【連載第8回】なぜ私はドラムを選んだのか?【終章・守】 | はの字4代目の「焼津でさつま揚げ作ってます。」

はの字4代目の「焼津でさつま揚げ作ってます。」

大阪の一般家庭で生まれ育った僕が、
何の因果か今は静岡の焼津でさつま揚げを売ってます。
創業大正10年。「はの字」の4代目に2020年に就任しました。
2021年5月にアメブロ再開。仕事に関する事よりも、趣味の事等について書いていきます。今後ともどうぞよろしく。

【著者近影(2018年秋頃 カッコつけて撮ってもらった結果、後に写真をいじられる事になる前の著者)】

 

すっかり更新が遅くなってしまいました。

そう、仕事が忙しくなってきてしまったのです。

「もう今年もそういう時期になったのか」と。

月日の経つ早さを感じつつ、今年も仕事がある事に感謝をして過ごしております。

私の小さなバンド物語もいよいよ佳境です。

もう少しだけお付き合い下さい。<(_ _)>

 

 

 

 

 

 

 

上京後、私は新入社員研修と自宅のアパートの往復で、孤独な生活を送っていました。

関西で見慣れていた番組も一切テレビで観れないですし、

当時の楽しみといえば、月曜深夜に放送していた「内村プロデュース」のみ。

着慣れないスーツを毎日着て過ごす日々になんとなく違和感を覚えながらも、

社会人になるってこういう事なのかな、とぼんやりと思いながら過ごす日々。

 

「Quya」のメンバーとは上京する時期が少しずれており、

私が一番早く上京していたのですが、

彼らが上京してきたらすぐに活動が出来るように、と思い、

私は東京のライブハウスやオーディションの事前調査をしながら彼らを待ちました。

 

何の伝手もない私達にとっては、まずライブハウスに出させてもらえるようになる事が先決でした。

関西のライブハウスでは最初からマンスリーのブッキングライブに呼んでもらっていたのですが、

東京のライブハウスは夜のライブに出演するためのオーディションとして、

真昼のオーディションライブに出演させてもらい、

そこで各ライブハウスのブッキングマネージャーの方に認めてもらって初めて夜に出演できます。

当時は初めて東京でライブをした「渋谷」の事が頭にあったのでしょう、

私はステージに立ちたいと思っていたライブハウスの中から、

今は無き「渋谷屋根裏」に照準を絞りました。

(所説あるそうですが、「渋谷屋根裏」が渋谷最古のライブハウスだ、と聞いていた事も要因。)

ここのオーディションライブを受け、「Quya」は夜にブッキングしていただけるようになりました。

 

私は並行して、高円寺や吉祥寺、下北沢界隈のライブハウスへのオーディションライブを申し込みつつ、

何がきっかけになるか分からない、という一心でデモテープを様々な所に送り続けました。

そうしながら、メンバー4人の家のちょうど真ん中あたりが吉祥寺だったため、

私達は吉祥寺の音楽スタジオでコツコツと曲作りやライブリハーサルに励みました。

 

この頃の私はとにかく焦っていました。

バンドの事と生活の事で頭が一杯になり、毎日の通勤生活の疲れもあってか、

「早くこの状況から抜け出せるきっかけを掴まなきゃいけない。」

そう思っていたのです。

思い返してみると、あまりに心に余裕のない日々を送っていたように思います。

気心のしれた友人はバンドメンバーだけ。

恋人(現在の私の妻です。)や大学時代の友人に会いたくとも簡単には会えない。

家に帰ったところで誰かが待っているわけでもない。

ホームシックとはまた違う、東京での慣れない一人暮らしの寂しさが、

より一層私の心を焦らせていたように思います。

今思えば、そんなに焦る必要はなかったし、コツコツと続けていけば開ける道もあったと思います。

現に、当時私がお世話になっていたバンドマンの先輩方や、

同時期にライブハウスでよく一緒になった同世代のバンドマン達の中には、

今でも真面目に音楽と向き合い、追求し続け、音楽活動を続けている、

私が果たせなかった夢や希望を託したくなるような人達がいます。

でもそれを当時の私は想像する事ができませんでした。

とにかく早く、一日でも早く「何か変えなきゃいけない」という気持ちで、

狭い視野のまま、目の前の道を走り続けていたのです。

 

「焦燥感」という言葉がお似合いの思考と日々を過ごしながらも、

バンド活動のリズムが少しずつ出来上がってきた頃、

デモテープを送っていたとあるレーベルから、

インディーズのオムニバスCDへ参加しないか、という連絡が来ました。

昔よくあった形だと思いますが、

プロの環境でレコーディングができて、CDへ楽曲参加する代わりに、

CDの販売枚数にノルマがあるよ、というやつです。

要は「販売ノルマがレコーディング代」みたいな仕組みです。

 

「Quya」の楽曲の良さに自信のあった私は、

こういう事がきっかけになって胸の中にある焦燥感がほぐれていくかもしれない期待も込めて、

メンバーにCDへの参加を提案し、悩みに悩んだ末、参加する事を決めました。

 

しかし、私達は完全に準備不足でした。

ライブを主体に活動してきた私達、

特に私とベースのA君はレコーディング経験が自主制作によるものしかなく、

プロの環境でどのような準備が必要なのか、全く把握が出来ていなかったのです。

K君はそもそも音楽の専門学校を出ていて、

自主制作の際にミキシングやマスタリングを自分で行っていましたし、

S君もそれを近くで見て知っていたので、彼らはレコーディングに対してもフラットだったのですが、

私とA君がレコーディングで足を引っ張ってしまい、

(A君まで戦犯へ道連れにするのは申し訳ないと思いつつ、だがしかし事実である事も否定できない。)
2曲収録する楽曲のうちの1曲は、レコーディング時間の都合もあって、

納得のいくものに仕上げる事が出来なかったのです。

 

「不完全なものを公に販売されるCDに収録する事になってしまった。」

 

初めて聴く人は聴いても分からないかもしれないけれど、

曲の事を一番知っている自分達にとって、こんな悔しい事はない。

何よりメンバーの皆に申し訳ない。

自分の実力不足と、焦る気持ちへの苛立ちとで、私はどうにかなってしまいそうでした。

もしかしたらこの頃、私の焦る気持ちを、メンバーの皆も感じ始めていたのかもしれません。

 

その後、このCDのリリースパーティーと称して、

CDに参加したバンド4組によるライブイベントが開催される事になりました。

 

関西に居た頃、地道な活動の大切さを身に沁みて分かっていたはずの私は、

この頃にはどこにも居なくなってしまっていました。

最早、自分でも何に焦っているのか分からない。

この気持ちを何をもってして拭えるかも分からない。

拭える事ができない「何かに焦る気持ち」に、苛立ち、生き急ぎ、

目の前のほんの少し先しか見えない中をゴールが分からないまま走っているような気持ちのまま、

毎月幾度か出させてもらうライブに希望のような「何か」を望みながら、

このリリースパーティーにも同じ気持ちで臨んでいました。

 

そして私はこのリリースパーティーをきっかけに、

再び大きな転機を迎える事になり、

喜びと哀しみと、ほんの少しの希望を孕んだ、

自身のバンドストーリーの終幕へ向けて歩き始める事になるのです。

 

 

 

【終章・破に続く】