオーディエンスの前での演奏も無事に果たし、プロの方々の演奏を勉強させてもらい、
私は自分の力ではない事を重々承知しつつも、
何か少し明るい未来が見えたような、そんな気分になっていました。
それからの活動は順調でした。
「YoungSS」はその後、主に下北沢を中心にライブ活動をしていき、
特に「下北沢CLUB251」はホームと呼べる程お世話になり、
そこでは多くの先輩方と出会い、また同世代で切磋琢磨できるバンド仲間との縁を沢山もらいました。
「YoungSS」はTさんを中心にした「ワンマンバンド」のような体を成してはいましたが、
メンバーはTさんの旗振りに異論はなく、皆が皆フランクな間柄で活動は順調でした。
一方で、私はバンド仲間や先輩方との交流に積極的であったため、
ライブハウスにも足繫く通い、先輩方のライブで手伝いをさせてもらったり、
バンド仲間のライブを観に行って打ち上げまで参加したり、
関西で出来ていた事が再び出来るようになった喜びから、充実した日々を送っていました。
約2年間、私はそうして「YoungSS」のメンバーとして活動をし、
その間に自主製作盤のリリースだけでなく、
インディーズレーベルからのリリースも経験させてもらいました。
レコーディングで苦しむ経験もありましたが、
周りにも支えられ、かけがえのないバンド生活を送らせてもらっていたと思います。
しかし、紆余曲折あってギターのMさんがバンドを脱退する事になり、
私にとっての「YoungSSはこの4人でなければYoungSSではない。」という思いから、
私もMさんの脱退後しばらくしてすぐに脱退をする事にしました。
Tさんは引き止めてくれましたが、この頃にはもうメンバー皆に情があった私にとって、
Mさんが脱退してしまう、という事実は非常に堪え難く、
「誰と一緒にやるか」という信念を曲げてまでバンド活動を続ける選択はできませんでした。
私自身、この頃はTさんの期待に100%応えられない自分のプレーに
少し自信を無くしていた、という事も要因にはありました。
Tさんに応える事が一番大事な事ではなくなっていましたし、
このメンバーだから続けたいと思っていましたが、
失意の中にある私に手を差し伸べてくれたTさんへの恩義から、
期待に応える事が私がバンドにいる意味の一つであった事もまた、間違いのない事実だったのです。
それが揺らいでいたところにMさんの脱退。
運命というものがあるのであれば、これもまた運命。
私の選択の連続の先がここだったと解釈するのであれば、それもまた必然。
私は最早、流れに逆らう事はせず、TさんとベースのSさんに脱退の意志を伝え、
その時に決まっていた最後のライブ予定を期に送り出してもらう事になりました。
希望に満ちて降り立った東京で焦燥感まみれの日々を送り、
それでも、別れがあった以上に多くの出会いに恵まれ、
出会いによって救われ続けてきた私のバンドストーリーは、
いよいよ次回で最終回となります。
あと一話、お付き合い下さい。
【終章・離に続く】