伊勢崎市境島村郷土史 -田島弥平旧宅と養蚕農家の価値について- | HANDLERのブログ

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みなさんこんにちはHandlerです。



先日のグンマースレですが、ラノベ小説とは思わず購入した本ですが、早くも挫折中でございます。
エェ━━━━━( ゚Å゚;)━━━━━!!?

いやぁほんと…どうしたものか。
やっぱり2ちゃんで面白がっている程度がちょうど良いのだろうかね。
せっかく買ったし、何とかして最後までと思っていますが。┐(´∀`)┌ヤレヤレ



表題の伊勢崎市境島村郷土史です。

いきなり表題が硬い。カッチコチ!!
アッ!10人くらいの読者様が去って行った音がする…(つд⊂)エーン

1/25日に伊勢崎市境島村公民館において、『田島弥平旧宅と養蚕農家の価値について』という講義を拝聴しに出かけてきました。

緑色のエリアが絹産業地帯です。境島村は右の緑の部分。
群馬の絹産業と言うとこの緑の部分だけではなく、群馬全地域と言っていいくらい、広く盛んでした。
緑のエリアはその中でも世界遺産登録に向けて、最重要とするエリアということです。

多くは養蚕農家なのですが、昔は野菜を作るより儲かった時代です。
明治大正の時代ですからおよそ150年ほど前の事です。

当時この境島村では養蚕の品種改良を研究していた所なんです。
蚕の品種改良というのはいろいろお話を伺っていると、生糸の良し悪しと共に、病気に強い品種を研究していました。

蚕の飼育という点で飼育環境やその方法を文献にまとめたのが、田島弥平氏です。
それは『養蚕新論』、『属養蚕新論』という著を発行したのが1856年ですって…

『清涼育』という物で建物の屋根に櫓(やぐら:正確には気抜きというようです)を配置した家屋で、蚕を育てるという物でした。
当時この本はベストセラーだそうですよ!Σ(`Д´ )マヂデスカ!?


今年の6月に富岡製糸場と絹産業遺産群として、田島弥平旧宅も世界遺産登録に向けた準備をしているわけですが、世界遺産と括るのに富岡製糸場との繋がり、言わば絹産業の生産の土台部分にもその重要性があるという主張です。


なぜ重要なのかというお話が今回の講義で拝聴できました。


講師は村田敬一氏です。
村田氏は群馬県前橋工業高校の校長でいらっしゃったようです。
群馬シルクカントリーや富岡製糸場において、建造物の研究をなさっていて本も書かれている先生です。
講義はとても聞きやすいものでした。
やっぱり学校の先生というのはそういう物なんだろうか。(´∀`)

村田敬一氏

興味の無い方には地獄のようなお話か…とは言いすぎです。(´∀`)
僕もこの拝聴というのはですね、実は別に事情があったからなんです。
そのアポイントをお願いしたところ、この講義があるという事でお時間があればどうですか?という流れで参加させていただきました。( ´_ゝ`)フーン

でも身近な近代建造物が重文(重要文化財)になりえるのか、とても興味深い講義でした。

建物の形や間取りについても細かい説明も、面白かったです。
玄関が三つある話とか…(´・ω`・)エッ?


櫓内部。換気ということなんだそうです。


屋根の上に屋根が特徴的です。
こちらが田島弥平旧宅です。一階が住居で二階が飼育部屋という造り。
こういった特徴的な家屋はここだけではなくて、ここへ来る途中にも立派な家屋があちこちにあります。この地域では推奨されてから一斉にこのような建物が増えたそうです。

僕の興味は違うところにありましたが、普段聞くこともない講義はとても興味深いものでした。
1ページメモも取りましたが、多分僕の読者様が減る心配があるので割愛(;´∀`)

ぐんま島村蚕種の会様お招きいただいてありがとうございました。
とても勉強になりました。


ここから少し先に田島弥平旧宅案内所があります。
ここからが本日の本題です。
島村小学校の敷地内にあります。

イタリアで購入した顕微鏡です。
確かドイツ製だと仰っていたっけかな?7台購入したらしいですが、当時相当したんでしょうね…

これで蚕の何をか伺えなかったのですが、『それ』を乳鉢ですりつぶして顕微鏡を使って病気があるかどうかを調べていたんだそうです。
群馬県農政部蚕糸園芸課の岡係長様はきっとご存じのはず。後で伺ってみよう。

田島弥平旧宅には北からの安定した灯りがとれる部屋を増築して、顕微鏡室としていたようです。



僕の本題です。


初めて目にしたのは元旦だったかな?群馬TVで放送した番組でした。

これすごく( ・∀・)イイ!!味ありませんか!?
一目見てしびれました。(((((((( ;゚Д゚))))))))

刺繍したい。

すぐに思いました。どうしたら原本にたどり着けるか?
まず頭に思い浮かんだのが、群馬県農政部蚕糸園芸課の岡係長様。アトリエカノアンの中野さんへお邪魔した時に、いらしていた先生です。
お名刺頂いておいてよかったです!まさにビンゴでした。ォオー!!(゚д゚屮)屮

丁寧に教えて下さって、尚且つ他にもまだしびれる物があるという情報もいただき(゚д゚)!
原本の蚕種の証の持ち主様から了承まで、段取りをとってくださいました。
なんてお方なんだろう…(´Д⊂ヽ
岡さんはまだ僕が何者か良く知らないはずなのに…ァ '`,、'`,、('∀`) '`,、'`,、


これは『大日本 島村勧業会社 製造蚕種の証』と書いてあります。
恐らく商標と同じ意味を持つものだと思います。
外国語併記されているのは、この蚕種つまり蚕の卵を国外(イタリア)へ輸出していたからです。
境島村の片田舎から凄いな!って思いましたが、伺ってみるとそうでもなくて、当時こちらの銀行の支店がイタリアにあったようでした。
その繋がりで輸出に漕ぎ着けたようなのですが、やっていることは当時とてつもない規模の話です。
改めて田島弥平という人物の凄さを再認識しました。

加筆すればこの田島弥平氏につながる人物で重要な人が『渋沢栄一氏』埼玉県深谷市(島村のお隣)出身で、生家は養蚕を行っていて、大蔵省に仕官。
宮中養蚕の相談役に選ばれます。養蚕の知識を見込まれての事でしたが、任務が多忙であった為親戚である田島武平氏を宮中養蚕相談役に推薦。

田島弥平氏はその跡を継いだわけです。

渋沢栄一氏はその後『島村勧業会社』の設立を指導し、富岡製糸場の建設にかかわる。
富岡製糸場の初代場長には渋沢栄一氏の従兄弟の尾高惇忠氏だそうです。
こういう流れで島村というところは宮中の養蚕に深くかかわることになったんだそうです。
宮中では『小石丸』という品種の蚕を育ててますよね。
つまり島村で作られた品種なんだろうかね?



更に余談ですが、当時は船便でしょ、卵は当然生きているわけです。そのうち卵から蚕が生まれるわけです。孵化しまったら困るので横浜出航は冬の12月。
気温が上がらない様にサンフランシスコへ入港して陸路を横断。ニューヨークから北回りでイギリス、フランス、イタリアという航海だそうです。(゚∀゚)
イタリアミラノへは2/2に到着だそうです。これも凄いね…

当時ヨーロッパでは病気で養蚕が壊滅的だったそうです。
絹産出主要国だった当時の中国ではアヘン戦争によって供給が出来ず、日本の生糸や蚕種にシフトしたわけです。

時代の流れを感じます。
当時の日本では生糸の輸出は国を挙げての一大産業でした。
外貨を稼ぐには御茶の輸出を凌いでいます。


こういう流れをみていると思うことがあります。
繊維産業というのは発展途上国に多く、主要産業になっています。それによって経済発展を成し遂げると、この産業は内地では廃れてゆき、いずれ国外の途上国へとシフトしてゆきます。

(´ε`;)ウーン…

資本主義はこうなりますよね。それがウィンウィンの関係であれば良いことです。
ただこの商業主義では廃れてゆく技術や文化があるわけですよね。
それを残そうとする活動は、僕は大事なんじゃないかなって考えます!

僕の刺繍に被せて考えてみましたよ。
僕の刺繍も職人が一枚一枚作っていたものが、コンピューター化されたミシンで大量生産されます。それから大量に生産される商品から、中国や韓国、東南アジアへと生産拠点を移しています。当然仕事量が減りますから、廃業してゆきます。

島村勧業会社が解散した理由は、蚕種輸出で好景気を迎えると、質の悪い第二第三の企業が現れました。
あまりにも酷いものは、蚕種と偽って菜種を売りつける企業もあったそうです。
当然買う側は商品購入に慎重になります。故にこういった蚕種の証がブランドになるわけですが、蚕種を売るという事は、イタリアやその諸外国で生産が復活するわけですから、やがて輸入する意味も薄れ、貿易は減ってゆきました。
門外不出ってわけにはいかなかったのかな。僕は生糸だけ売っていればいいと思ってしまう。
レシピがあればそれをコピーする物ね。
目先の利益を優先したと、簡単に言ってしまってはいけないのかな?
なのでいろいろ知ったあとでは、僕の蚕種の証はまた違ったように見えます。(;´Д`)


いやぁここまで読んだ人偉い。(; ・`д・´)
詰まらなかった人も「いいね」押してお帰り下さい。ヽ(・ω・)/ズコー

今週は図案作りを済ませて、来週はこれを刺繍するために使う、絹糸の打ち合わせにアトリエカノアンの中野紘子さんを訪ねて、協力を頂きます。
楽しくなってきた♪




それではまた次回

ブログランキングに参加してみました。
が、うまく設置機能しているのだろうか…
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