【器用貧乏】(*≧∀≦*)……
この言葉から良いことを連想する人は少ないのでは?😅
母はとても器用で幼少期から思春期?青春期?にかけてとても「お嬢様」だったと思えないほど色々なことをしていた。
宝塚退団後に1度目の結婚した母。
姑と舅に支え、結婚した旦那と言えば遊び人で、殆ど家を留守にしていたそうだ。
そしてそれを申し訳なく思った姑は母に向かって、
「お前の器量なら他の人と一緒になった方が幸せやろ。長男はうちの跡取りだから渡す事は出来ないが、お前も生きてく糧が欲しかろ。だから次男を連れて行け」とお暇(おいとま)宣告をしたそうだ。
母と最初の旦那さんとの結婚に至る経緯は知らないが、最初の旦那さんの実家も会社?問屋?を経営していたそうで、やはりボンボンだったのだろう(私の推測)
こうして次男を抱えて出戻りとなった母は一生懸命働いたのであろう…
その時に色んなことを身につけたのかどうか?
聞いたことが無かったけど、、、
何が器用だったか…
それは確か保育園時代ではなく、幼稚園に行っていた時だった。
ある日幼稚園から戻って来たら家の階段の位置が朝と夕方と変わっていた😱
考えられないのだ、変わっていた。
その理由を祖母に尋ねたら
「ちゃっと不便やったからなあんたのおかぁちゃんに頼んで付け替えてもろたんやがな(#^.^#)」と軽~く言われ、当時は「ふーん、そうかいな」ぐらいの程度だった
でも確かにたまに在宅していた夜、家の先でカンナを掛けるとき、私は重しとなって手伝って?いた記憶がある。
一度には出来ないから、ちょこっとづつ作業をしていたのだろう。
ただ私には当時その作業が点と点であり、線として繋がってはいなかった。
またもう少し前は紙芝居をこさえて自転車の後ろに積み、水飴の一斗缶をぶら下げ(?)私をおんぶして公園で紙芝居屋をしていたり、べっ甲で子供の指輪を作って販売していたり・・・とにかく生きるために精一杯してきていた。
母は父が居なくても私を立派()に育て上げたいという気持ちが当時は強かったと後々には言っていた。
和裁洋裁も熟せて、私が高校生になるまで私専属の美容院でもあった(笑)
一時期我が家には整理タンスが無い時があった。
その時も八百屋さんとかで(現在の様なモール店がなく、近くには尼崎の商店街があった)段ボールの箱をいくつか貰ってきてそれを器用に組み立て直してタンスを拵えてしまう。
私が幼稚園の年長あたりのころも色々あって、義理の妹・・(私からすれば叔母ですが)が母に尼崎の商店街の一角か、少し離れたところだったか?更地を持っていて、母に「義姉さん、ここの土地譲るから好きな事に使い」と言われ、母は自分で建材屋などに行きベニヤ板やトタン板・・・いわゆる家を建てるのに必要な材料を準備して更地に「うどん屋」を建設した
この時母の身体に異変が起きていることも知らずに一生懸命建設して「うどん屋」をオープンさせ軌道にも乗せた。
軌道に乗せたとたん叔母に「義姉さん、ここ返してな」と言われ店ごと取り上げられた。私は母だこの店で作っていた【おうどんと稲荷寿司】が好きだった
だから記憶がはっきりと残っている。そしてこの時母が自分の身体の異変に気が付いていれば、母は後に入院することもなかったであろう。入院時私は幼かったので親戚に預けられた。
驚くほどなんでも熟してしまう母を持っていた私は母と真逆でとても不器用
母は器用貧乏で私は不器用なのに財産家じゃないま、シャーナイネハハハ