人は悲しみと共に生きていく | 自分自神への扉☆TOSHI

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あなたが【本当の自分(自分自神)】を思い出す為の鍵(真理)をお渡ししています。


    

人は悲しみと共に生きていく


歯医者で歯の治療を受けている夢を見て、夜中の3時半に目が覚めた。(よほど歯医者が嫌なのだろうか)


仕方なくウィスキーのお湯割りを飲みながら書いている。(さすがに夜中は寒い北海道デス)




ボケーっとしていると、ふと、小学校時代の参観日の風景が頭に浮かんだ。

教室のドアから母が入ってきた瞬間のシーンである。

とても嬉しかった。

その時の記憶がまだ在ったのだなァ。



母はもうこの世に居ない。

一昨年、73歳で肉体を去った。

最後まで私の良き理解者であり、応援者であった。

感謝しても感謝し切れない。

私にとっては最高の親であった。



人は必ずいつかは大切な人を失う。

それが死別なのか生き別れなのかは分からないが。

私もその両方を経験している。

最も早かった別れは、私が19歳の時に親友Yが交通事故で亡くなった時だ。

その前日に電話で話をし、本来であれば、その日に酒を呑む約束をしていた。

母から電話があり、Yが亡くなった事を知らされた。

あの時の思考停止は未だに覚えている。

自宅のベランダに出ると満月だった。

冷蔵庫から冷えた缶ビールを2缶持ち出し、Yと乾杯した。(未成年だったけどネ)

その時、思わず口から出た言葉。

「お前の分まで生きるから、しっかり掴まっておけ」



2人分の人生を生きる事は容易ではない。

後にそう思った。

私は自分の分だけでなく、Yの分まで人生を味わったような気がする。

離婚も複数回した。

子供2人とも生き別れた。
(そのうち1人とは10年以上音信不通である)

きっと離婚を経験したのはYのせいだ。
(彼が生きていたなら彼が離婚を経験していたはずだ)

そう思いたい(笑)



あれから31年経った今でも、Yの墓参りには行けていない。

私の自宅から車で2時間ほどの距離であるのだが、どうも足が向かないのである。

私はまだ悲しみの最中にあるのかもしれない。

それは悲しみに抵抗し続けているという意味である。

Yを失った悲しみを受け容れていないという意味である。

だから墓参りには行けないのだと思う。



私は近年、何処からか何かからかのインスピレーションを受け取る事が多くなり、この世の真理なるものを知る機会が増えた。

どんなに考え抜いたところで知る由も無いような事を知り始めたのだ。

私は科学を20年以上に渡って研究してきた人間なので、その辺は良く分かる。

この世には奥深い真理というものが確かに存在しているのだ。

それは今のところ科学では解明されていない内容だ。

私がインスピレーションから知り得た内容の一つに、『人は生まれながらにして悲しみを抱いている』というものがある。(詳しく学びたいという方が居れば369個人講座を受講して頂きたい)

つまり、今世においてのみ悲しみを感じた訳では無いのである。

悲しみは過去世や先祖代々続いている。

それらを引き継いで我々は生まれてきているのだ。



従って、人は悲しみから逃れられない。

人は悲しみと共に生きていくものなのだ。

それは悲しみを乗り越えられないと言っているのではない。

悲しみを受け容れるしかないと言っているのだ。
(私も悲しみを受け容れられればYの墓参りに行けるのだろう)

悲しみを受け容れられれば、きっとそれは喜びに変わるのだろう。

共に生きていた時、共に感じ合っていた時の善き場面の方に意識が向けられ、失ったという悲しみが薄れるのだろう。

死別にしろ、生き別れにしろ、共に生きていた時が在った。

その時の幸福感なりに意識が向けば、人はきっと悲しみと共に生きていけるのではないだろうか。

それにしてもウィスキーのお湯割りが進む。
(今夜は久々に冷え込んでるなァ)


★【幻の自分(エゴ)】から【本当の自分(自分自神)】への過渡期の方へ捧げます。