遊園地

 

・・・・あれはいつだったのか?

季節がはっきりとは思い出せないのだが真顔

4・5歳のころだった

 

 

ある時から毎週?

隔週?だかの日曜日になると

「おじちゃんとその子どもたち」がやって来て

私を色んな遊園地に連れて行ってくれた乙女のトキメキ

ハートのバルーン

ハートのバルーン

ハートのバルーン

阪神パーク

宝塚ファミリーランド

天王寺動物園

しし座

オカメインコ

くま

 

母子家庭で祖父母と慎ましく暮らしている

我が家では夢の様な

体験の連続

そして子どもなら見たら欲しがる

紐がついて頭上でフワリフワリと浮かぶ風船

を手に

両サイドにはお姉ちゃんとお兄ちゃん

 

嬉しくて 本当に嬉しかったことは覚えてる

 

そんな嬉楽しいある日曜日の夜

 

雨がすごく降っていて雨

(当時は雨と雷が怖くて大っ嫌いでしたえーん

 

いつも遊びに行った後おじちゃんは

玄関先で帰宅していくのだが

その日は2階に上がって来た

 

 

おかぁちゃんが私の目線に合わせ膝を付き話しかける

 

 

「みっちゃん、おじちゃんがみっちゃんのお父さんになりたいねんて。

ええか?」

 

私は幼稚園で父の日行事としてハンカチに描いた母の顔に

黒い点々を付けて➡髭のつもり(笑)

 

「はい、これおじちゃんの顔になりました」

 

と無邪気に言いながら

「母子家庭」が寂しかったからとっても

喜びました飛び出すハート飛び出すハート飛び出すハート

 

大人の間で話がどの様に進んでいったのかは

まったく解かりませんが

 

年長さんのある日

尼崎から西宮の巨大マンモス団地に引っ越ししていきました

 

 

古い画像のVを観ると

当時の憧れの住まいだとか・・・

 

そこで新たな生活が始まりました

 

とさ・・・・

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【器用貧乏】(*≧∀≦*)……

この言葉から良いことを連想する人は少ないのでは?😅

母はとても器用で幼少期から思春期?青春期?にかけてとても「お嬢様」だったと思えないほど色々なことをしていた。

宝塚退団後に1度目の結婚した母。

姑と舅に支え、結婚した旦那と言えば遊び人で、殆ど家を留守にしていたそうだ。


そしてそれを申し訳なく思った姑は母に向かって、

「お前の器量なら他の人と一緒になった方が幸せやろ。長男はうちの跡取りだから渡す事は出来ないが、お前も生きてく糧が欲しかろ。だから次男を連れて行け」とお暇(おいとま)宣告をしたそうだ。

注意

 

母と最初の旦那さんとの結婚に至る経緯は知らないが、最初の旦那さんの実家も会社?問屋?を経営していたそうで、やはりボンボンだったのだろう(私の推測)

 

こうして次男を抱えて出戻りとなった母は一生懸命働いたのであろう…

その時に色んなことを身につけたのかどうか?
聞いたことが無かったけど、、、

何が器用だったか…

それは確か保育園時代ではなく、幼稚園に行っていた時だった。
ある日幼稚園から戻って来たら家の階段の位置が朝と夕方と変わっていた😱
考えられないのだ、変わっていた。
その理由を祖母に尋ねたら

「ちゃっと不便やったからなあんたのおかぁちゃんに頼んで付け替えてもろたんやがな(#^.^#)」と軽~く言われ、当時は「ふーん、そうかいな」ぐらいの程度だった驚き

 

でも確かにたまに在宅していた夜、家の先でカンナを掛けるとき、私は重しとなって手伝って?いた記憶がある。

 

一度には出来ないから、ちょこっとづつ作業をしていたのだろう。

 

ただ私には当時その作業が点と点であり、線として繋がってはいなかった。

またもう少し前は紙芝居をこさえて自転車の後ろに積み、水飴の一斗缶をぶら下げ(?)私をおんぶして公園で紙芝居屋をしていたり、べっ甲で子供の指輪を作って販売していたり・・・とにかく生きるために精一杯してきていた。

 

指輪

 

母は父が居なくても私を立派(はてなマーク)に育て上げたい!!という気持ちが当時は強かったと後々には言っていた。

 

和裁洋裁も熟せて、私が高校生になるまで私専属の美容院でもあった(笑)

クシハサミ

 

一時期我が家には整理タンスが無い時があった。

その時も八百屋さんとかで(現在の様なモール店がなく、近くには尼崎の商店街があった)段ボールの箱をいくつか貰ってきてそれを器用に組み立て直してタンスを拵えてしまう。

 

 

私が幼稚園の年長あたりのころも色々あって、義理の妹・・(私からすれば叔母ですが)が母に尼崎の商店街の一角か、少し離れたところだったか?更地を持っていて、母に「義姉さん、ここの土地譲るから好きな事に使い」と言われ、母は自分で建材屋などに行きベニヤ板やトタン板・・・いわゆる家を建てるのに必要な材料を準備して更地に「うどん屋」を建設した笑い泣き

 

この時母の身体に異変が起きていることも知らずに一生懸命建設して「うどん屋」をオープンさせ軌道にも乗せた。

 

軌道に乗せたとたん叔母に「義姉さん、ここ返してな」と言われ店ごと取り上げられた。私は母だこの店で作っていた【おうどんと稲荷寿司】が好きだったえーん

だから記憶がはっきりと残っている。そしてこの時母が自分の身体の異変に気が付いていれば、母は後に入院することもなかったであろう。入院時私は幼かったので親戚に預けられた。

病院

 

驚くほどなんでも熟してしまう母を持っていた私は母と真逆でとても不器用えーん

母は器用貧乏で私は不器用なのに財産家じゃないw笑い泣きま、シャーナイネグラサンハハハ

 

 


 

以前母が3つの仕事を熟しながら祖父母と私・・・多分兄(?)

を養っていたことに少し触れたことがあったかと・・

 

 

朝はお弁当屋

昼は会社

夜は小料理屋

 

ある日の夕方、昼の仕事を終えて一旦帰宅して居た母

 

母が家にいる記憶がほとんど無いのだが、

この日は珍しく幼稚園から帰宅したら家に居た

 

母が居ることを喜んだのも束の間で様子や雰囲気が違った

 

そして「居た」・・・と言うよりは

「救急車を待って居た」救急車ダッシュ

 

何事が起きた居たのかは知らないが

 

救急車が到着してタンカーで運ばれていく母を見て

「おかぁちゃん死んだらいややぁぁぁぁぁえーん

と号泣しながら母に付いて行こうと

必死に足掻いた

 

勿論そんなことは阻止された

 

幼過ぎて泣き疲れてこの日の記憶は

これまでで、これ以上のことは覚えていない大泣き

流石幼き子だ笑

 

その後母が戻って来て無事に過ごしていたのは言うまでもないラブラブ

 

後々に当時のことを聞いたら

「胃潰瘍」だったとのことDASH!DASH!

 

母親はいつの時代も元気で明るく過ごしてほしい

(ま、母親という縛りではなく家族全員ですよねおねがい

 

こんな経緯があり母親が留守がちで

「マザコン」の私が益々「おかぁちゃん子」になる

要因の出来事でしたw

 

 

 

 

 

 

今年の6月5日で満18歳になるミニチュアダックスのトト。

 

お腹に『脂肪腫』がで始めたのは嫁のベリーが亡くなってから。。。だから2年と7ヶ月かな?

 

最初はピンポン玉くらいだった。

 

以前に会陰ヘルニアで手術をしているから心配で

先生に尋ねたら「心配は要らないですよ」と言われ安堵した。

 

去年の秋くらいからみるみる大きくなり、我が家の諸事情でこれまでの病院には行けず、別の病院へと転院し、診てもらった。

 

 

 

やっぱり手術をして切除してあげないもダメかなはてなマーク

 

旦那さんと長男とに相談した。

 

旦那さんと私は「トトの身体のために除去手術をしたほうが良いよね悲しい

との意見にもなったのですが、

 

長男が「トトの年齢と年齢的体力を考えると手術は避けたい」

 

「腹を切ると言うことはとっても大変なことなんだ」

 

「ベリーだって結局は切開手術して痛い思いして1ヶ月持たなかっただろ」

 

「トトが現状で命が尽きたのならそれはトトの天寿だと思えるけど、ベリーの時の様になると天寿だと思えなくなる」と言われ、「それもそうだ」と納得して手術をすることを止めた。

 

トトはこの大きなコブを抱えて少し不自由があるかもしれないが、私たちの手元から離れて病院に入院させられる方がもっと不自由なんだろうな泣

 

会陰ヘルニアの手術時も入院している間、先生や看護師さんたちから貰う食事を一切摂る事をしなかった笑い泣き

 

そうだった、この子たちは私たち家族からもらう食事以外は一切受け付けないから預けることが出来なかのだ笑い泣き

。。。箱入り犬。。。

 

先生も困るほど食べず、1日に1度、ご飯を食べさせに行った泣アセアセ 

 

2人の息子が独立して夫婦2人となってからの我が家にとってこの子たちが(ベリーは現在写真で家族参加)夫婦の会話の源笑

 

在りし日のベリー
 
ベリーが居なくなったけど、トトには1分1秒・・・
 
長く長く長生きして欲しいですねドキドキ
 

 

 

 

 



まさかのサイズ‼️


 先日21年使用してきた
ビルトイン食洗機が壊れてしまった
えーんえーんえーんワーン

人間とは不思議な者で
持っていない時代はその不便さで
事なきを得ていたのだが

便利な物を手にして
日々過ごしていたら、元の不便さには
戻ることが出来ない
魂

新しい物が設置されるまでの
15日間の不便なこと!

手で洗った食器を乾かすのに
当然ながら場所と布巾が必要でして
常に流し台に物が
散乱している状態
ナイフとフォーク赤ワイン
お茶カレー

物が片付かない流し台を見ては
1人でブタクサブツクサもやもや

我が家は旦那さんの帰宅が遅く
夕飯を食べるのが(旦那)
22:30〜23:00
の間なのだ笑い泣き

よって最後の洗い物をしたら
とっととお布団に行きたいので
自然乾燥で家事を📴

壊れる前は食洗機に入れ
スイッチをONでした…楽ぅ〜

そして待ちに待った新しい食洗機ハート音符

設置された夜
「やったぁ〜ヤッタァ〜」とウキウキで
食器を食洗機の中へ

21年前の庫内より若干小さいかな?
なんて感じながら
お茶碗にコップ
小皿
メイン皿
??????
ギザギザ魂

入らない!!

右に向けて…
正面向けて……

やっぱり入らない!

普段よく使うお皿が入らなかったガーン





 以前使用していた型番と

同じ物なのに

これだけは手洗いすることに


お箸やスプーンを入れるところも

小さくなっていて


カップやコップ置き場は

折りたたみ式に進化していた

👍スゴッ


ま、お皿の1枚や2枚は

手洗いします(^^)


食洗機の無い生活の方が

働く主婦にとっては必要不可欠だと


たった15日間で思い知らされた

バツレッドバツブルーバツレッド


ちなみに今回購入した物は

値段の観点から

以前同様「4人家族にお薦め」で、

少し値段を出せば

大きいサイズが入る「大き目」の

「大家族にお薦め」の

食洗機もありました


ほぼ旦那さんと2人なので

これで充分

ニヤリ


さて、これから

旦那さんの夕飯を作るとしますかカップラーメン

では流れ星