前回は、県道2号線に沿って、三ノ丸跡である「城址公園入口」交差点まで迫ってしまいましたが、やはり城は表玄関から入るべきもの。

踵を返して、渋江交差点に戻ります。↓

渋江交差点で左折(岩槻駅側から来たなら右折)するのが、岩槻城の表玄関(=大手門(追手門)に向かう道。

岩槻城絵図で見てみます。↓
加倉口から大手門へのルートを示す黄色い矢印群で言えば、上から3つ目の矢印から上から2つ目の矢印に、右に直角に折れるルート。
これが、岩槻駅側から来た場合の渋江交差点での右折に当たります。↓

繰り返しになりますが、私は三ノ丸側から来ているので渋江交差点を左折。

岩槻で蕎麦と言えば必ず名前が挙がる「手打ち蕎麦 彩の実」さんの看板が見えてきます。↓

この道を少し進むと、「時の鐘」の看板。↓
 
看板の通りに左折して、ちょっとだけ時の鐘を見てみました。↓

埼玉で「時の鐘」というと川越が有名ですが、岩槻にもあるのです。

3年前、妻の闘病中は、この「時の鐘」の音をよく耳にしました。最近は“あっ、時の鐘の音だ”となる機会が減りました。

生活パターンが変わったからなのか、妻の闘病中は五感が鋭敏だったのか。

『岩槻城は誰が築いたのか』の小宮勝男氏は、江戸時代に川越城と岩槻城に揃って時の鐘が置かれたのは、両城が太田道真・道灌親子が築いた兄弟城の関係にあったと理解されていたからだ。との見解をブログで示していましたが、味わいのある考察だと思います。

「時の鐘」からまた「手打ちが 彩の実」さんの通りに戻り、先に進むと、「広小路」の看板が出てきます。↓

この広小路が、大手門(追手門)に繋がっていきますので、左折します。

現代の広小路の風景。↓

ただの住宅街です。
しかし、写真には出ていないのですが、かつて武家屋敷が並んでいたことが頷けるような雰囲気が少し残っているのも確か。
写真には納めていませんが、大きな、そして立派なお屋敷が多いのです。

電柱にあった「太田一丁目」を思わずパシッ。↓

更に進むと、左に曲がりながら下っていく細道が。あ、影が写ってしまった。↓

この付近が、岩槻城絵図に描かれた「冠木門」のあたりのはず。↓

道が細くなり、空堀を挟んで対岸の三ノ丸の櫓(やぐら)から“横矢”を射掛けられる地形になっています。

盾でなく、武器を持つ右手側から相手に矢を射掛けられ?(鉄砲も)構造ですので、いわゆる「横矢掛かり」だと言ってよいと思います。

しかし、残念ながら今日は、横矢を掛けてきたであろう、空堀の対岸の三ノ丸が見えません。

三ノ丸はフェンスの向こう。↓

このフェンスの向こうは、宗教団体の私有地。
フェンスの向こう側に深い空堀が広がっていることは何となく感じられますが、写真は取れません。

岩槻城の大手門(追手門)付近の“武”のリアリティを感じさせてくれる地形が残るこの地域。

残ったのは、宗教団体の私有地となったおかげなのでその点は感謝しなければいけませんが、大っぴらに眺めることができないのはやはり少し残念ですね。

岩槻城に限らず、どこのお城跡でも共通のことではありますが。

ちなみに、以前はこのフェンスに、「岩槻古城八景」がここからの眺めであることを示す板があったと記憶していましたが、今回は見当たりませんでした。

最後は下り坂。↓

この下り坂を降りた先に大手門があったのでしょう。

岩槻古城八景に描かれた大手門。↓
(撮影:はみ唐、2017年10月

坂を降りると県道2号線。
右折して少し進むと、「城址公園入口」交差点に戻ることになります。

さて、表玄関から岩槻城に入りましたので、次は本丸、二ノ丸に向かってみたいと思います。