(3.3③ 道灌謀殺から明応三年宗瑞撃退[前編](岩付城太田氏築城説の再考)の続きです。全体の目次はこちら)
3.3 ③ 道灌謀殺から明応三年伊勢宗瑞撃退まで
③ー2 太田氏築城説は明応三年の宗瑞撃退を説明できるか
では、明応三年(1494年)におきた、扇谷上杉氏方の伊勢宗瑞による岩付城攻めと、古河公方の重臣である簗田氏によるその撃退について、岩付城太田氏築城説の立場からの説明を試みたい。
黒田氏説(成田氏築城説)と青木氏説(渋江氏築城説)がこの事件をどう説明しているかについては、2.2①節「伊勢宗瑞撃退」(リンク)にて検討済みであるため、同節を参照されたい。
・道灌謀殺から長享の乱初期
太田道灌の謀殺は、当然のことながら岩付城の「城代渋江氏」を動揺させたはずである。
本稿が想定する渋江氏は、享徳の乱の二十八年間、常に扇谷上杉氏家宰の太田氏に従ってきた存在である。太田氏の代理人として荒川(現在の元荒川)防衛線を守った渋江氏は、太田氏の武蔵国統治を支えつつ、同時に太田氏の強大な権限を背景として、周囲への勢力拡大も図っていたことであろう。
渋江氏は、享徳の乱以前から荒川対岸(東岸)への侵出を図っていた(青木氏指摘(カ)ー1)。こうした渋江氏の志向性と、本稿が想定する荒川対岸の古河公方への抑えとして岩付城を築城した太田氏の意向は、利害が一致するのだ。
享徳の乱終結後、古河公方方との和睦が結ばれたものの、太田道灌の権勢を虎の威としたであろう渋江氏は、周囲を圧するようになっていたのではないだろうか。
その最中の太田道灌の謀殺である。
寄親のような存在であった太田氏は、二派に別れる。今まで味方同士だった扇谷上杉氏と山内上杉氏は敵同士となり合戦に及ぶことになる。更に、二派に別れた太田氏は、両上杉氏それぞれに別れて戦うことになったのだ。
それまでの渋江氏は、巨大な権勢を誇った太田氏と、その太田氏が家宰を務めた扇谷上杉氏という二重の上位権力の庇護下にあった。
ところが、道灌の謀殺によって頼る太田氏は分裂・弱体化することになった。しかも、その上位権力の扇谷上杉氏も、太田道灌という傑物の支えを失った状態で、西関東最大勢力であった山内上杉氏との激突を迫られたのだ。
渋江氏の地位を保証した二重構造の上位権力は、そのいずれもが危機に瀕したことになる。
渋江氏は、激震したはずである。
扇谷上杉氏家宰の太田氏の寄子のような立場を継続することが、同氏にとって最善の選択なのか。太田氏の権勢を背景に荒川対岸を睨む同氏のあり方は、持続可能なのか。もしかしたら、これまで敵対してきた荒川東岸の古河公方方に鞍替えし、彼らの荒川西岸の橋頭堡となる道もあるのではないか。
古河公方と扇谷上杉氏という東西の二大勢力の境目に生きた渋江氏である。太田氏、扇谷上杉氏の両氏が衰退するならば、いっそ敵であった古河公方方に転じることも、選択肢に挙がったのではないだろうか。
しかし、渋江氏の懸念は杞憂に終わる。
太田道灌を失って弱体化するかと思われた扇谷上杉氏は、山内上杉氏との「関東三戦」を互角に戦い抜いた。そして、渋江氏にとって何より重要だったのは、同氏にとって荒川対岸の敵であった古河公方が、扇谷上杉氏支援に回ったことである。
渋江氏は、荒川西側の扇谷上杉氏と、東側の古河公方の間で、自身の身の振り方について悩まずに済んだのだ。
少なくとも、長享の乱の初期、すなわち長享二年(1488年)の開戦から延徳二年(1490年)の和睦までは。
・明応の再乱と渋江氏の転向
ところが、渋江氏にとって幸いだった扇谷上杉氏と古河公方の同盟関係は、明応の再乱期には消滅してしまう。
古河公方がいつの時点で扇谷上杉氏を見限り、山内上杉氏との同盟に踏み切ったのかは定かではない。しかし少なくとも、扇谷上杉定正が荒川渡河中に急死した明応三年(1494年)十月の時点で、古河公方が山内上杉氏側に付いたことは間違いない。古河公方が山内上杉氏と合流して高倉山(入間市)に張陣し、扇谷上杉氏方の伊勢宗瑞と対陣している。
筆者はこの時点で、渋江氏は転向したのだと考える。
扇谷上杉氏の奮戦を実現した扇谷上杉定正が急死する。そして、少し前から扇谷上杉氏を見限ったとの噂が流れていた古河公方が、明確に山内上杉氏に味方し、扇谷上杉氏討伐に向かったのである。
このまま扇谷上杉氏に従い続ければ、それは同氏に殉じることになる。そう判断した渋江氏は、扇谷上杉氏が太田氏に築かせた城郭・岩付城を土産に古河公方側に転向する。岩付城に、扇谷上杉氏あるいは太田氏から派遣された城主がいたなら、この時討たれ、渋江氏によってその首は古河公方側に届けられたのではないだろうか。
古河公方は、永年の敵であった渋江氏の寝返りを認めた。また転向の見返りとして、古河公方は渋江氏に岩付城と同地域の領有を安堵したことであろう。そしてその上で、背後の憂いを無くした状態で、河越城攻めに向かったのではないだろうか。
実は、このように考えることで、その後の伊勢宗瑞による岩付城への遠征も説明できるのである。
・伊勢宗瑞は転向したばかりの岩付城の奪還を目指した
明応三年(1494年)十一月の伊勢宗瑞の岩付城攻めは、筆者に言わせれば常識外の一手である。
もともと伊豆国の韮山城(伊豆の国市)から、130キロメートル以上の距離を越えて武蔵国まで遠征してきた伊勢宗瑞である。その宗瑞が、扇谷上杉定正の頓死の後、すぐに伊豆に逃げ帰ることなく、高坂に張陣して山内上杉氏と古河公方の連合軍による扇谷上杉氏攻めを妨害しただけでも大功績と言える。
しかし、宗瑞の活躍はそれに留まらなかった。その上で宗惴は、更に高坂から30キロメートル東の岩付まで遠征し、古河公方の重臣である簗田氏と合戦に及んだのだ。
何度も繰り返してきた通り、岩付は、扇谷上杉氏と古河公方の境目に当たる地域である。伊勢宗惴の岩付遠征は、今や扇谷上杉氏の敵に回った古河公方が、今後扇谷上杉氏の領国を浸食してくることを予期し、それを防ぐべく国境を固めようとの意図で行われたと考えられよう。
しかし、筆者はここで疑問に思うのである。
黒田氏説では、岩付地域は以前から一貫して古河公方の勢力圏である。青木氏説では、享徳の乱期のいずれかの段階で山内上杉氏の被官の渋江氏が岩付城を築城し、以降その政治的位置を保ったと理解されている。
いずれの説においても、岩付地域は、明応の再乱よりはるか以前から扇谷上杉氏以外の勢力の支配下にあったことになる。つまり、伊勢宗瑞の明応三年(1494年)の岩付遠征は、この時点で敵である古河公方あるいは山内上杉氏の伝統的な領地に、宗瑞が攻め込んだことになるのである。
扇谷上杉定正の頓死以降、山内上杉氏・古河公方連合の攻撃をしのぐことに注力していた宗瑞が、次に古河公方との間の国境を固めるべく東征した場合に、果たして敵の伝統的な領地を削ろうとするだろうか。
敵の伝統的な領地を削る行為には、相応の軍事力が必要であり、さらに削った土地に駐屯する兵力も必要である。
ある程度戦って、扇谷上杉氏側の体勢を立て直したところで伊豆国に退却することになる伊勢宗瑞の軍事作戦として、敵の伝統的な領地を切り取るという行為は、筆者には相応しいものには思えない。
むしろ相応しいのは、扇谷上杉氏側にとって、伝統的な領地であり、対古河公方の前線として機能していた城や地域を整備する行為ではないだろうか。仮にそうした地域が一時的に古河公方側に占拠されていたなら、戦上手な伊勢宗瑞が奪還し扇谷上杉氏の配下をそこに配置し直すという行為が取られたことであろう。そうした行為は、実施可能であり、また奪還後の維持も可能であるからだ。そして、古くから機能していた前線基地を再整備できたならば、それは防衛体勢の立て直しに、大いに貢献するばすである。
しかし、黒田氏説や青木氏説では、伊勢宗瑞はそうした常識的な軍事作戦を取らず、敵の伝統的な領地への攻撃を行ったことになる。仮にその地を占拠したとしても、伊勢宗瑞はそれを維持する立場になく、また現地勢力である扇谷上杉氏側にもその地の統治実績がないというのに。
なぜ、伊勢宗瑞は、そのような現実的とは思えない軍事作戦を取ったのか。
しかし、本稿の仮説を採用すれば、こうした伊勢宗瑞の軍事作戦への疑問は氷解する。
本稿の仮説では、伊勢宗瑞が攻撃した岩付城こそが、扇谷上杉氏の伝統的な対古河公方の前線基地であったことになる。転向したばかりの今ならば、城内にも古河公方側につく判断に懐疑的な勢力も残っているであろう。
古河公方と山内上杉氏が連合までして攻めたが扇谷上杉氏の攻略はならず、古河公方陣営は戦果も無いままに帰国したばかりである。古河公方側につく判断は失敗だったのではないか、と岩付城内に揺り戻しがきているこのタイミングで急襲すれば、岩付城は奪還が可能であろう。
しかも、岩付地域は伝統的に扇谷上杉氏方の勢力圏であり、統治の実績もある。岩付城と岩付地域を取り戻せば、古河公方側への前線基地として再度機能させられるのである。
こうした条件が揃えば、伊勢宗瑞が古河公方陣営の撤退に合わせて岩付城を襲ったことは、極めて合理的な判断として捉え直すことが可能になる。
そして、明応三年の伊勢宗瑞の岩付遠征は、「太田氏築城説でも説明できる」ではなく、「太田氏築城説を採用してこそ、最も合理的に説明できる」政治・軍事的事件となるのではないだろうか。
もちろん、異なる見方も可能である。
・記録に残らなかっただけで、宗瑞は岩付地域を除けば扇谷上杉氏勢力圏の東端にあたる足立郡の前線基地の整備をした、
・その上で更に、古河公方あるいは山内上杉氏の伝統的な前線基地である岩付城に一定の打撃を加えたのだが、この行為のみが記録に残った、
とする考え方である。
この考え方も十分成立するが、難点もある。それは、足立郡に岩付城を仮想敵とする前線基地としての城郭に関する伝承や遺跡がないことであろうか。岩槻支台から大宮浦和支台地に渡る地点に位置する伊奈町の丸山城であればこの役割を果たせたかもしれないが、同城の築城期は、後の天文年間以降とされている(註1)。
・「合力」の意味
こう考えると、青木氏が指摘した足利政氏書状に見える「合力」も説明することができる。
本稿の仮説では、簗田氏が支援した岩付城の在城勢力は、扇谷上杉氏を裏切ったばかりの渋江氏である。
本稿の想定では、渋江氏は、享徳の乱の二十八年間を通じて扇谷上杉氏とその家宰太田氏に従った存在であり、常に古河公方陣営の敵であったことになる。
そのような永らく敵であった勢力が、急遽転向して味方になり、古河公方側としては扇谷上杉氏を制するためにも是が非でも支援しなけれぱならない存在となった。しかし、服属して僅か数ヵ月のこの勢力は、まだ古河公方被官の中で新参者であり、外様である。
このようなまだ外様色の残る勢力を、古参の重臣である簗田氏に支援させたならば、それを「合力」と表現するのは何ら不思議ではなく、むしろ自然なことであろう。
以上で、明応三年の伊勢宗瑞の岩付城攻めと簗田氏の「合力」による宗瑞の撃退に対する新・太田氏築城説の立場からの説明を終える。
この一連の政治的・軍事的事件は、岩付城の在城勢力であった渋江氏が、明応の再乱を機に扇谷上杉氏を裏切り、古河公方陣営に転向したと考えれば、すべて合理的に説明されるのである。
この仮説の説明の合理性は、黒田氏説や青木氏説のそれにむしろ優るのではないかと筆者は考えるものであるが、むろんその評価は読者諸兄に委ねたい。
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次節では、『自耕斎詩軸并序』が書かれた明応六年(1497年)という年の政治情勢を検討する。
筆者はここで、明応六年に鎌倉五山の詩僧に『自耕斎詩軸并序』のような詩序の作成を依頼できた政治権力は、扇谷上杉氏もしくはその有力被官だけだったのではないか、という新たな仮説を提起したい。
