大阪市の長居東に「保利神社」という小さな神社があります。
創建は不詳ですが、室町時代に城の守護神として勧進されたと言われています。
この「築城時に勧進された」と言う事と「保利」と言う神社名から
保利神社周辺が「新堀城」の跡地ではないかと言われる事が多いのですが
この「保利神社」があるのは旧「堀村」と「前堀村」という環濠集落だった場所で
城名にある「新堀」と言う地名は歴史上1度も存在していません。
保利神社の近くに「栴檀城」と言う地名が残っていたという話があるので
この「栴檀城」と言う城の築城時に勧進したと考えられますね。
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「信長公記」には、「新堀城」は堺の近くにあった事が記されています。
織豊期の堺は、北が高須神社、南は御陵前、東が阪神高速15号堺線と
現在よりも遥かに小さく、「保利神社」の位置では「堺の近く」とは言えませんし
「保利神社」より南にあった「我孫子城」の方が堺に近いですから
「信長公記」にある「堺の近く」の記述と矛盾してしまいます。
また、堺市北区には「新堀町」という地名があり
『堺市史続編』第1巻p505の「自治都市の終末」の項に
「新堀(いまの新堀町)に出城をかまえた十河因幡守・香西越後らを討ちとり」
との記載があることから考えても「新堀城」は堺市の新堀町にあったと思われます。