デンマークからドイツへ

 

1988年3月10日の午後。コペンハーゲンから、列車を乗り継いで、西ドイツ(現在のドイツ)に向かっています。デンマークは滞在時間6時間くらいでほぼ通過だけになってしまいました。コペンハーゲンでの乗り換えは1時間程度でした。やや遅れて列車が着いたので、急いで乗換えをして、自分たちが過ごすコンパートメントを探しました。これで、西ドイツのハンブルクを通ってフランクフルトの方に向かいます(実際には近くを通っただけでした)。フランクフルトはあのハイジが行ったところで当時のアニメからは大都会のように描かれていましたよね。アニメの中からの印象では、緑が全くない暗い印象の町でしたが、それでもその場所の近くに行けるというのは嬉しくなってきます。

列車は、途中で別の方向に行く車輌もついていますが、一応ハンブルクという文字が車両についている行先表示板に出ています。車輌は10両以上もつながっていますが、けっこうコンパートメントは埋まっています。後ろの方まで歩いていって、やっと、私たちは空いたコンパートメントを見つけました。どうでもいいことですが、この座席のデザインとYの靴下の色のデザインが一緒でYは喜んで足と座席を並べて写真を撮っていました。気が付くと列車は発車していました。発車後、私たちはすぐにぐっすりと寝入りました。

 

翌3月11日の朝、目を覚ましたのが7時前。どの辺りを走っているかを調べようと、停まった駅を見ました。ドイツ語で書いてありました。私は大学で一応ドイツ語を第2外国語で履修していたので読むことだけはだけはできました。読むだけです(笑)。もう、ハンブルクも通り過ぎてしまったようです。しかし、到着した駅名を読んで、大変なことに気付きました。今、停まった駅がどこかわからない!つまり、別のところに来てしまったのです!

昨日、乗る時にこの車輌だけ、妙にすいていたことを思い出しました。列車が行く方向が違うからだったようです。私は慌てて、2人を起こし、謝り、現在位置の確認とこれからどうすればいいかを、時刻表と格闘しながら考えるました。幸い、方向を外れてまだ1時間くらいしか経っていないようです。そのため、次の駅で降りて、元の路線へショートカットする路線の列車に乗れば本来の路線に戻れることがわかりました。予定より2時間近くロスしたことになります。今日、時間によっては、スイスのアルプスを少し見ようと思っていましたが、残念ながらなくなりそうです。

ライネという駅で乗り換え、元の路線までの列車は、ドイツの田園風景の中を朝の空気を乗せて颯爽と走る通勤列車でいい感じでした。ドイツ語が行き交う中、思いがけず、ドイツの通勤風景を見ることができ、早起きは3文の得になったことにしましょう(笑)。

 

結局、無事にもとのコースに合流できました。今日は、1日をかけてライン川を遡って、スイスに入り、一気にイタリアのミラノまで行く予定です。コースを外れた関係で、乗り換え時間は全体としては短くなってしまいました。

ケルンという町で途中下車しました。ドイツは、ソーセージがおいしいというので、何も考えないで、駅の売店で買ってみました。。。がそれほど美味しくない!それもそうでしょう。日本では蕎麦が美味しいとはいえ、駅の立ち食いでしたら、(雰囲気は別にして)普通の味ですよね。さらにAは自動販売機から、ジュースが出ないと怒る始末。どうも印象がよくありません。2時間くらいの間にちょっとだけ自由行動。だけど、もうお金が底をついてきました。というのは、お金自体がないというのではなく、国を変わる度にしている両替が追いついていないのです。そのため、個人のお金をみんなで共有し、夜に清算ということもしていたのですが、やっぱり厳しい。明日に行くイタリアの通貨リラに両替もしておかなければなりません。私はYと一緒に銀行へ行きました。しかし運悪く、今日は土曜日。今日の営業は午前で終了。私たちは残っていた、銀行員の人に頼み込んだ。

「It's  exchange a money.」

しかし、もう営業を終了したからできない、とのこと。

私たちは

「We go to Italy tomorrow bat tomorrow is Sunday!」

(明日は私たちはイタリアに行く予定ですが、明日は日曜日で両替ができないんです。という意味です)

と言うと、わかった、という顔をして、少しだけ両替をしてくれました。だけどすこし手数料が多かったけれど。

私の会社でドイツ人の方がいましたが、一般的にドイツ人は自分の業務範囲以外は決してしないという考えがありました。労働組合が強いとか、ドイツ人の気質とか、まあ考え方の基本のようです。それを考えると、上記の対応がかなりの譲歩というか裁量だったのかもしれません。

 

駅に戻ってYと別れて私は駅の待合室でポストカードを書いていると、日本人らしい人影。話してみると、家族でドイツを旅しているという女の子(20歳くらい?)でした。ドイツ語はしゃべれるの?と聞いてみると、英語だけとのこと。私も読むだけしかできないといって、大笑い。そのうちにAとYが戻ってきて、私を不思議そうな目で見る。

「いないうちに女の子に声をかけて!」

という顔をしています。まあ、これだけのことでしたが、彼女のご家族もちょうど来たので「よい旅を!」と家族の人にも言って別れました。

それぞれで印象が全く違ったケルンを後にして、スイスのバーゼル行きの列車は走り出しました。

 

お昼は食堂車に行きました。4人席に座っていると、30代くらいの女性がきて、(日本語訳をすると)

「この席に相席させてもらってもいいですか?」

と言ってきました。私たちが座っている席は、禁煙席。確かに禁煙席は他には空いていません。しかし、周りを見ると、喫煙席を見るとたくさん席は空いています。

当時の私たちは、

「ヨーロッパの文化は自分の主張を通して、個人を守る文化なんだなあ。」

「そこまでして煙草の煙が嫌なのか。」

という2点の感想でした。

前者は、まあまあその通りでしょうが、後者は当時の日本の喫煙に対する考え方が非常に遅れていたということを思ってしまいます。

80年代の日本は、鉄道は長距離列車を中心に喫煙可。飛行機も喫煙可。レストランは当然のように煙がモクモク。嫌煙権を主張すると変な目で見られました。

私は89年に社会人となり、最初の会社では事務所で仕事をしていたのですが、普通にみんな煙草を吸いながらの仕事。私は喘息を患っていることもあり、職場の先輩に勇気を出して言ってみたのですが、一蹴されました。

90年代になって、私は外食の世界に転職したのですが、外食産業も当然ながら喫煙が普通。90年代後半になってやっと実験的に禁煙席を設け、次第に禁煙席と喫煙可能な席のレイアウトとなり、そして健康増進法で現在に至るわけです。

とにかく、ヨーロッパでは、80年代に既に分煙ができていたわけで、こういった側面では日本より20年は進んでいたことになります。

伝統を重んじ、環境負荷低減を社会で普通に取り組んでいて、それでいて個人を尊重するという文化をこの食堂車から学び、やっと今になってその重要性に気づいてきたわけです。

 

食堂車では、美味しい肉料理をきれいな空気の中、列車に揺られてゆっくりと食べることができました。

 

話は変わります。日本でもよく、「〇〇ライン下り」という川を下る観光船がありますよね。私はそれまで線の意味のline(ライン)だと思ってました。もちろん当時はSNSどころかインターネットすらありませんでしたのでSNSのLINEでもありません。ライン川のRhine(ライン)が本家本元ということをこの時に知りました。

2人は疲れた表情で眠っていますが、列車はこのライン川に沿ってゆったりと走っています。ビジネスマンらしい人が乗ってきて大声のドイツ語でしゃべっています。私は、ライン川をボーっと眺めながら、子供の頃、よく絵本とかに出ていた、外国(ヨーロッパの)列車はこんな車両でこんな風景だったなあ。これに今乗ってるんだなあ。。。としみじみ思いました。感無量というより、このときは夢のように実感がありませんでした。

 

(次回へ続く)