(3.3③ 道灌謀殺から明応三年宗惴撃退[後編](岩付城太田氏築城説の再考)の続きです。全体の目次はこちら)
3.3④ 明応六年の『自耕斎詩軸并序』
本節では、岩付城築城者論の根本史料である『自耕斎詩軸并序』が書かれた明応六年(1497年)前後の情勢について取り扱い、太田氏築城説の立場から『自耕斎詩軸并序』が書かれた背景や狙いについて考察を行う。
『自耕斎詩軸并序』が書かれた明応六年(1497年)の情勢については、岩付城築城者に関する先行三説(黒田氏説・小宮氏説・青木氏説)において十分な深掘りが行われていないように思える。
本稿では、明応六年前後の情勢を踏まえ『自耕斎詩軸并序』がなぜこの年に書かれたか、という点についても説明を図りたい。また、この検討の中で、新たに浮上した仮説についても紹介したい。
その仮説とは、「鎌倉五山の高僧である玉隠英璵に『自耕斎詩軸并序』のような作品の作成を依頼できたのは、明応六年時点では扇谷上杉氏とその有力被官たけだったのではないか」というものである。
④ー1 明応六年前後の情勢
明応三年(1494年)十一月の岩付城への遠征・攻撃を撃退された伊勢宗惴は、その後、武蔵馬込(大田区)での戦いでも敗れ、伊豆国に帰国する。
その後は、扇谷上杉定正の養嗣子であった朝良が扇谷上杉氏の当主となり、山内上杉氏と対峙することになった。
明応四年(1495年)には大きな軍事衝突はなかったようである。
・相模国西郡の「一変」
軍事衝突が再開したのは、明応五年(1496年)七月である。
山内上杉氏の家臣長尾右衛門尉が、相模国に侵攻して陣城を構築。これに扇谷上杉氏方についていた長尾景春と伊勢宗惴の弟弥次郎が攻撃を仕掛けて合戦となった。長尾右衛門尉は、長尾景春の息子の景英であるとも言われ、その場合は、親子対決が行われたことになる。
合戦は、山内上杉氏家臣の長尾右衛門尉の大勝に終わり、伊勢弥次郎側は多くの戦死者を出し敗退したと言われる。
この時、相模国の西郡の中心拠点であった小田原城には、扇谷上杉氏方の武将が集結していたが、上の敗戦により小田原城は「自落」したという。
小田原城に集結していた扇谷上杉氏方の武将は、同城の「自落」を越後に伝えた山内上杉顕定の書状に書き残されている。
・大森式部少輔(小田原城主)
・刑部大輔(上杉朝昌、朝良の実父)
・三浦道寸
・太田六郎右衛門尉
・上田名字中
・伊勢弥次郎
小田原城には、実に多くの扇谷上杉氏方武将が詰めていたことがわかる。
三浦道寸は、もともと扇谷上杉氏の被官だったが、長享の乱初期には山内上杉氏方となっていた。ここで小田原城の籠城衆に名を連ねているということは、扇谷上杉氏が三浦道寸を再度従えていたことになる。扇谷上杉氏が一定の勢力回復を果たしていたことがわかり、興味深い。
本稿として最も注目すべき人物は、言うまでもなく太田六郎右衛門尉である。
太田六郎右衛門尉は、『年代記配合抄』において太田道灌の遺跡を継いだとされる人物である(『年代記配合抄』では「太田六郎右衛門」と記される)。太田六郎右衛門尉が、道灌謀殺後も扇谷上杉氏に従った太田氏の当主であることは、3.2節「『岩付左衛門丞顕泰』の比定」(リンク)で述べたとおりである。
太田六郎右衛門尉は、相模国西郡を防衛すべく、明応五年(1496年)七月には、小田原城にいたのだ。
小田原城の「自落」により、相模国は「西郡一変」とされる状況となった。扇谷上杉氏の相模国西部の支配は崩壊したか、少なくとも相当な混乱状態に陥ったのであろう。
・鎌倉は守られたか
小田原城を攻略した長尾右衛門尉は、その後、相模国東郡に向けて進軍し、中郡における扇谷上杉氏最大の拠点であった実田要害(平塚市)を包囲している。
なお、実田要害の城主は、太田氏に継ぐ扇谷上杉氏の重臣上田氏の当主上田正忠であった。
黒田基樹氏は、上田正忠が後の文亀二年に相模国守護代であり、鎌倉近所に館を構えていたことから、この時点で相模国守護代であったと推測している。また、道灌の代まで家宰太田氏が兼務していた相模国守護代が上田氏に与えられている点を指摘している(註1)。
道灌の代には、扇谷上杉氏重臣の中でも圧倒的な存在であった太田氏が、道灌の謀殺以降、その地位が相対化されていることが伺われる。
実田要害は攻略されたとの記録はない。
また、三年後の明応八年(1499年)には、扇谷上杉朝良が喪主となり、鎌倉で祖父扇谷上杉持朝の三十三回忌を執り行っていることから、相模国の少なくとも東郡は扇谷上杉氏の支配が保たれたことが伺われる。
相模国西郡の扇谷上杉氏の支配は瓦解したが、鎌倉や鎌倉が属する東郡は守られたと見てよいであろう。
・古河公方、河越城を攻める
相模国西郡への大規模な攻勢の後、次に危機に陥ったのは扇谷上杉氏の本拠地 河越城であった。
古河公方が、簗田・一色・佐々木・梶原・野田・印東・佐野・佐貫・桐生・小俟など「都合三千餘騎」を率いて武州上戸に張陣し、山内上杉氏とともに河越城を攻めたのである。
『松陰私語』によれば、この古河公方の河越城攻めは数ヶ月に渡って続けられてものの、結局河越城を攻略することはできず、最後は古河公方が体調を崩したことを機に退陣に至ったという。また、『松陰私語』は、古河公方の退陣は冬だったとしている。
この古河公方の河越城攻めの年次については、『松陰私語』に記されていない。研究者によって、明応五年(1496年)とする考え方と、明応六年(1497年)とする考え方があるようである。
山田邦明氏は、明応五年(1496年)派である。
氏は、
・明応五年(1496年)の山内上杉顕定の書状に、「当地」に「公方様」が来るので警護の武士を置いたとの記述があること、
・明応六年(1497年)九月に古河公方足利成氏が没しており、河越城攻めで体調を崩したのが前年の明応五年とすると辻褄が合うこと、
等を理由に、古河公方の河越城攻めを明応五年(1496年)のことと推定する(註2)。
この場合、明応五年七月の相模国西郡攻めの直後に河越城攻めも開始され、同年冬まで河越城包囲が展開されたことになる。明応五年という年は、扇谷上杉氏にとって亡国の危機に瀕した年だったことになる。
他方、則竹雄一氏は、河越城を攻めた古河公方は成氏の息子の足利政氏であるとし、河越城攻めは明応六年(1497年)に行われたとしている(註3)。
則竹氏は、古河公方による河越城攻めを明応六年とする理由を特に述べていないが、おそらく明応五年の書状で山内上杉顕定が相模国への出陣予定を記していることを受けてのことであろう。山内上杉顕定は、明応五年には相模国に出陣しているため、古河公方とともに河越城を攻めたのは翌明応六年になる、との想定であろう。
この場合、扇谷上杉氏は、明応五年には相模国を攻められ西郡を奪われ、翌明応六年には本拠地河越城を攻められたことになる。
筆者は、明応五年の時点で山内上杉顕定が古河公方の遠征を受け入れる準備を完了していたことから、山田氏の考え方がより蓋然性が高いと考える。しかし、則竹氏の考え方の可能性も否定できない。
いずれの説が正しいにせよ、扇谷上杉氏が、明応五年(1496年)の相模国西郡への攻勢の後、間を置かず本拠地河越城を攻められたという概要は変わらない。
・太田資康の死
扇谷上杉氏と山内上杉氏の抗争は、明応七年(1498年)にも引き続き行われたのであろう。合戦等の経緯は不明ながら、『赤城神社年代記録』には、太田資康がこの年に「生害」したとの記載がある。
実父太田道灌を謀殺した主家扇谷上杉氏を許せず、山内上杉氏方となって戦った太田資康の没年は二十三歳であった。
・扇谷上杉持朝の三十三回忌と両上杉の和睦
続く明応八年(1499年)も、扇谷上杉氏と山内上杉氏の間で、どのようなやり取りがあったかはわからない。
確かなのは、この年の十月に、両上杉氏が和睦に至っていることである。
そして、その1ヶ月前の同年九月に、扇谷上杉朝良が、鎌倉において祖父持朝の三十三回忌法要を執り行っていることである。
この扇谷上杉持朝の三十三回忌では、玉隠英璵が法語を行っている。3.1④節「『白羽扇指揮三軍』の重さ」(リンク)で紹介した、扇谷上杉定正を玉隠が諸葛孔明に喩えてその死を嘆いた法語である(註4)。
この法語は、持朝以降の扇谷上杉氏の数十年間にわたる歴史を振り返る内容となっている。山内上杉氏との抗争で存亡の危機に立たされた扇谷上杉朝良には、偉大なる祖父の三十三回忌において一族の歴史を振り返り、危機に立ち向かうべく、結束を固める意図もあったのではないだろうか。
また、鎌倉で三十三回忌を行うには、対山内上杉氏の要塞となっていた河越城を朝良が出なければならない。
翌月に和睦に至っていることを併せて考えれば、この明応八年九月の段階では、扇谷上杉氏は山内上杉氏による一連の攻勢をしのぎ切り、膠着状態に入っていたのではないだろうか。
※
明応六年(1497年)前後の情勢の確認は以上である。
明応六年(1497年)は、その夏に『自耕斎詩軸并序』が作成された年である。上の整理によって、この年が、
・扇谷上杉氏が山内上杉氏や古河公方の攻勢によって亡国の危機に瀕しており、
・しかし鎌倉はまだ扇谷上杉氏の支配下にあった、
という状況であったことが確認された。
『自耕斎詩軸并序』は、まさにこうした時期に、鎌倉五山トップの詩僧によって書かれたことになる。
『自耕斎詩軸并序』作成時のこうした情勢は、これまで十分に議論されていなかったのではないだろうか。
※
以降では、
・太田氏築城説は明応六年の『自耕斎詩軸并序』をどう説明するか、
・明応六年に『自耕斎詩軸并序』を作らせることができたのは誰か、
について論じていきたい。
(註1)
黒田基樹(2004年)『扇谷上杉氏と太田道灌』
(註2)
山田邦明(2015年)『享徳の乱と太田道灌』
(註3)
則竹雄一(2013年)『古河公方と伊勢宗惴』
(註4)
3.1④節(リンク)の註6に同じ。
扇谷上杉持朝三十三回忌法事での玉隠英璵の法語は、『信濃史料』にて活字で起こされている。
また、東京大学史料編纂所データベースで公開される謄写本の画像においては、以下URLにて当該記述部の閲覧が可能である。

(岩槻城址公園。岩付城本丸南の水濠跡地が公園化されている)