3.3 ③ 道灌謀殺から明応三年伊勢宗瑞撃退まで

本節以降、従来の太田氏築城説が説明をなし得なかった岩付城の政治情勢(評価軸B郡)に対して、本稿の新・太田氏築城説の立場から“整合的な説明”を試みる。

本節では、まず明応三年(1494年)の足利政氏書状(前出)に見られる、伊勢宗瑞の岩付への遠征と簗田氏による撃退(評価軸Bー①青木氏指摘(カ)ー2)について取り上げたい。

以下、はじめに当時の情勢を概観(註1)し、その後太田氏築城説の立場から“整合的な説明”を試みるという構成を取る。

なお、当時の情勢は2.2①節「2伊勢宗瑞撃退」リンク)においても概説しており、以下展開する太田道灌の謀殺から明応三年までの情勢変化に関する記述の一部は内容的に重複する。煩わしさをお感じの読者は、適宜読み飛ばしていただきたい。


③ー1 道灌謀殺から明応三年までの情勢

・享徳の乱後の道灌の権勢

長尾景春の乱の鎮圧(文明十二年(1480年))、その後の「都鄙和睦」締結による享徳の乱の終結(文明十四年(1482年))により、その立役者となった太田道灌の権勢は最高潮に達したと言われる。

道灌の活躍は、主家である扇谷上杉氏の地位を高めた。
元来、関東管領である山内上杉氏を上位権力者とし、扇谷上杉氏は山内上杉氏に従う立場との関係にあった両家であったが、享徳の乱後期からは、「両上杉氏」と称されることが増える。

そもそも、相模国・武蔵国南部は扇谷上杉氏が永享の乱・享徳の乱前期を通じて領国化を進めていた地域であったが、この二国には山内上杉氏の被官も多く、その支配はパッチワーク的にならざるを得なかった。しかし享徳の乱後期に起きた長尾景春の乱によって、相模国・武蔵国の山内上杉氏被官はみな道灌に従うようになった。これにより、扇谷上杉氏のこの二国に対する支配は面的なものとなり、その完成度を大幅に高めたのである。
対して、山内上杉氏は、相模国・武蔵国の有力被官を失い、その支配地域は武蔵国北部と上野国に限定されていくこととなった。
山内上杉氏と扇谷上杉氏は、前者が後者を圧倒していた情勢から、両者が双璧として並び立つ情勢への移行したのである。

また扇谷上杉氏陣営内部においても、家宰太田道灌の権勢は、並ぶ者がいない程になっていた。
文明十七年(1485年)に、京都五山の著名な詩僧であった万里集九が、太田道灌の招きで江戸城に入り、庵を与えられ、以降江戸城内に暮らすことになった。その集九は、『梅花無尽蔵』の中で太田道灌とその主君扇谷上杉定正を「二天」と呼んでいる(『梅花無尽蔵』第二)。道灌が主人定正と台頭、あるいはそれ以上の権勢を振るっていたことが伺えよう。
そもそも、万里集九は関東にも知られた著名な詩僧であり、京都時代に関東の扇谷上杉定正に求められ作詩したことがあった(『梅花無尽蔵』第一の「贋釣亭」前文)。道灌は、主人定正にとってそのような存在である万里集九を京都から自身の城に招いて住まわせ、さらに定正を江戸城に招いて集九歓待の宴を開いたのだ。
見方によっては、主君を越える自身の力を周囲に見せつけるような振る舞いとも言えよう。

万里集九は、この江戸城滞在期間に、『静勝軒銘詩并序』を作成し、道灌の功績・人格を称えている。『静勝軒銘詩并序』は、集九が序を書きその後に複数の著名な詩僧が詩を連ねる形式の作品である。詩を寄せたのは、万里集九以外には、建長宗猷軒玉隠と建長易安竺雲の二名である。
前者「建長宗猷軒玉隠」は、後に『自耕斎詩軸并序』の作者となる玉隠英璵である。
後者「建長易安竺雲」は、『自耕斎詩軸并序』に登場する「聴松住持龍華翁」(2.1④節「失われた詩画軸」リンク)参照)に対して「信濃史料」編纂者が比定した僧・竺雲顕騰である。
『自耕斎詩軸并序』の“関係者”が、『静勝軒銘詩并序』に登場していることは、興味深い。

なお、名の知られた詩僧が序を書き、その後に複数の著名な詩僧が詩を連ねる形式の作品は、道灌が愛したものであるが、その三作品がここに揃ったことになる。

・「寄題江戸城静勝軒詩序」(蕭庵龍統が詩序、村庵霊彦ら四人の詩僧が詩を寄せる構成)
・「左金吾源太夫江亭記」(暮樵得公が本文を書き、武陵興徳ら四人の詩僧が詩を寄せる構成)
・「静勝軒銘并序」(万里集九が詩序を書き、玉隠ら四人の詩僧が詩を寄せる構成)

前者二作品は文明八年に、最後の静勝軒銘并序は文明十七年に、それぞれ作成されたものである。

2.1④節「失われた詩画軸」リンク)でも述べた通り、こうした形式の作品は、道灌の上位権力者であった扇谷上杉氏や山内上杉氏の当主や有力家臣にも見られないものである。
道灌の優れた文人性を示すとともに、政治的にも相模国守護代として鎌倉を直接支配する存在であったことが、道灌をして鎌倉五山の詩僧達と特別な関係を築かせたと見ることができよう。

・道灌謀殺

しかし、権勢を誇った太田道灌であったが、文明十八年(1486年)に謀殺される。主君である扇谷上杉定正の指示によってなされたものであった。

道灌謀殺の理由はさまざま挙げられているが、『上杉定正状』における定正自身の弁によれば、道灌が山内上杉顕定に従わなかったために、定正が道灌を誅したとされている。

太田道灌は、長尾景春の乱の鎮圧を通じて南関東の山内上杉氏の被官を事実上差配する地位を獲得していた。乱鎮圧後に、南関東の山内上杉氏の被官らに対する領地のあてがい等を道灌が山内上杉氏に提案し、山内上杉氏側がそれを拒否する姿勢を見せていたことは『太田道灌状』から伺える。

また、扇谷上杉定正も、自身を凌ぐ権力者となっていた道灌の権勢を懸念していたと考えられる。

こうした情勢を踏まえれば、扇谷上杉定正は、
・山内上杉氏との対立解消のために、山内側が最も警戒した太田道灌を自ら排除した、
・道灌排除は、扇谷上杉氏としても主家を脅かす有力家臣を排することを意味し、同氏としても権力の維持に役立つものと考えた、
と考えられるであろう。

しかし、山内上杉氏との対立解消と自身の権力維持という一石二鳥を狙った扇谷上杉定正の道灌謀殺は、裏目に出る。

山内上杉氏は、道灌排除を以て扇谷上杉氏との対立関係は解消されたとは考えなかった。むしろ有力家臣を排して弱体化した扇谷上杉氏を攻めやすいと考え、同氏との軍事抗争に及んだのである。
扇谷上杉定正は、道灌の排除によって国力を削いだ状態で、山内上杉氏との合戦に臨むことになった。

これが「長享の乱」である。

・長享の乱の初期の展開

両上杉氏が実際の合戦に及んだのは、長享二年(1488年)のいわゆる「関東三戦」からである。「関東三戦」の命名者は、太田道灌に心酔し多くの詩文を残した詩僧万里集九である。集九は、長享の乱の渦中の関東にあり、合戦の登場者らの戦陣を訪ねつつ、当時の情勢を『梅花無尽蔵』に記している。
しかし、合戦が行われたのは長享二年(1488年)であったが、衝突避けられずの時代の気配はそれ以前からあったのであろう。扇谷上杉氏はその前年の長享元年(1487年)に江戸城の修築をしている。

「関東三戦」の最初の合戦は、長享二年(1488年)二月の相模実蒔原合戦(伊勢原市)であった。
扇谷上杉氏の本来の本拠地であった糟屋(伊勢原市)を山内上杉氏が急襲したことで起こった合戦であり、この時、扇谷上杉定正は河越城から二百余騎を率いて駆けつけ、千騎に及ぶ山内上杉勢を撃破したと言われる。

第二戦は、同年六月に起こった武蔵菅須谷原合戦(嵐山町)である。山内上杉氏側の河越城攻めに扇谷上杉氏が応戦して展開された合戦であり、万里集九が『梅花無尽蔵』に双方の死者を「七百余」記したことでも有名であり、大規模な衝突であったことがわかる。
この武蔵菅須谷原合戦以降、扇谷上杉定正は、長尾景春や古河公方足利成氏を味方につけることに成功しており、長尾景春は合戦にも参加している。

第三戦は、同年十一月の武蔵高見原合戦(小川町)である。この合戦は、扇谷上杉定正が、山内上杉顕定の本拠地鉢形城を攻撃したことが契機となったものである。それまで山内上杉氏側に攻め込まれるばかりであった扇谷上杉氏が、三戦目にして反撃に出たことになる。
また、この合戦では、古河公方足利成氏も出陣し、扇谷上杉定正と同陣して山内上杉氏を攻めている。国力では山内上杉氏に劣後する扇谷上杉氏であったが、周辺勢力と結ぶことで山内上杉氏との連戦を有利に運んだことが伺われる。

山内上杉氏との三連戦を、結果としてほぼ互角の形勢で戦い抜いたことは、扇谷上杉氏にとっては大きな意味を持ったことであろう。

この「関東三戦」以降も、両上杉氏の間で抗争は続き、延徳元年(1489年)には扇谷上杉定正の養嗣子の朝良が相模国三浦郡を攻めている。山内上杉氏方についた三浦氏を帰参させるためのものだったと考えられる。
しかし、扇谷上杉氏と山内上杉氏の本隊同士の衝突は記録には見えず、延徳二年(1490年)には和睦に至っている(註2)。

太田道灌を謀殺し、扇谷上杉氏衰退の遠因をつくったと批判させる扇谷上杉定正であるが、この「関東三戦」での戦いぶりや、後に玉隠英璵がその死を「惜哉惜哉」と嘆いた(註3)ことからも伺えるように、実際には相当の力量を持つ武将だったのではないだろうか。

・太田氏の動向

「関東三戦」が展開されていた時、太田氏はどうしていたか。

道灌謀殺以降の太田氏には、
・扇谷上杉氏方に残った、道灌の養嗣子と考えられる「太田六郎右衛門尉」
・山内上杉氏方となった道灌の実子太田資康(六郎右衛門尉、もしくは六郎左衛門尉を名乗った)
という二人の後継者のもとに二派をなし、扇谷上杉氏方と山内上杉氏方に別れて抗争を展開したことは、3.2節「」『岩付左衛門丞顕泰』の比定」リンク)において論じた通りである。

同節において、万里集九が戦陣にあった太田資康を訪ねたことも紹介したが、これが「関東三戦」の第二戦にあたる武蔵須賀谷原合戦の時のことである。万里集九が、資康を支援する者の少なさを嘆いた(『梅花無尽蔵』の「希扶佐二千石之孤資康」より)のもこの時である。

「関東三戦」の時点において、太田氏は既に養嗣子派と実子派に別れ、両上杉氏の抗争に参加していたのである。

・岩付城の動静

長享の乱の初期、すなわち長享二年(1488年)の開戦から延徳二年(1490年)の和睦に至る二年間において、岩付城の動静を伺わせる史料は存在しない。

そもそも、岩付城の一次史料の初見は、明応三年(1494年)の足利政氏書状(前出)とされている。それ以前に岩付城が登場する一次史料は存在しないため、長享二年(1488年)から延徳二年(1490年)の二年間の岩付城の動静を知ることができないのは、ある意味で当然のことと言える。

しかし本稿は、上で述べた両上杉氏の抗争の展開から、当時の岩付地域の情勢を推測してみたい。
まず、両上杉氏が合戦を展開した地は、いずれも荒川・利根川以西の「西関東」である。これは、長享の乱が「西関東」の北側を領国とする山内上杉氏と、南側を領国とする扇谷上杉氏が衝突した抗争であったことを考えれば、当然の帰結であろう。「西関東」の東端に位置する岩付地域は、両上杉氏が抗争する際に両者が衝突し合う場所とはならないのである。

岩付地域が合戦に巻き込まれるのは、荒川・利根川以東の古河公方陣営が、両上杉氏の抗争に参戦した場合であろう。それも、岩付地域が、扇谷上杉氏の勢力圏と古河公方の勢力圏の境目に位置したことを考えれば、同地域が係争地となりやすいのは、古河公方が山内上杉氏側について扇谷上杉氏を攻める局面においてである。

しかし、長享二年(1488年)から延徳二年(1490年)の二年間において、古河公方は扇谷上杉氏側に味方し、合戦においても同陣(武蔵高見原合戦)している。両者の境目に位置した岩付地域は、戦乱には巻き込まれにくい状況にあったと考えてよいであろう。

・明応の再乱

延徳二年(1490年)に和睦に至った扇谷上杉氏と山内上杉氏であったが、その四年後の明応三年(1494年)には、抗争を開始することになる。これを「明応の再乱」と言う。

明応の再乱を促したのは、当時伊豆半島を制圧した伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)の存在だったと言われている。
伊豆国は山内上杉氏の領国でもあったため、同国力を制圧した伊勢宗瑞は山内上杉氏を敵に回すことになった。ここに、敵の敵は味方の論理が働き、伊勢宗瑞が扇谷上杉定正と組んで山内上杉氏に対抗する構図が形成されたのである。

明応三年(1494年)の八月には、抗争の再開が予感されていたのであろう。扇谷上杉定正は、松山城(吉見町)・稲付城(北区)の整備を行い、合戦に備えたことが『松陰私語』に見える(註4)。

合戦は、扇谷上杉氏側が仕掛けたようであるが、戦果を挙げたのは山内上杉氏側であった。山内上杉氏側は、八月に武蔵国関戸要害(多摩市)を、そして九月には相模国玉縄要害(鎌倉市)を攻略したのであった。

しかしその後、伊勢宗瑞が箱根山を越えて関東に入り、また河越城・江戸城の扇谷上杉氏勢が山内上杉氏本拠の鉢形城(寄居町)の攻撃に向けて出陣したとの情報が入り、山内上杉氏勢は藤田(寄居町)・小舞田(深谷市)に退陣する。

伊勢宗瑞は、山内上杉氏方となっていた三浦氏の三崎要害(三浦市)を攻略しつつ武蔵国久米川(東久留米市)に着陣し、扇谷上杉定正と会談を行った。
そして十月には両軍は北上して高見原(小川町駅)まで進み、荒川を挟んで山内上杉氏と対陣したのである。

しかし、ここで異変が起こる。
荒川を渡ろうとした扇谷上杉定正が落馬し、頓死してしまったのである。大将である扇谷上杉定正の急死により、情勢は大きく動くことになった。

・伊勢宗瑞の奮戦

攻勢に出るはずだった扇谷上杉・伊勢宗惴連合軍は、大将定正の急死を受けて退却し、河越城に入る。攻守が入れ替わり、一転して山内上杉勢が扇谷上杉・伊勢宗瑞連合の籠る河越城を攻める構図となる。ただし、河越城の守りは堅く、落城させるには至らなかった(松陰私語)。

しかし、扇谷上杉・伊勢宗瑞連合の難は、これでは終わらなかった。それまで扇谷上杉氏と同盟していた古河公方足利成氏・政氏父子が、山内上杉氏側として参戦し、河越付近に進軍してきたのである。
古河公方側は、明応の再乱の少し前から山内上杉氏との同盟に鞍替えしていたらしい(註5)。扇谷上杉定正の急死を好機と見て、参戦を決断したのであろうか。

この危機にあたり、伊勢宗瑞は高坂(東松山市)に張陣し、高倉山(入間市)に着陣した山内上杉氏・古河公方連合と対峙する。戦果を挙げられなかった古河公方側は、公方が体調を崩したこともあり、退陣することになった(松陰私語)。

伊勢宗瑞の奮戦はこれで終わらなかった。その後十一月になると、おそらくは古河公方らの退陣を見計らって、足立郡そして岩付方面に進撃している。

敵が大軍で押し寄せる時には、河越城を出て張陣し、敵が河越城一点を完全包囲する状況を回避する。敵が退陣すれば、むしろ攻勢に転じる。
伊勢宗瑞が、扇谷上杉定正の急死後に見せた活躍は見事の一語であろう。一代で伊豆国・相模国の二国を経略したその将才は、こうした危機の場面で遺憾なく発揮されたと見ることができる。

・明応三年、伊勢宗瑞の岩付遠征と敗退

さて、ここまで来ていよいよ本節の本題であるら、明応三年(1494年)の伊勢宗瑞の岩付遠征と敗退が登場する。

青木氏が紹介した明応三年と推定される足利政氏の簗田氏宛の書状の文面を再度確認したい。この書状には「宗瑞敗北、偏其方岩付江合力急速故候、戦功感悦候」とあり、
・伊勢宗瑞が岩付を攻めたが、
・簗田氏が急速に岩付に向かい、合力したため、宗瑞は敗北した、
ということがわかる(青木氏指摘(カ)ー2)。

言うまでもなく簗田氏は、古河公方に仕えた重臣中の重臣である。
青木氏は、足利政氏が家臣簗田氏による岩付への援軍行為を「合力」としている点に注目し、「ここでの簗田の行為が『合力』であることからすれば、この当時の岩付城は古河公方の配下に属する城ではなく、古河公方が加勢した山内上杉氏勢力の城であったことが窺われる」と論
じる。

「合力」の一語から、そこまで断定できるかはわからないが、しかし明応三年のこの時点で、岩付城勢力が、伊勢宗瑞と敵対関係にあったことは間違いない。

そして、伊勢宗瑞がこの時点では扇谷上杉氏の同盟者であり、扇谷上杉定正の死後、扇谷上杉氏の窮地を救う立場にあったことを踏まえれば、この時の岩付城勢力は扇谷上杉氏と敵対関係にあったことになるのだ。

信頼できる一次史料が示す、岩付城勢力と扇谷上杉氏の敵対関係。これを、岩付城太田氏築城説は説明できるのか。

これを、次の③ー2で考えていきたい。



(註1)
則竹雄一『古河公方と伊勢宗惴』、山田邦明『享徳の乱と太田道灌』、黒田基樹『図説 太田道灌』を参照した。

(註2)
黒田基樹氏は、延徳二年(1490年)には古河公方による忍城攻めが行われ、山内上杉氏方だった成田氏がこれを機に古河公方の被官となった可能性があることを、「総論 戦国期成田氏の系譜と動向」において指摘している。

(註3)
『玉隠和尚語録』に収録された、扇谷上杉持朝三十三回忌法事での玉隠英璵の法語における一節。
当該の法語は、『信濃史料』にて活字で起こされている。

また、東京大学史料編纂所データベースで公開される謄写本の画像においては、以下URLにて当該記述部の閲覧が可能である。

(註4)
なお、稲付城の「稲」は『松陰私語』において、“草冠の下に稲”という構成で書かれているとされている。
「会計ねこ子」氏は、この字が本当に「稲」であったかについて疑問を呈している。そして、
「岩付」を草書体で書いたものが、その「岩」が“草冠に稲”に誤読された可能性も検討すべきであるとの指摘を行っている。

「岩付」は「厳付」と書かれることもあった。
「厳」を草書体で書いたものが、“草冠に稲”と誤読されたことは、可能性の一つとして検討に値すると、筆者も考える。
専門家の意見を伺いたいところである。

(註5)
古河公方側が山内上杉氏に味方する判断を行った時期については、明応三年十月の扇谷上杉定正の急死より以前に遡る可能性があるとの指摘が、様々な論者によってなされている。

黒田基樹氏は「総論 戦国期成田氏の系譜と動向」において、明応の再乱の初期から古河公方が山内上杉氏に味方していた可能性があり、その時点から岩付城の存在が一次史料で確認される明応三年十一月までの間に、「成田正等」による岩付城築城がなされたと論じる。

山田邦明氏も、『享徳の乱と太田道灌』において、古河公方が扇谷上杉定正の急死以前から山内上杉氏に味方していた可能性を指摘する。

また在野の研究ながら、一次史料に基づいて、古河公方が長享二年(1488年)の末時点で、扇谷上杉氏を見限る方針を示していたとする指摘も存在する。
この指摘は、明確に根拠史料を提示している点において、状況証拠的な議論に留まる黒田氏、山田氏の指摘よりも信頼度が高い。在野の研究者が学術研究者を凌ぐ議論を行った事例の一つと言えるである。
筆者はこの指摘の存在を知り、深く敬服するとともに、大いに勇気づけられた。

(岩付城 新正寺曲輪跡を北側から望む)