新たな家族構成

 

 

 

西宮に引っ越しをしたと同時に私には

6歳上の姉と3歳上の兄が新しく出来ましたおねがい飛び出すハート

おじちゃんが連れていた子どもたちです。

 

家族構成が

おじちゃん(お父ちゃん)

お母ちゃん

お義姉ちゃん

お義兄ちゃん

と私

の5人家族となりました。

以前尼ヶ崎で暮らしていた時は

8歳上の兄が居ましたが、その兄は母の弟(叔父)と私たちが暮らす家の裏手にある集合アパート?一緒に暮らしており、時折り祖母の代わりに

幼稚園に迎えに来てくれていた🚲……

記憶の中では食事も一緒に摂ったことが無いあせる…と言う程の兄なのだが、

兄曰く「しょっ中公園に連れて行って遊んでやったぞ」と兄アピールをする笑

私が居たため同じ環境の友だちと遊ぶことが多かったそうな立ち上がる自転車歩く

 

確かに、確かにそんな証拠の公園での写真が残っているカメラ  

 

お迎えの帰りに火事があり、自転車の後ろに乗って

そのまんま野次馬しに行った事は覚えている魂

 

自転車

炎

 

その火事は余りにも怖く

私の記憶では

兄に無理やり連れていかれた…になっていた

(本当は違うのだ)

(⌒▽⌒)アハハ!許せ兄!

 

本当に断片的に…断片すぎますが(笑)

 

8歳も上だと幼少期に会話することが少ないので仕方ない爆笑


この兄は母の最初の旦那さんとの間に生まれた子どもで、私とは父親違い。

大人の複雑な事情が有り、西宮には一緒に行きませんでした。

 

それでも新しい姉と兄が出来たことは

嬉しかったですね

 

後々に知ったのですが、この兄は大人の勝手な諸事情で15歳まで親の居ない?

親が子育て出来ない子どもたちのための保護施設に預けられていました笑い泣きガーン

 

新たな姉兄とは「こんにちは」

そしてこれまでの兄には

「じゃあね!」

と幼くて無邪気な私はそんな感じだったのかな?

と当時を思い起こします・・・。

パー

 

私を妹として迎え入れた義理の姉と兄

妹とバイバイした兄

 

3人は当時どんな心境だったのかなハッ?

 

その部分これまで気に留めたことが無かったタラー

 

では又~

 

 

 

 

 

 

 

うっそだしっょガーン

 

 

引っ越し先では

当時、受け入れてくれる幼稚園が

無かったため・・・近くには「愛宕山幼稚園」が

あったのですが、満員で入れなかった


いや、普通そんな事、

事前調査として引っ越す前に

下調べするでしょびっくりマーク

今の私なら怒りますむかっ


ベル

 

当の私は「父親が出来るラブ

と言った期待感でいっぱいいっぱいルンルン

おかぁちゃんと少しは一緒に居れるくるくる

 嬉しい嬉しい

という気持ちしかありませんでした

 

アセアセ

 

 現実はそう甘く無かった



「えっ?うそだぐすん

きっと当時の私はそう思ったに違いない!!


預かり先のない私は

新たに出来たお姉ちゃんとお兄ちゃんが

学校から帰 宅して来るまで


団地の一室で朝からお留守番生活が

待ち受けておりました

 

お昼は何かしらの食べ物が卓上に置いてあり

それを食べるお弁当

おにぎり

おにぎり

おにぎり

朝はご近所の子ども・・・自分も子どもなのだがショボーン

と団地の敷地内で遊び、

ロンパールームが始まるあたりから

家の中にそれぞれが戻る

 

家の中に誰も居ないと分かっているのだが

ある時何を思ったのか

「おかぁちゃ~~~ん大泣き

とご近所中に聞こえる声で大泣きびっくりマーク

 

お向かいの102号室のおばさんが

「みっちゃん大丈夫はてなマーク

と慌てふためき101号室の私のもとに駆け寄り

抱きしめてくれて徐々に落ち着いて

泣き止みました

 

 

今でも覚えてるキューン

 

 

 

 

人の情で成り立っている時代だったから

出来たお留守番

 

現在だったら児童虐待ですよね

マジでびっくりマーク

 

 

 

そんな不安な始まりをした

西宮での生活ですぐすん

 

 

 

 

 

 

遊園地

 

・・・・あれはいつだったのか?

季節がはっきりとは思い出せないのだが真顔

4・5歳のころだった

 

 

ある時から毎週?

隔週?だかの日曜日になると

「おじちゃんとその子どもたち」がやって来て

私を色んな遊園地に連れて行ってくれた乙女のトキメキ

ハートのバルーン

ハートのバルーン

ハートのバルーン

阪神パーク

宝塚ファミリーランド

天王寺動物園

しし座

オカメインコ

くま

 

母子家庭で祖父母と慎ましく暮らしている

我が家では夢の様な

体験の連続

そして子どもなら見たら欲しがる

紐がついて頭上でフワリフワリと浮かぶ風船

を手に

両サイドにはお姉ちゃんとお兄ちゃん

 

嬉しくて 本当に嬉しかったことは覚えてる

 

そんな嬉楽しいある日曜日の夜

 

雨がすごく降っていて雨

(当時は雨と雷が怖くて大っ嫌いでしたえーん

 

いつも遊びに行った後おじちゃんは

玄関先で帰宅していくのだが

その日は2階に上がって来た

  


おじちゃんからお父ちゃんへ変わった瞬間


おかぁちゃんが私の目線に合わせ膝を付き話しかける

 

 

「みっちゃん、おじちゃんがみっちゃんのお父さんになりたいねんて。

ええか?」

 

私は幼稚園で父の日行事としてハンカチに描いた母の顔に

黒い点々を付けて➡髭のつもり(笑)

 

「はい、これおじちゃんの顔になりました」

 

と無邪気に言いながら

「母子家庭」が寂しかったからとっても

喜びました飛び出すハート飛び出すハート飛び出すハート

 

大人の間で話がどの様に進んでいったのかは

まったく解かりませんが

 

年長さんのある日

尼崎から西宮の巨大マンモス団地に引っ越ししていきました

 

 

古い画像のVを観ると

当時の憧れの住まいだとか・・・

 

そこで新たな生活が始まりました

 

とさ・・・・

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【器用貧乏】(*≧∀≦*)……

この言葉から良いことを連想する人は少ないのでは?😅

母はとても器用で幼少期から思春期?青春期?にかけてとても「お嬢様」だったと思えないほど色々なことをしていた。

宝塚退団後に1度目の結婚した母。

姑と舅に支え、結婚した旦那と言えば遊び人で、殆ど家を留守にしていたそうだ。


そしてそれを申し訳なく思った姑は母に向かって、

「お前の器量なら他の人と一緒になった方が幸せやろ。長男はうちの跡取りだから渡す事は出来ないが、お前も生きてく糧が欲しかろ。だから次男を連れて行け」とお暇(おいとま)宣告をしたそうだ。

注意

 

母と最初の旦那さんとの結婚に至る経緯は知らないが、最初の旦那さんの実家も会社?問屋?を経営していたそうで、やはりボンボンだったのだろう(私の推測)

 

こうして次男を抱えて出戻りとなった母は一生懸命働いたのであろう…

その時に色んなことを身につけたのかどうか?
聞いたことが無かったけど、、、

何が器用だったか…

それは確か保育園時代ではなく、幼稚園に行っていた時だった。
ある日幼稚園から戻って来たら家の階段の位置が朝と夕方と変わっていた😱
考えられないのだ、変わっていた。
その理由を祖母に尋ねたら

「ちゃっと不便やったからなあんたのおかぁちゃんに頼んで付け替えてもろたんやがな(#^.^#)」と軽~く言われ、当時は「ふーん、そうかいな」ぐらいの程度だった驚き

 

でも確かにたまに在宅していた夜、家の先でカンナを掛けるとき、私は重しとなって手伝って?いた記憶がある。

 

一度には出来ないから、ちょこっとづつ作業をしていたのだろう。

 

ただ私には当時その作業が点と点であり、線として繋がってはいなかった。

またもう少し前は紙芝居をこさえて自転車の後ろに積み、水飴の一斗缶をぶら下げ(?)私をおんぶして公園で紙芝居屋をしていたり、べっ甲で子供の指輪を作って販売していたり・・・とにかく生きるために精一杯してきていた。

 

指輪

 

母は父が居なくても私を立派(はてなマーク)に育て上げたい!!という気持ちが当時は強かったと後々には言っていた。

 

和裁洋裁も熟せて、私が高校生になるまで私専属の美容院でもあった(笑)

クシハサミ

 

一時期我が家には整理タンスが無い時があった。

その時も八百屋さんとかで(現在の様なモール店がなく、近くには尼崎の商店街があった)段ボールの箱をいくつか貰ってきてそれを器用に組み立て直してタンスを拵えてしまう。

 

 

私が幼稚園の年長あたりのころも色々あって、義理の妹・・(私からすれば叔母ですが)が母に尼崎の商店街の一角か、少し離れたところだったか?更地を持っていて、母に「義姉さん、ここの土地譲るから好きな事に使い」と言われ、母は自分で建材屋などに行きベニヤ板やトタン板・・・いわゆる家を建てるのに必要な材料を準備して更地に「うどん屋」を建設した笑い泣き

 

この時母の身体に異変が起きていることも知らずに一生懸命建設して「うどん屋」をオープンさせ軌道にも乗せた。

 

軌道に乗せたとたん叔母に「義姉さん、ここ返してな」と言われ店ごと取り上げられた。私は母だこの店で作っていた【おうどんと稲荷寿司】が好きだったえーん

だから記憶がはっきりと残っている。そしてこの時母が自分の身体の異変に気が付いていれば、母は後に入院することもなかったであろう。入院時私は幼かったので親戚に預けられた。

病院

 

驚くほどなんでも熟してしまう母を持っていた私は母と真逆でとても不器用えーん

母は器用貧乏で私は不器用なのに財産家じゃないw笑い泣きま、シャーナイネグラサンハハハ

 

 


 

以前母が3つの仕事を熟しながら祖父母と私・・・多分兄(?)

を養っていたことに少し触れたことがあったかと・・

 

 

朝はお弁当屋

昼は会社

夜は小料理屋

 

ある日の夕方、昼の仕事を終えて一旦帰宅して居た母

 

母が家にいる記憶がほとんど無いのだが、

この日は珍しく幼稚園から帰宅したら家に居た

 

母が居ることを喜んだのも束の間で様子や雰囲気が違った

 

そして「居た」・・・と言うよりは

「救急車を待って居た」救急車ダッシュ

 

何事が起きた居たのかは知らないが

 

救急車が到着してタンカーで運ばれていく母を見て

「おかぁちゃん死んだらいややぁぁぁぁぁえーん

と号泣しながら母に付いて行こうと

必死に足掻いた

 

勿論そんなことは阻止された

 

幼過ぎて泣き疲れてこの日の記憶は

これまでで、これ以上のことは覚えていない大泣き

流石幼き子だ笑

 

その後母が戻って来て無事に過ごしていたのは言うまでもないラブラブ

 

後々に当時のことを聞いたら

「胃潰瘍」だったとのことDASH!DASH!

 

母親はいつの時代も元気で明るく過ごしてほしい

(ま、母親という縛りではなく家族全員ですよねおねがい

 

こんな経緯があり母親が留守がちで

「マザコン」の私が益々「おかぁちゃん子」になる

要因の出来事でしたw