はの字4代目の「焼津でさつま揚げ作ってます。」 -3ページ目

はの字4代目の「焼津でさつま揚げ作ってます。」

大阪の一般家庭で生まれ育った僕が、
何の因果か今は静岡の焼津でさつま揚げを売ってます。
創業大正10年。「はの字」の4代目に2020年に就任しました。
2021年5月にアメブロ再開。仕事に関する事よりも、趣味の事等について書いていきます。今後ともどうぞよろしく。

【著者の影近影(2021年秋頃 実家の庭で自分影絵をして遊ぶ著者)】

 

いよいよ最終回です。

いきなり始めた私の話に長々とお付き合いいただきありがとうございました。

10月に入る前に終わらせる、という目標も達成できました。

私はこれからも人前で演奏する・しないという事に囚われず、

ドラムと付き合っていきたいと思います。

それでは最終話、どうぞご賞味下さい。<(_ _)>

 

 

 

 

 

 

 

「YoungSS」を脱退した私は、同じく脱退したMさんに

もう一度、一緒に新しくバンドを始めませんか?と打診をしました。

Mさんは時間をかけて考えてくれて、一緒にバンドを立ち上げる事にしました。

その後メンバー探しに奔走し、何人かの方と顔合わせをして

なんとかバンドの体を成しはしたものの数カ月で頓挫してしまい、

改めてバンドを「誰とやるか」という事の大事さや、

その難しさを痛感する日々を送っていました。

 

そんなある日、「YoungSS」時代にお世話になっていた

下北沢CLUB251の店長Kさんから、私宛に電話が入りました。

 

「I君(私の旧姓)、今バンドやってる?」

「いえ、今はMさんと2人でどうしよっか、って話してるとこで、まだバンドらしい事は特に。」

「ならちょうど良かった。ちょうどギターとドラムを探してるバンドがいてさ。」

「そんなちょうどいいバンドが?!(笑)」

「そうそう。で、今度の日曜日にうちでライブやるから、よかったら2人で一緒に観に来てよ。

 君たちと合う気がするんだよね。」

「ありがとうございます。是非行かせてもらいます。」

 

という事で、私とMさんは週末にCLUB251へ、そのバンドのライブを観に行きました。

そのバンド「sleepydog」は、ギターボーカルのT君がリーダーを務め、

ベースのD君以外のメンバーは毎回サポートメンバーで活動をしている、との事。

ライブパフォーマンスも良く、キャッチーなメロディーラインが印象的なギターポップバンドで、

コミュ力抜群のT君は気さくで優しい男で、ベースのD君は陰キャタイプ故に私とも気が合いそうな感じ。

店長のKさんはよくよく私達の事を理解してくれていたのだと思いました。

ライブ後に挨拶を交わした後、まずは一緒に合わせてみてから考えよう、という事になり、

いくつかの楽曲が入ったデモ音源をもらい、数日後にスタジオで合わせる事になりました。

 

スタジオでの感触はとてもよく、T君もD君も是非メンバーになって欲しい、と言ってくれました。

色んな縁が繋がって、再び良いメンバーに巡り会えた事は私もとても嬉しかったのですが、

私はその頃既に、東京で過ごす事の出来る期間にリミットがあったのです。

その事はMさんにも言っていませんでした。

それを言ってしまうと、せっかくの話に水を差してしまう。

それでもリミットまで1年程度はあったため、

私は「よければサポートメンバーとして、是非一緒にやらせて欲しい。」と伝え、

Mさんも私とともにサポートメンバーとして入る事にし、T君とD君もそれを了承してくれました。


毎月2本程度のペースでライブを続け、

毎週のようにスタジオに入り、時には飲みに行ったり、

私は当時住んでいた中野坂上から下北沢までを、毎週楽器を担ぎ、

雨が降らない限りは歩いて通っていました。

当時、その行き帰りに何の苦も感じなかったのは、

もうすぐ離れる事が分かっている街の風景と、

そこを歩く時間に愛しさを感じていたからに他なりません。

 

恋人(今の妻です。)との結婚が決まっていた私にとって、

これが最後のバンドマンとしての生活になる。

今までは走りっぱなしで周りの事など見ている余裕は何もないと思っていたけれど、

こうして歩いてみると、今まで走ってきた中でもちゃんと景色は見ていた事、

ちゃんとそれらに愛着が湧いていた事に、

往復の道中になんだか目頭が熱くなってしまう事も幾度かありました。

 

T君達が「正式にメンバーになってくれればいいのに。」と何度も言ってくれた事に対し、

私はなかなかハッキリした返事が出来ずにいましたが、

彼らに急に迷惑をかけてしまうのも忍びない、と思い、

皆に私が活動できるリミットについて、ついに伝える事にしました。

 

「残念だ」と言ってくれた事に喜びを感じるのもおかしな話ですが、

それだけ私の事を認めてくれていた事が素直に嬉しく、

私が結婚する事も心からお祝いしてくれました。

残された期間の中で、私はライブの経験だけでなくシングルCDのリリースにも携わらせてもらい、

私のレコーディング経験の中でもベストテイクだったと自信を持って言える結果を残す事が出来、

そういった機会をくれた彼らに感謝せずにはいられませんでした。

 

活動期間の終盤、私はスタジオに足を運べなくなる程の憂鬱な精神状態に陥ってしまい、

彼らに結局迷惑をかけてしまいました。

新しい生活への期待と不安だけでなく、

「もうバンド生活に全てを割く事はないんだな。」という現実を受け止める事に対して、

私はあまりにも弱かったのです。

それでも次のドラマーの方が決まっていた事や、Mさんが正式加入する事も決まっていたため、

私はその時点で脱退をさせてもらい、彼らの活動を見守る事にしました。

 

そしてそれと同時に、私の東京でのバンド生活は幕を閉じたのです。

 

 

 

 

いくつもの出会いと別れ、というのは誰の人生にも訪れるものです。

私が最初に夢見た未来とは常に少し違う未来を歩き続け、

10代の頃の私がなりたかった私には終ぞなれませんでしたが、

バンドを始めてからの約10年に対して、不思議と後悔の気持ちはありません。

たくさんの人に迷惑をかけ、たくさんの人に支えてもらい、

自慢ではないけれど、そうそう出来ない経験をさせてもらったと思いますし、

それはちゃんと私の中で今でも鮮明に焼き付いています。

 

なぜ私はドラムを選んだのか?

 

「なぜ」ではなく、

私がドラムを選んだ「から」、こういう人生が待っていたのでしょう。

そしておそらく今も、

ドラムを選んだ私だからこそ歩める人生を歩んでいるのかもしれません。

 

最後に、敬愛するバンドGrapevineの名曲「風待ち」より、

この連載に相応しい一節を借りて締めさせてもらいたいと思います。

 

 

 

『目指すもののカタチは少しずつ変わってく

 まわりが思うほど じつはそんな器用じゃない

 

 ~~~

 

 みんな知らぬの間に時を過ごしてるのかな

 思い描いたとおり? だったかな

 また夏の感じがしました

 明日も晴れだったなら会いに行こうかな』

 

 

 

 

 

 

 

ご愛読ありがとうございました!服部先生の次回作にご期待下さい!

尚、単行本(上下巻)の発売予定はございません!

【著者近影(2020年秋頃 FUZZ-Tシャツを身に纏いドラムを演奏する著者)】


今回は少し長尺です。

掘り下げて書くとさすがに収まらないので、

これでも結構詰めて書いたつもりですが、結構長くなってしまいました。

いよいよ佳境になります。

ご賞味ください。<(_ _)>

 

 

 

 

 

 

 

赤坂のライブハウスで開催されたリリースパーティーには私達の他に3組のバンドが出演しており、

その中の一つのバンド「YoungSS」は、

オルタナティブなギターサウンドと、ボーカルのTさんのメロウな歌声が心地よい、

私が出会った事のない雰囲気のバンドでした。

ドラムは固定メンバーの方はおらず、サポートを頼む場合もあれば、

この日のライブのように打ち込みで演奏する事もある、

それも含めて初めて出会うタイプのバンドでした。

少なからずお互いに音楽的なシンパシーを感じた事もあってか、

バンドの知り合いもほとんど居なかった私達にとっても良縁だと思い、

このイベントをきっかけに連絡を取り合うようになりました。

 

リリースイベントの後、CDの販売をしながらライブ活動を続ける中で、

私は「バンド一本で勝負しよう。」という決意から就職先を退職し、

アルバイトをしながらバンド活動をする生活を始めました。

今の立場の私が新入社員に同じ事されたら、

「せっかく内定出して入社してもらったのに、こんなに早く退職しちゃうなんて悲しいぴえん。😢」

という風に思うような、会社に対して恩を仇で返すような事をしてしまったのですが、

当時は「本気でバンドやるなら今しかない」という気持ちが強く、親にも申し訳ないと思いつつも、

「自分の気持ちに正直に」という体のいい理由を自分自身にも刷り込みながら、

バンドに割く時間を増やす事に希望を抱いていました。

 

無事にアルバイト先を見つけ、夜勤で生活リズムを崩しつつも、

出来るだけバンドに自由に時間が割けるようにしようと思いながら生活を続け、

いくつかのライブハウスに出演させてもらえるようになり、

月に2回程度はライブしながら数カ月、それなりに順調に活動を続けていたつもりだったのですが、

Xデーというのは得てして突然やってくるもの。

 

S君とK君から「バンドを解散しよう。」という話を持ち掛けられたのです。

 

 

 

私は頭が真っ白になり、彼らが何を言っているのか、はじめは理解が出来ないでいました。

あまりに突然だった事もあり、私はしっかり話し合おうと提案をしたのですが、

S君とK君の意志は固く、彼らの気持ちが変わる事はありませんでした。

 

解散話の後、私はS君とK君に対して哀しみとも憎しみとも違う、

「なんでやねん。。。」という言葉しか出てこない複雑な気持ちになり、

バイトも休み、途方に暮れていました。

 

バンドは生き物だから、何があってもおかしくない。

だから、バンドを解散したいと思ったS君やK君が悪いわけでは決してない。

今までもバンドの解散は経験してきた。

それが哀しい事もよく知っている。

それならまた新しい一歩を踏み出せばいい、と思えばいいはずなのに、

なぜ私は何が哀しいのか、何が残念なのか、

何に対して絶望し、途方に暮れているのか、

アパートの窓越しの空を日がな一日眺めながら、

就職活動時の自己分析よりも時間をかけて深く考え、

そして気付いたのです。

 

結局私は、S君とK君の才能に寄りかかっていただけなのだ、と。

彼らの才能をもってすれば、自分の道も切り開かれていくかもしれない。

自分の力よりも、彼らの力に期待をし、それを知らず知らずのうちに押し付けていたのだ、と。

彼らの望むバンドとはそういうものではない。

もっと根源的な、衝動や情熱が互いにぶつかり合って生まれてくるものを楽しむものであって、

本質的には自分達以外の誰かのためにやる事ではないのだ、と。
 

思い起こせば、私のバンド人生は友人に誘われた事から始まり、

その後も私自身が主体的にバンドを動かしていった事は一度もありませんでした。

素晴らしいと思える歌い手やギタリストが近くにいて、彼らを後ろから支える事。

ステージでライトを浴びる彼らの姿を、私だけが後ろから観れる事。

その事に喜びや矜持のようなものを持っているのが私。

私がなぜドラムを選ぶ事になり、こんなにも長くドラムと付き合える事になったのか。

それは私が本来持っている性格や嗜好がそうさせていたのか、あるいは、

ドラムに出会い、バンドを続けていく中で、今の私が構築されていったのかもしれないと、

この時に気付く事ができたのです。

 

S君やK君が求めているドラマーは、この時のような私ではなかった。

ただそれだけの事。

でも、それゆえに決定的な理由でもあったのです。

 

私は自分でも解散に納得し、当時狭いアパートで一緒に暮らしていたベースのA君とも話をして、

バンドの解散に応じる事にしました。

私がバンドに誘った手前、A君にも申し訳ない気持ちで一杯でした。

A君はバンド活動の傍ら、アルバイトをしながら資格の勉強をする実直な男でした。

A君は解散を機に東京を離れ、地元の神戸に戻って資格の勉強を続けると言い、

解散後にはアパートを離れていきました。

 

解散を決めたものの、その後にいくつかライブが決まっており、

「Quya」として最後のライブをする事になったのが、

奇しくも私達が最初に門戸を叩いた「渋谷屋根裏」でした。

 

その時には既に解散する事に後悔もなく、

メンバーの皆が吹っ切れた気持ちになっていた事もあってか、

観客側にどう映ったか定かではありませんが、

ラストライブの手応えは、演者である私達には確実に素晴らしかったと感じられるものでした。


京都で大勢の人達に観送ってもらった事に対する申し訳ない気持ちや、

バンド仲間のH君やJさんへの申し訳ない気持ちを持ちながらも、

バンドとは生き物であり、得てしてこういうものだという事を自分に言い聞かせながら、

全てを修めるかのように、その日は打ち上げで飲み明かしました。

 

ちなみに解散後もS君とK君とは仲良くしており、結婚式にも出席してくれました。

ここ数年は会う機会もめっきり無くなってしまいましたが、

彼らは今も東京で「VATO」というバンドで活動を続けています。

 

 

 

 

 

 

「Quya」でのバンド活動が終わり、

1カ月程、私はアルバイトをしながらのんびり過ごしていました。

それまで「Quya」に全てを懸けていた私にとっては「燃え尽き症候群」のような状態で、

これからどうしようか、そういう事もあまり考える気にはなれなかったのです。

バイト先で友人も出来、それなりに楽しくやっていましたし、

大学時代の友人にも休みの日を利用して会えるようになったり、

今の生活もこれはこれで悪くないかもしれないな、とさえ思うようになっていました。

自分が東京に来た事の意味を深く掘り返してしまうのが怖かった、というのが本音でしたが、

それと向き合う事は、当時の私にとっては自殺行為に等しかったのです。

 

それでもやっぱりドラムが好きで、バンドが好きな気持ちに偽りはない。

だからまたバンドが出来るのならやりたい。

願わくば長く活動を続けられるバンドがいい。

でも私にとって大切な事は、私が観たい後ろ姿が目の前にあるかどうか。

そういう人達に果たして出会えるのか・・・。

 

そんな風に、決して能動的にはならず、受動的で消極的な甘い考えのまま、

漠然と日々を過ごしていた私のもとに、

「YoungSS」のギターボーカル・Tさんからメールが来ました。

 

結果からいうと、Tさんは私をドラマーとして迎えたい、と言ってくれたのです。

永らく固定のドラマーが不在だった事、

また、私の腕を少なからず買ってくれていた事もあり、声をかけてくれたようでした。

「Quya」が解散になった直後にそういう話をするわけにもいかず、

気を遣って間を空けて連絡をくれた事も嬉しく、

バンド活動を何もしていない今よりも、自分を必要としてくれる人がいるのであれば、

自分が出来る限りの事をやってみよう、と思い、

私は「YoungSS」に当初はサポートとして加入させてもらう事になりました。

 

「YoungSS」の楽曲は全てTさんが作詞・作曲をされており、

さらにTさんはドラムに対して強いこだわりを持っていました。

「ドラムに」というよりも、曲を構成する一つ一つの要素全てに対して、

確固たるビジョンを持ったうえで創作をするタイプの方で、

私がそれまで一緒に演奏してきた人達の誰ともタイプが異なる人だったのです。

 

いくつかのデモ音源をもらい、自宅でもアルバイトの通勤中も聴き続けて曲を頭に叩き込みました。

ギターのMさんもベースのSさんもとても気さくな人達で、私の事を快く迎え入れてくれました。

「YoungSS」のメンバーは私より1つ2つ年上だった事もあり、

長男である私にとっては、初めて兄のような存在が出来たようで、とても居心地が良かったのです。

その後ライブでのサポートを経て、最終的にとある夜にTさんとMさんが住む家で始まった

「麻雀で一位になったら正式メンバーになれる」選手権にて見事一位を獲得し、

私は(麻雀の)実力で正規メンバーの椅子を勝ち取りました。(笑)

 

私が正式メンバーになった選手権の少し前に戻りますが、

Tさんから驚くべき事を伝えられました。

 

「実は、『Quya』と一緒に参加したCDを聴いた『須藤晃』という人から、

来年リリースされる『尾崎豊』のトリビュートアルバムに参加しないか、と言われている。」

 

私は驚き過ぎて逆に

「ほほう。。。」

ぐらいのリアクションしか出来ませんでした。

 

『尾崎豊』といえば誰もが知る伝説のシンガー。

道を通ってこなかった私ですら、「十五の夜」や「卒業」はある程度そらで歌えます。

そんな人のトリビュート盤に参加できるなど、またとない機会です。

私は「そのレコーディングに参加するの、僕でいいんですか?」と不安になりましたが、

「むしろお願いしたい。」と言ってくれたTさんの期待に応えたい想いもあり、

正式メンバーになる前でしたが、レコーディングへの参加をさせていただく事が決まったのです。

(ちなみにリリースされたトリビュート盤には、当然ですが私は旧姓でクレジットが載っています。)

 

まだ実力不足だったとはいえ、過去のレコーディングでの失敗を教訓に、

私なりに求められる最大限のプレーをしました。

全てのアレンジを行ったTさんのこだわりは強く、正直100%応えられたわけではなかったですが、

それでもなんとかレコーディングは無事に終える事ができました。

 

翌年、私がバンドに正式に加入した後に、

このトリビュート盤のリリースを記念したライブイベントが、

今は無き「渋谷AX」で開催される事になり、私達も出演させていただく事が決まりました。

当時リリースされたトリビュート盤は2種類あり、

私達のようなインディーズバンドが参加したものが1枚、

もう1枚は「Mr.Children」や「宇多田ヒカル」等、錚々たるメジャーアーティストが参加したものがあり、

ライブイベントには「斉藤和義」さんも参加されていました。

 

憧れのメジャーアーティストの演奏を間近で勉強できるまたとないチャンス。

それ以上に、同じ日に同じステージに立てる喜び。

ライブを観に来られる、おそらく尾崎豊を敬愛しているファンの方々がどう感じるかの不安よりも、

それらの高揚感が圧倒的に上回っていました。

大勢のオーディエンスの前での演奏も無事に果たし、プロの方々の演奏を勉強させてもらい、

私は自分の力ではない事を重々承知しつつも、

何か少し明るい未来が見えたような、そんな気分になっていました。

 

それからの活動は順調でした。

「YoungSS」はその後、主に下北沢を中心にライブ活動をしていき、

特に「下北沢CLUB251」はホームと呼べる程お世話になり、

そこでは多くの先輩方と出会い、また同世代で切磋琢磨できるバンド仲間との縁を沢山もらいました。

 

「YoungSS」はTさんを中心にした「ワンマンバンド」のような体を成してはいましたが、

メンバーはTさんの旗振りに異論はなく、皆が皆フランクな間柄で活動は順調でした。

一方で、私はバンド仲間や先輩方との交流に積極的であったため、

ライブハウスにも足繫く通い、先輩方のライブで手伝いをさせてもらったり、

バンド仲間のライブを観に行って打ち上げまで参加したり、

関西で出来ていた事が再び出来るようになった喜びから、充実した日々を送っていました。

 

約2年間、私はそうして「YoungSS」のメンバーとして活動をし、

その間に自主製作盤のリリースだけでなく、

インディーズレーベルからのリリースも経験させてもらいました。

レコーディングで苦しむ経験もありましたが、

周りにも支えられ、かけがえのないバンド生活を送らせてもらっていたと思います。


しかし、紆余曲折あってギターのMさんがバンドを脱退する事になり、

私にとっての「YoungSSはこの4人でなければYoungSSではない。」という思いから、

私もMさんの脱退後しばらくしてすぐに脱退をする事にしました。

Tさんは引き止めてくれましたが、この頃にはもうメンバー皆に情があった私にとって、

Mさんが脱退してしまう、という事実は非常に堪え難く、

「誰と一緒にやるか」という信念を曲げてまでバンド活動を続ける選択はできませんでした。

 

私自身、この頃はTさんの期待に100%応えられない自分のプレーに

少し自信を無くしていた、という事も要因にはありました。

Tさんに応える事が一番大事な事ではなくなっていましたし、

このメンバーだから続けたいと思っていましたが、

失意の中にある私に手を差し伸べてくれたTさんへの恩義から、

期待に応える事が私がバンドにいる意味の一つであった事もまた、間違いのない事実だったのです。

それが揺らいでいたところにMさんの脱退。

 

運命というものがあるのであれば、これもまた運命。

私の選択の連続の先がここだったと解釈するのであれば、それもまた必然。

私は最早、流れに逆らう事はせず、TさんとベースのSさんに脱退の意志を伝え、

その時に決まっていた最後のライブ予定を期に送り出してもらう事になりました。

 

希望に満ちて降り立った東京で焦燥感まみれの日々を送り、

それでも、別れがあった以上に多くの出会いに恵まれ、

出会いによって救われ続けてきた私のバンドストーリーは、

いよいよ次回で最終回となります。

あと一話、お付き合い下さい。

 

 

 

【終章・離に続く】

【著者近影(2018年秋頃 カッコつけて撮ってもらった結果、後に写真をいじられる事になる前の著者)】

 

すっかり更新が遅くなってしまいました。

そう、仕事が忙しくなってきてしまったのです。

「もう今年もそういう時期になったのか」と。

月日の経つ早さを感じつつ、今年も仕事がある事に感謝をして過ごしております。

私の小さなバンド物語もいよいよ佳境です。

もう少しだけお付き合い下さい。<(_ _)>

 

 

 

 

 

 

 

上京後、私は新入社員研修と自宅のアパートの往復で、孤独な生活を送っていました。

関西で見慣れていた番組も一切テレビで観れないですし、

当時の楽しみといえば、月曜深夜に放送していた「内村プロデュース」のみ。

着慣れないスーツを毎日着て過ごす日々になんとなく違和感を覚えながらも、

社会人になるってこういう事なのかな、とぼんやりと思いながら過ごす日々。

 

「Quya」のメンバーとは上京する時期が少しずれており、

私が一番早く上京していたのですが、

彼らが上京してきたらすぐに活動が出来るように、と思い、

私は東京のライブハウスやオーディションの事前調査をしながら彼らを待ちました。

 

何の伝手もない私達にとっては、まずライブハウスに出させてもらえるようになる事が先決でした。

関西のライブハウスでは最初からマンスリーのブッキングライブに呼んでもらっていたのですが、

東京のライブハウスは夜のライブに出演するためのオーディションとして、

真昼のオーディションライブに出演させてもらい、

そこで各ライブハウスのブッキングマネージャーの方に認めてもらって初めて夜に出演できます。

当時は初めて東京でライブをした「渋谷」の事が頭にあったのでしょう、

私はステージに立ちたいと思っていたライブハウスの中から、

今は無き「渋谷屋根裏」に照準を絞りました。

(所説あるそうですが、「渋谷屋根裏」が渋谷最古のライブハウスだ、と聞いていた事も要因。)

ここのオーディションライブを受け、「Quya」は夜にブッキングしていただけるようになりました。

 

私は並行して、高円寺や吉祥寺、下北沢界隈のライブハウスへのオーディションライブを申し込みつつ、

何がきっかけになるか分からない、という一心でデモテープを様々な所に送り続けました。

そうしながら、メンバー4人の家のちょうど真ん中あたりが吉祥寺だったため、

私達は吉祥寺の音楽スタジオでコツコツと曲作りやライブリハーサルに励みました。

 

この頃の私はとにかく焦っていました。

バンドの事と生活の事で頭が一杯になり、毎日の通勤生活の疲れもあってか、

「早くこの状況から抜け出せるきっかけを掴まなきゃいけない。」

そう思っていたのです。

思い返してみると、あまりに心に余裕のない日々を送っていたように思います。

気心のしれた友人はバンドメンバーだけ。

恋人(現在の私の妻です。)や大学時代の友人に会いたくとも簡単には会えない。

家に帰ったところで誰かが待っているわけでもない。

ホームシックとはまた違う、東京での慣れない一人暮らしの寂しさが、

より一層私の心を焦らせていたように思います。

今思えば、そんなに焦る必要はなかったし、コツコツと続けていけば開ける道もあったと思います。

現に、当時私がお世話になっていたバンドマンの先輩方や、

同時期にライブハウスでよく一緒になった同世代のバンドマン達の中には、

今でも真面目に音楽と向き合い、追求し続け、音楽活動を続けている、

私が果たせなかった夢や希望を託したくなるような人達がいます。

でもそれを当時の私は想像する事ができませんでした。

とにかく早く、一日でも早く「何か変えなきゃいけない」という気持ちで、

狭い視野のまま、目の前の道を走り続けていたのです。

 

「焦燥感」という言葉がお似合いの思考と日々を過ごしながらも、

バンド活動のリズムが少しずつ出来上がってきた頃、

デモテープを送っていたとあるレーベルから、

インディーズのオムニバスCDへ参加しないか、という連絡が来ました。

昔よくあった形だと思いますが、

プロの環境でレコーディングができて、CDへ楽曲参加する代わりに、

CDの販売枚数にノルマがあるよ、というやつです。

要は「販売ノルマがレコーディング代」みたいな仕組みです。

 

「Quya」の楽曲の良さに自信のあった私は、

こういう事がきっかけになって胸の中にある焦燥感がほぐれていくかもしれない期待も込めて、

メンバーにCDへの参加を提案し、悩みに悩んだ末、参加する事を決めました。

 

しかし、私達は完全に準備不足でした。

ライブを主体に活動してきた私達、

特に私とベースのA君はレコーディング経験が自主制作によるものしかなく、

プロの環境でどのような準備が必要なのか、全く把握が出来ていなかったのです。

K君はそもそも音楽の専門学校を出ていて、

自主制作の際にミキシングやマスタリングを自分で行っていましたし、

S君もそれを近くで見て知っていたので、彼らはレコーディングに対してもフラットだったのですが、

私とA君がレコーディングで足を引っ張ってしまい、

(A君まで戦犯へ道連れにするのは申し訳ないと思いつつ、だがしかし事実である事も否定できない。)
2曲収録する楽曲のうちの1曲は、レコーディング時間の都合もあって、

納得のいくものに仕上げる事が出来なかったのです。

 

「不完全なものを公に販売されるCDに収録する事になってしまった。」

 

初めて聴く人は聴いても分からないかもしれないけれど、

曲の事を一番知っている自分達にとって、こんな悔しい事はない。

何よりメンバーの皆に申し訳ない。

自分の実力不足と、焦る気持ちへの苛立ちとで、私はどうにかなってしまいそうでした。

もしかしたらこの頃、私の焦る気持ちを、メンバーの皆も感じ始めていたのかもしれません。

 

その後、このCDのリリースパーティーと称して、

CDに参加したバンド4組によるライブイベントが開催される事になりました。

 

関西に居た頃、地道な活動の大切さを身に沁みて分かっていたはずの私は、

この頃にはどこにも居なくなってしまっていました。

最早、自分でも何に焦っているのか分からない。

この気持ちを何をもってして拭えるかも分からない。

拭える事ができない「何かに焦る気持ち」に、苛立ち、生き急ぎ、

目の前のほんの少し先しか見えない中をゴールが分からないまま走っているような気持ちのまま、

毎月幾度か出させてもらうライブに希望のような「何か」を望みながら、

このリリースパーティーにも同じ気持ちで臨んでいました。

 

そして私はこのリリースパーティーをきっかけに、

再び大きな転機を迎える事になり、

喜びと哀しみと、ほんの少しの希望を孕んだ、

自身のバンドストーリーの終幕へ向けて歩き始める事になるのです。

 

 

 

【終章・破に続く】